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Category: 学びの種

僕のヒーローアカデミア

子供に「僕のヒーローアカデミア」を見ろと言われ、ここ最近、少しずつ見ている。最初、ちょっと絵が苦手な感じがして見ていられないんじゃないかと思ったけど、なかなかどうして、けっこうハマって見ている。
「個性」と言われる力を多くの人が発現する超人社会が舞台になっており、その力を使って犯罪と戦ったり救助を行う「ヒーロー」と呼ばれる職業が定着しているのが、このアニメの世界だ。主人公は、その力を発現しなかった「無個性」から最高のヒーローを目指して成長していくという物語だ。そして、そのヒーローを養成している学校に主人公は入学を果たす。年齢的にはこの学校は今の高校生に相当している。

今さら書くまでもないが、昔の漫画やアニメでは善玉悪玉がはっきりしていた。しかし最近のアニメでは善玉悪玉の境界がとてもあいまいだったり、そもそも無かったりする。それぞれのアニメの中では一見悪そうに見えるキャラクターにも一定の正しさがあることが描かれている。子供たちの話を聞いていると、登場するキャラクターの「推し」も人それぞれだ。僕が子供の頃に見ていたアニメでは、いわゆる「推し」は特定のキャラクターに集中していたが、現代のアニメでは、それが広範囲に広がるのだ。

僕らの世代は善悪二元論の漫画やアニメを見て育っているのに対し、今の子供たちは多様性や様々な価値観が織り込まれたアニメを見て育っている。つまり最初から多様性や様々な価値観があることが当たり前のものとして育っている。これは宗教や文化の違いによる価値観の違いを話した時の反応をみるとよく分かる。僕ら世代の大人は、その価値観の違いを「へぇ~!」と驚きをもって受け取るのに対し、今の子供らは「そうなんですね」と違いを冷静に当たり前のこととして受け止める傾向があるように感じる。

学校に勤めて感じたこととして、大人はその多様性や様々な価値観があることを声高に叫び、それを教育方針としてのたまう。しかし残念ながら、それを言う大人より子供たちの方が、それが感覚によく落とし込まれている。大人はそれを叫びながら実際にやることは、自分たちの価値観の押しつけをやってしまう。僕も含め昭和世代は善悪二元論で育ってきてしまっているから、頭で理解しても感覚で理解できていない。結局、多様性とか様々な価値観の違いってのは言葉遊びになってしまう傾向が強い。これを子供たちは、肌で感じ取ってしまうから、最終的に学校側や大人への反発や軽蔑へとつがっていってしまう。

かつて大東亜戦争で日本は東アジアや東南アジアへ進出した。日本が行ったのは欧米列強がやったような植民地支配ではない。日本は彼らを同じ日本人として扱い、同化させようとした。これにより、現地の人の価値観は無視され日本の価値観が正しいものとして押しつけられ、反発を招いたのではないかと僕は想像している。学校という中では多様性や様々な価値観を叫びながら、学校運営者側が正しく生徒は未熟なものという発想から、やっていることはひたすら価値観の押し付けであるように僕には感じられた。しかも、その価値観は昭和の価値観であり、自分たちの感覚を振り返ることもない。そして当の本人らは、自分たちは多様性や、様々な価値観をよく理解しいるインテリだと思っているからタチが悪い。

もちろん、そうではない指導者に恵まれた学校や組織もあるだろう。でも、学校に限らず善悪二元論世代が社会のいたるところで要職を占めている以上、こういった事は、あちこちで起こっているのではないだろうか。まさに老害ってやつだ。

「僕のヒーローアカデミア」だが、ここに登場する先生たちが素晴らしい。
ここに登場する先生の多くが生徒と対等の姿勢を持っており、本当に「育てる」ことを行っている。もちろん先生と生徒という立場の違いはあるが、あくまでも生徒と人として対等に接している。今の学校現場では生徒に長時間接して細かな指導をすることや、単純に生徒の話を聞いてやることが生徒と対等であると勘違いしている人が多いのではないかと思う。これはこれで大事なことなのかもしれないが、言ってみれば自己満足の部分が大きい。対等というのはあくまでも心の問題だ。先生と生徒という立場の違いを人としての上下と勘違いしてしまっていることに気付いていない人が多いように思う。この傲慢さを生徒は何かしら感じ取り、心の中では軽蔑が生まれる。

