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コミュ力を考える | 僕はコミュ障かも

コミュニケーション能力

コミュ力を考える | 僕はコミュ障かも

先日、shin MICの授業後の雑談の中で

「自分はコミュニケーション能力が低いんですよね~。逆にプレゼンとかは得意だから、周囲からはそうは思われないんですけど・・・」

なんて話が出てきた。
この話を聞いた時、すぐに「あっ、この方、僕と同じだ!」とピンときたので、「具体的な目的があって、それについて話す場合は、よく話せるけど、例えば合コンみたいな場だと、途端に話せなくなっちゃうような感じじゃないですか?」と、ふってみると「そうなんです!」と大いに共感してもらえた。

この感覚は僕はとてもよく分かる。逆に僕と同じ感覚を抱いている人がいるんだ!と驚いた。

 

考えてみれば、この感覚を僕は中学時代から引きずっている。大学時代、僕は体育会に所属していた。そこでは定期的に女の子に片っ端から声をかけて、先輩方の合コンをセッティングするという今では考えられないような下級生のお仕事があった。この場合、合コンをセッティングするという目的が与えられているので、見ず知らずの女の子に声をかけて僕はいくらでも話すことができた。ていうか、割と得意だった。
ところが、自分が合コンに参加すると途端に話せなくなる。僕も話の輪に加わって楽しく盛り上がりたいのに、それが出来ないのだ。話せないから、皆が盛り上がる中で、おとなしく黙っているしかない。最悪、気を使われて女の子の方から話を振ってもらっても、表面的な無味乾燥な受け答えしかできないから楽しくない。なかなかのフラストレーションだ。

 

この感覚は、今でも続いている。仕事関係でのプレゼンとか営業トークは割と得意だ。広報活動などで、初めて会う人と話す場合も仲良く話すことができるし、そんな中から深い人間関係を築けることもある。傍から見れば、コミュ力は高い方に見えるだろう。ところが、プレゼンで饒舌に喋った僕が懇親会となると、途端に全く喋れなくなってしまう。相手から話しかけられても、とってつけたような会話になってしまう。けっして話したくないとか、懇親会がくだらないとか思っているわけではない。僕も皆のように仲良く和気あいあいと話したいのに、それが出来ないのだ。
どこそこのお店でパーティーがあるから行こう!と誘われて行っても、そこでの会話の輪に僕は入っていくことができない。もちろん行けば多少の会話はするけれど、少なくとも自分の中では、とってつけたような会話になってしまい、内心苦痛だ。だから基本的には押し黙ったまま、楽しそうに話す人たちを羨ましく眺めることになってしまう。

 

僕の場合、仕事や普段の生活をしていく上でのコミュニケーションに大きな支障を感じる事はないから、一般的にはコミュ障ではないだろう。でも、上に書いたような感覚があるから、人生の楽しみの一部を奪われているような感じで、自分ではコミュ障の一種だと思っている。

 

コミュ力を考える

コミュニケーション能力は仕事からプライベートまで、自分の人生の全てにおいて、大きな影響を及ぼすものであることは、多くの人が知るところだ。深刻に自分のコミュニケーション能力に悩んでいる人もいるだろう。個人的には昔から、これほど人生に大きな影響を与えるコミュニケーション能力、しいては人間関係を学ぶための授業が、なぜ、学校に用意されていないのか不思議に思ったりしている。

ここで、僕がパッと思いつくコミュニケーションに大切な要素を書いてみると

・愛そうも含めた表情
・相手の話をよく聞くことができる
・相手の真意を会話の文脈から推し量ることができる
・相手に合わせた伝え方ができる
・適切な話題をふれる
・会話のタイミング
・相手の感情や関心を推し量ることができる
・キャラにあったユーモア

なんてのが出てきたりするけど、一口にコミュニケーション能力と言っても、職種によって求められるコミュニケーション能力は違うだろうし、友達、対異性、パーティーの場等々でも、求められるコミュ力は変わってくるだろう。僕のように、ある部分に関してのコミュ力が著しく欠如してるなんてパターンもあるだろう。

shin MICの「思考と探求」では、人生に大きく影響を及ぼすコミュ力についても、深く考え、分析し、ディスカッションを行い、学びを得てもらう授業を提供していく予定だ。

 

高遠草(タカトウグサ)アキカラマツ

高遠草(タカトウグサ)| 知識の一般化を考える

家の近くに高遠草(タカトウグサ)が生えているのを見つけた。まだ色合いが新緑って感じで綺麗だったので写真を撮ってみた。それが上の写真だ。

高遠草(タカトウグサ)は長野県の高遠城下で腹痛の薬として伝承されてきたキンポウゲ科の多年草だ。正式名称をアキカラマツと言う。

子供の頃の思い出

個人的には高遠草には信仰に近い思い入れがある。

まだ小学校の低学年の時だったと思うが、ドブ川に落ちた際、その水をガブ飲みしてしまい、とんでもない腹痛に襲われ、下痢と嘔吐のヘビーローテーションに陥ってしまった事があった。

そんな経験はそれまでにも何回かあったが、病院でもらった薬を飲んで少し絶食すれば治っていた。それがこの時ばかりは数日しても全く回復する気配がなく、このまま何も