技術的なことや知識的なことは教えることができても、本当に学ぶことは本人にしかできない。本人が学ぶことを介助してやるのが教育という単語の育む部分だと僕は思う。「僕のヒーローアカデミア」に登場する先生たちは、生徒と対等の姿勢で、生徒自身に学ばせるということを強く意識しているように感じられる。そして生徒同士が学び高め合う空気を作り出している。かつての旧制高校などは、こういった学びの土壌があったのではないかと僕は想像したりしている。

まあ「僕のヒーローアカデミア」をこんなふうに理屈っぽく見る人もいないだろうけど、今の子供たちは少なくとも、こういったものを見て育ってきているから、無意識のうちに自分自身の感性の中に、こういった多様性や様々な価値観が存在している事を取り入れていっている。だから我々大人は老害にならないためにも、学び続けなければならない。

もっとも、学ぶことを忘れてしまっていることに気付いていないからこそ、老害になるのだけれど。

 

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シンクロニシティとスピリチュアル

昨日は一山超えて上田市までインストラクターをお願いしている方にお会いしに行った。
現在、上田市では2人の方にインストラクターをお願いしている。Aさん、Bさんとしよう。前回、上田市に伺った時はAさんにお会いした後Bさんにお会いした。Bさんとは前回お会いして以来一度も連絡を取ってなかった。

今回はAさんとだけの約束で、前回と同じ場所で待ち合わせだ。その待ち合わせ場所に着いたほんとその瞬間にBさんから「オンラインレッスンのことで・・・」と電話がかかってきた。今日はこの後ご在宅とのことだったのでAさんのあとBさんにも会うことになった。こうして、前回と全く同じパターンが再現されることになった。

もちろんBさんは今日僕が上田市に来ていることを知らない。しかも待ち合わせ場所に着いたその瞬間の電話って凄いタイミングだ。まるで僕の動きをBさんが観察していて狙って電話をしたような感じがするくらいだ。偶然というには出来すぎだ。
Bさんと電話で話しているとAさんが現れた。Aさんにこの事を話すとAさんは「そういうこってありますよねー」と言っていた。そう、こういう出来すぎた偶然は「そういうことってある」と多くの人が感じていることなのだ。シンクロニシティというやつだ。

シンクロニシティはかの有名なユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」ってやつだ。スピリチュアルな世界ではシンクロニシティが起きるときってのは「宇宙の流れと自分の行動が合致している」とか「願望が現実化する前兆」とか「自分の人生が良い方向に向かっている」といったような意味があるとされている。もちろんスピリチュアルな考え方を否定する人は「単なる偶然」で片付けるだろう。しかし「そういうことってある」と多くの人が感じているようにシンクロニシティそのものは存在している。そして今日の出来事は、SHIN MICを宇宙が後押ししてくれているんだとスピリチュアル的に考えれば、その方が気分がいい。そう考えて気分がいいということは、スピリチュアルの考え方にも一定の正しさがあると考えていいのかもしれない。

そう言えば、上田市への行き帰りの山の中で、自分の内面的な感覚なのだけれど不思議な出来事があった。松の木の伐採現場の横を車で通り過ぎたわけだけど、松の大木がたくさん切り倒されていて、車の中にまで松の木の匂いが充満してきた。普段ならいい匂いだと感じる松の木の匂いが血の匂いのように感じられ、伐採現場がまるで虐殺現場か何かのような感じがして、一刻も早くその場を通り過ぎたい感覚に捉われた。松の木だって生きているから、それが切り倒されているってことは命が奪われていることに違いはない。だから我々人間には知覚出来ないが、現場には松の木の怨嗟の声が満ち溢れていたのかもしれない。

僕は霊感とかスピリチュアル的な感性は限りなく無いのだけれど、昨日はシンクロニシティに松の木の伐採現場での感覚と、ちょっと、そういった感性が僕なりに冴えていた日だったのかもしれない。

我々人間は知覚できる範囲でしか知識を得ることができない。
シンクロニシティも「そういったことってある」とギリ知覚の範囲に入っているからスピリチュアルなんかでも盛んに語られたりするわけだ。まったく人間の知覚の範囲に入ってこないものは、当然ながら我々はその存在を知ることはもちろん想像してみることすらできないわけだ。フランシス・ベーコンの「種族のイドラ」ではないけれど、人間であるということは、人間としての感覚しか持ち合わせていないわけで、その視点からしかものを捉えることができないし、それによる思い込みや偏見も生まれる。
全く別の知覚を持ち合わせた存在から見たら、シンクロニシティも至極当然な論理的な出来事かもしれないし、我々が言う虐殺現場と松の木の伐採現場は同じようなものなのかもしれない。

社会的には論理が求められる。ディベートを行っても、エビデンスを揃え、より論理的な方に軍配が上がる。しかし論理を振り回せるのは我々の知覚の中でもしっかりと知覚できる範囲の知識においての話だ。シンクロニシティのようにギリ知覚の範囲の知識では論理的に話すことは出来ない。「シンクロニシティが見られましたので当社の経営方針を・・・」などと言い出したら、みなポカーンだろう。

しかし我々が種族のイドラに捉われる以上、何か判断を迫られた際には、シンクロニシティのようなギリ知覚の範囲に引っかかってくるものに対しても真摯に考えてみる事が場合によっては有効なのかもしれない。

学びを止めたら浦島太郎

SHIN MICのサイトを立ち上げようと思い立ったのが年末、そこから久々のWordPress、そしてサイト運営の準備と、スタートする前から四苦八苦している。笑

4年間の学校勤めの間は、こういった関係からすっかり遠ざかってしまったために完全に浦島太郎状態だ。WordPressも4年前に比べるとエディターは変わってるは、かつて使ったプラグインもいろいろと変わっているはで現在に追いつくのに苦労している。

そして今日はGoogleアナリティクスを設置しようとして???状態に。なぜか何回作り直しても肝心のビューが表示されない。調べたら、GoogleアナリティクスもGoogle アナリティクス 4 プロパティなんていう第4世代になっていたようだ。安直に名前変わったんだな!と思いながら、何回もやり直していたわけだけど。笑

しかも、従来のユニバーサルアナリティクスからは大きく変化している。なんていうか、Google アナリティクス 4 プロパティはユニバーサルアナリティクスとは、分析の思想そのものが違うという感じをうける。今までのセッションを中心とした考え方から、ユーザーの行動に重点を置くような考え方に変わってきている。しかもAIによってユーザーの行動予測まで行うようだ。

今後を考えれば当然、Google アナリティクス 4 プロパティがいいんだろうけれど、ユニバーサルアナリティクスでないと塩梅が悪い事情があり、今回はユニバーサルアナリティクスでプロパティを作成し、そこにGoogle アナリティクス 4 プロパティを接続することにした。普通にプロパティを作っちゃうと、Google アナリティクス 4になっちゃうから、「プロパティを作成」をクリックしたら、下の図みたいに「詳細オプションを表示」をクリックして、「ユニバーサルアナリティクスプロパティの作成」をオンにしてやると、一気に新旧のプロパティの作成ができる。ここで作った新旧プロパティは接続できるようになっているから、その状態で使うことにした。

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4年前、学校に勤める前にGoogleが検索にたいする考え方を大きく変え始めていたのは感じていたから、Googleアナリティクスの変わりようは、ある意味、しっくりとはくるんだけど、浦島太郎状態は否めない出来事だった。

もちろんIT関係は変化速度がとても速い世界だ。検索関係だけとってもひと昔前に皆がやっていた検索エンジン対策なんて、今では通用しないものばかりだ。

IT分野の発展によって社会全体が大きく変わってきたことは誰もが感じていることだと思う。仕事も人との繋がり方もお金も娯楽も、あらゆるものが変化してきている。その変化は時代の常識を変えていく。

新しい世界で生きるためには、自分自身をアップデートしていくしかないわけだが、僕は学校に勤めて強く感じたのは、その時代の先端の人間を作っていくはずの学校が、もっともこのアップデートから取り残された場所の1つだということだ。それはIT機器の導入という意味ではない。ものの考え方や捉え方、いわば思想が取り残されているということだ。

もちろん、この変化に対応することであったり、人権だったり、環境問題だったり、異文化理解だったり、表面上の言葉では立派な表現をするが、肝心の中身の思想や体制は昭和で止まっている。学校という閉鎖された環境で大学卒業後から何十年も過ごした人たちが学校運営をしているのだから、ある意味、仕方がないことなのかもしれない。とにかく既に次世代の人間を育てるのに十分な環境ではなくなってしまっているように僕は思う。

時代についていくために、どこかで学校も今までの我々の常識にある形から別の形に変わっていくのかもしれない。

常識は時代と共に変わっていくものなのだから。

“麒麟がくる”最終回

何気に楽しみに毎週見ていた大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回だった。
信長の人物像も今までにない斬新な描き方だったし、重要人物として架空の人物も多かったり、松永久秀の平蜘蛛も光秀の手に渡るしで、かなり自由に創作していたから、本能寺の変にどう持っていくのか楽しみに見ていた。

大河ドラマの中の光秀と家康は仲良しだったから、個人的には光秀=天海説を採用するのかと思って見ていたけど、信長の暴走を止めるために挙兵という、ある意味、王道的な終わり方だった。麒麟がくる世を江戸の太平として捉えれば、この説がドラマの中で採用される確率は高いと思ったんだけど、そうはならなかった。笑

本能寺の変は戦国最大のミステリー事件だから昔から色々な説がある。
上に書いた光秀=天海説は、家康の参謀的な役割を果たし、徳川幕府の基礎を築く上で活躍した天海僧正が実は明智光秀だったとされる説だ。この説は歴史学者のほとんどからは却下されてしまっているが、もちろん、こんな説が出てくるのには理由がある。興味がある人は是非、調べてみて欲しい。昔からあるオーソドックスな説としては、野望説、怨恨説、黒幕説があるが、どの説も、もっともらしい部分もあるが説得力には欠けるものが多いと思う。結局、大河ドラマで描いていたように信長の暴走を止めるために本能寺の変を起こしたってのが、一番、説得力があるのかもしれない。

なぜ、光秀が謀反をおこしたのかは未だにはっきりとは分かっていない。もしかしたら、大した理由はなく突発的に信長にブチ切れただけのことなのかもしれない。明智光秀だって人間なんだからその可能性がないとは言い切れない。でも、それを検証しようとすれば、光秀の性格や信長との関係性とか、当時の武士の感覚等の膨大な背景を調べる必要が出てくる。

結局のところ光秀本人にしか分からないことなのかもしれないが、それでも、この「なぜ?」を考えることは大切なことだと思う。「なぜ?」を考えることによって、当時の歴史についての知識が深まるからだ。そして当時の知識が深まったら、「他に方法はなかったのか?」とか、「自分だったらどうする?」を考えることが歴史を学ぶ時に必要なことなんじゃないかと思う。

学校の歴史の授業では一般的に正しいとされる史実を教えるだけで、「なぜ?」を考える作業をあまりさせない。もっとも、それを片っ端からやっていたら、とてもやり切れないという現状はあるのだけれど。

今の学校では昔に比べると近現代史の比重が大きくなっているみたいだけど、それでも、明治から昭和にかけての戦争に対して「なぜ、日本は戦争をしなければならなかったのか?」「なぜ、戦争を回避できなかったのか?」逆に「戦争を回避するためには、どうすればよかったのか?」を真剣に考えさせることをしないのではないだろうか。それを真剣に考えれば、対外的要因、国内要因、組織的要因と、いろいろな要因について学ぶ必要があり、そして多くを考えさせられるはずだ。

僕が戦国時代に初めて触れたのは、小学校低学年の時に読んだ豊臣秀吉の伝記だ。伝記と言っても絵本みたいなもので、当然、秀吉が主役だから、家康は悪者のイメージだし、光秀は馬鹿なイメージだった。もちろん高校生になる頃には、明智光秀というのは優秀な人だったということを知るようになる。それでも三日天下という言葉とともに光秀は愚かだったというイメージが付きまとった。

対米戦争についても「無謀な戦争に日本は突入していった」という言葉だけで歴史を習ってしまうと、そこには「馬鹿な軍が権力を握ってしまったから」というようなイメージがつきまとい、単純に軍国主義はいけない!というところで思考がストップしてしまう。実際に戦後教育を受けた僕らは、そんな感じだったような気がする。そして、それで自分は歴史の教訓を学んだ気になってしまう。
ところが、当時の軍ってのはとてつもなく優秀な頭脳の人たちの集まりだ。それが、なぜ、対米戦争に踏み切らなければならなかったのか、なぜ、回避できなかったのかを調べ、考えるということをしなければ、本当の歴史の教訓は得られないし、同じような危機に陥った時に同じ轍を踏むことになる。

歴史の多くは調べ考えても本能寺の変と一緒で答えは分からないことなのかもしれない。
でも、それを考えることが歴史を学ぶってことなんじゃないかと思う。

 

とりあえず次の大河ドラマは渋沢栄一らしいから、これまた楽しみだ。

論理を超える「なんとなく」

久しぶりの円安相場でドル円が少し上昇してきている。先ほど105.75をつけた。

相場分析を大雑把に分けると、各国の経済状況や金融政策、政治などを分析して相場予測するファンダメンタルズ分析と、過去の価格推移から相場予測を行うテクニカル分析に分かれる。多くのプレイヤーはファンダメンタルズに気を配りながらテクニカル分析がメインなんじゃないかと思う。

実は僕は102円台でガッツリとドル買いをした。しかし102円台当時、ファンダメンタルズ的にもテクニカル的にも積極的にドル買いをする要素はなかった。どちらかと言えば、まだ下がっていく要素の方が大きかったのではないかと思う。ではなぜ僕はドル買いをしたかというと、なんとなく「もうこれ以上、下がらねえんじゃねえかな~」と思ったからだ。

そう、「なんとなく」なのだ。

もちろん、この「なんとなく」は過去の経験からくるものであることは確かだ。世間の声だったりチャート上の値の動き方だったり、そんなものから「なんとなく」を感じ取っているからだ。でも、あくまでも「なんとなく」であって明確にその理由を説明することはできない。

そもそも相場の動きってのは、ファンダメンタルズやテクニカルといった論理を逸脱して動く。だから上がるか下がるかだけなのに難しい。しかもそこに参加すると、欲望と恐怖という2つの感情が絡み、さらに判断が難しくなる。

相場は論理を逸脱して動くにも関わらず、人は様々な手法を駆使して、それを分析する。分析するという行為は、そこから論理的に答えを導こうとする前段階の行為だ。もちろん、相場が全く論理に当てはまらないというわけではない。だからこそ世界中の人が分析を行うわけだし、逆になんの分析もせずに相場に飛び込むのは自殺行為だろう。

人という生き物は、とにかく論理を大切にする生き物だ。戦争をするにも大義名分がなければ出来ない。論理がなければ、ほとんどの場合、動けないのではないかとさえ思う。しかし、今回の僕のように論理に従わずに「なんとなく」つまり勘に従った方が正解であることもあるわけだ。

例えば、その時は論理的に正しいと思っても、なぜか心がそれを嫌がるなんてことがある。この場合、大抵が、後になってみると心の声に従った方が正解であることが多かったりする。

論理は大切だけれど、その論理にも得意な分野と不得意な分野がある。しかし、たとえ論理が不得意な分野であっても人は論理を偏重してしまう傾向がある。だから、自分にとって正しい判断を出来る限りしようとすれば、どのような分野や、どのような場合に論理が通用しにくいのかを予めよく考えておくことが重要だ。それが分かっていれば、判断の際、論理偏重にならないように意識することができる。

論理は大切だけれど、時として直観や感情が論理を上回る場面があるということだ。

これを考え、身をもって実感することは大きな学びであると思う。

データベース接続確立エラー

このサイトはWordPressを使っているわけだけど、今朝サイトを開こうとすると「データベース接続確立エラー」の文字が。あせって更新ボタンを押してみても画面には「データベース接続確立エラー」の文字以外、何も表示されない。

ヤバい!

一昨日はサイト丸ごとバックアップをとってあるから、最悪の事態は避けられるはずだ。

落ち着け!落ち着け!

そうだ!「wp-config.php」に入力ミスがあるかもしれない。冷静に一つ一つ確認だ!

WordPressの引っ越しをやったわけでもないし、「wp-config.php」なんていじってないから、この時点で既に僕は冷静ではない。笑
当然のごとく確認しても「wp-config.php」に入力間違いなんて見つからない。

そうか!データベースが破損したんだ!

データベースを修復してみよう!と、データベースを確認するも破損してる箇所が見つからない。

お手上げだ!

こうなったら、WordPressのインストールからやり直すしかない!
バックアップがあるから一昨日の状態には戻せるけど、昨日やった作業をすべてやり直すとなると、けっこう気合がいるな~。
と、ここで、やや現実逃避モードに入った僕は、なんとなく、もう一つ作りかけてるサイトを開いた。
すると、そこにも

データベース接続確立エラー

の文字が。両方とも同じレンタルサーバーだから、

あっ、サーバー障害だ!!!

後から考えてみると、おそらく、この時に初めて僕は冷静さを取り戻したんだと思う。
10時過ぎたらレンタルサーバーの会社に問い合わせでもしてみよう!と心にゆとりを取り戻しコーヒーを飲んでいる間に障害は解消されたようで、正常に「SHIN MIC」が表示されるようになった。危うくWordPressのインストールからやり直しそうになったわけで、なんとも恐ろしいことだ。

暫くして使用しているレンタルサーバーの会社から以下のようにお知らせがあった。

本日早朝に実施しておりました下記メンテナンスの影響により、一部サーバーにおいて
MySQLサーバーに接続できなくなる障害が発生しておりました。

 

今日は午後たまたま近所の旅館から「Go To トラベル」の申請を手伝って欲しいと頼まれ、行ってきたが、なんと「Go To トラベル」の申請システムでCloudFrontがオリジンに接続できないという障害が起きていて全く使い物にならなかった。今朝のレンタルサーバーと「Go To トラベル」の申請システムと立て続けに障害発生を目の当たりにしたから、もしかしたら大規模なDDoS攻撃でもあったのかと思ってもみたり。

テンパったら、まともな判断なんて出来ないことは百も承知だから、「冷静に!冷静に!」と自分に言い聞かせて、考え、行動したつもりでも、後で考えるとまともな思考判断が出来ておらず十分にテンパっている。こういった場面には過去何回も遭遇してきているから、「冷静に!冷静に!」と自分に言い聞かせる。それでもテンパってしまう。こういうのって頭ではなく経験を通して心で学ぶ学びなんだろうな。

「冷静に!冷静に!」と自分に言い聞かせても、僕はテンパるってことを改めて学んだ出来事だった。

やはり経験を通しての学びは大切だ。

GameStop事件

ヘッジファンドに「素人」とディスられた個人投資家たちがRedditの投資掲示板「WallStreetBets」で団結し、大赤字のGameStopの株(GME)をわけもなく買いまくって1週間で8倍に押し上げる爆上げ祭りで逆襲。空売り勢が損切りのショートカバー(買い戻し)を余儀なくされる異常事態に発展しています。

GIZMODOの記事より抜粋
https://www.gizmodo.jp/2021/01/gamestops-stock-price-soars-abnormally.html

 

ここ数日騒がれているGameStop事件は、個人投資家たちが掲示板で団結してヘッジファンドをボコボコにしてるわけだから、ちょっと読むと、なんか痛快な感じもする出来事だ。やっていることは仕手なわけだけど、個人の集団が行っているってことと、情報を公開してやってるってところが本来の仕手とは少し意味合いが違うような気がする。

こういった事件について、少し調べ考えてみる事は自分の世界を広げたり、学びを得るきっかけになることがある。普段、株価や金融と縁遠い人なら、この事件の記事を読んだ時に出てくる「ヘッジファンド」「空売り」「ショートスクイーズ」といった単語の意味がよく分からないのではないかと思う。そういった単語の意味を調べてみるだけでも、随分と自分の知識は広がるものだ。

調べてみると、今回の事件について、そういった用語も含めて分かりやすく解説してくれている動画もある。

 

 

GameStopは落ち目ではあったが、その株価の評価は安すぎていた。その価格のゆがみを掲示板「WallStreetBets」の住人たちは突いたということだろう。もちろん掲示板の住人たちの行動は「儲ける」ためだったろうけれど、そこに利益を上げるために不当に株価を安くしているヘッジファンドに一泡吹かせてやる!という正義感というか大義名分というか、そういったものが、より行動に拍車をかけたのではないかと僕は想像してみたりする。

この事件については既に、様々な人がそれぞれの意見を述べているが、みなさんも是非、掲示板の住人達の行動について自分は支持できるのか、支持できないのか、この事件について人に自分の意見を話すという視点で考えてみて欲しい。そうすることによって、正当化できる側面と正当化できない側面を考えることになり、この事件に対するより多くの情報を集め、知識を取り入れることをするだろう。結果としてこの事件に対する理解が深まるわけだ。

この事件に対する理解が深まったら、こういったSNSを通して始まっているQアノンやBLM運動、香港の民主化運動、さらにはアラブの春等々との共通点と異なる点を考えてみるというのは自分自身の視野を広げていくことに有効な手法だ。また、この手の内容に詳しい人ならGameStop株とビットコインの爆上げの共通点と違う点を考えてみるのもいいと思う。

とにかく、ちょっと意識さえすれば身の周りに学びの材料は溢れている。
今日は何を学ぼうか?!

ストーヤ

ニューズウィークに人生相談のようなコーナーがある。
その相談内容がゴシップ誌なら分かるけど、ニューズウィークがなぜこんな内容を掲載しているのだろうか?と少し違和感をおぼえる内容が多かったりする。そして、その相談に答えるのは、専門の相談員だったり小説家だったりと、アメリカではその道の有名人だろう。その中にちょくちょく見かけるのが「ストーヤ(ポルノ女優)」という名前だ。なぜにポルノ女優?と思ったりもするわけだけど、大抵は相談内容に性的な内容が含まれるときに登場する。その回答もなかなかぶっ飛んでいて、例えば「アナルセックスはどう?バイブレーターは?」と、ニューズウィークとは思えないような単語が並んだりする。ところが、今回のニューズウィークでは性的な内容が含まれない相談に回答しており、しかも回答もいたって普通な内容だった。

普通の相談も担当するんだ・・・と思いながら、ふと、ストーヤ(ポルノ女優)とは何者なのかと気になり調べてみた。

ストーヤ(Stoya、1986年6月15日[1] – )は、アメリカ合衆国出身のポルノ女優。この国のポルノの世界にありながら、爆乳に爆尻などといった『人材の典型像』とは異質の、長身に華奢な洗練された身体像―いわばファッションモデルを想起させ得る異色の存在としての認知を有するポルノスターであり[3]、AVNアワードを始め数多の賞与を獲得してきた[4]。

とウィキペディアにはあり、さらにセルビア人とスコットランド人とプエルトリコ人の血を引いているとも書かれていた。画像検索すると、その容姿はアメリカ人と言うより、たしかにヨーロッパ風な感じがするから、なるほど!って感じだ。

調べていて目を引かれたのは、ストーヤがジョルジュ・バタイユに傾倒しており、その小説「眼球譚(がんきゅうたん)」を映画化したという話だった。

 

上のように、twitterでも眼球譚のことをツイートしていた。

ジョルジュ・バタイユってのは、フランスの哲学者であり思想家で、日本でもけっこう人気があって、ファンや研究者が多いんじゃないかと思う。ウィキペディアには以下のようにある。

ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897年9月10日 – 1962年7月8日)は、フランスの哲学者、思想家、作家。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。

そしてこのバタイユの眼球譚という作品だが、ウィキペディアにも、そのあらすじが書かれている。読んでみると分かるが徹底した倒錯と背徳の異常な世界だ。この異常な世界はバタイユ自身が持っていた二面性から来ているものだろう。

ストーヤはこの倒錯と背徳の世界をポルノとして映画化しているわけだから、一部アップされているものを見ても、それなりにエログロだ。でも、少なくとも僕は見ても性的興奮は感じないし、芸術的要素が大きい作品のような気がする。
いちおうVIMEOにあったものを貼り付けておくが、こういった内容に抵抗のある人は見るのは止めておいた方がいいかもしれない。

the eye // tease from Four Chambers on Vimeo.

とにかく、このストーヤという人はポルノに思想と芸術を持ち込み、新たな模索を行っているように感じられる。ジャンルは何にせよ、新たな世界を模索する力というのは、すごいものがあると僕は思う。

 

眼球譚もバタイユの小説だが、純文学の世界は比較的、倒錯した世界を描いているものが多いような気がする。谷崎潤一郎の「痴人の愛」なんかは性的倒錯の要素が大きい作品だろう。

僕が勤めた学校では「痴人の愛」を一部のクラスで教材として使っていた。しかし、学校という環境では「痴人の愛」は純文学だから推奨するが「ゴールデンカムイ」は漫画だから排除するといったような風潮があった。そして、そんなことを主張する人たちは案外「痴人の愛」も「ゴールデンカムイ」も読んだことがなかったりする。おそらく、このストーヤとその背後にあるジョルジュ・バタイユの思想や哲学について、いくら話しても彼らの頭の中では「ポルノ」の3文字で全てが終わってしまうだろう。そして彼らは「常識的には・・・」「一般的には・・・」という言葉が大好きだ。常にこの言葉を使って物事を進めていく。

常識は人それぞれ違ってくるし、時代が変われば全く違ったものになる。だから「常識的には・・・」「一般的には・・・」という言葉を頻繁に使う時点で、前進が止まり、自分の小さな世界観から抜けられなくなっているということだと僕は思う。

 

ちょっと話がそれてしまったが、今日はストーヤという人について学べて良かったと思う。
やはり、何事も調べてみれば大きな広がりを持つということだ。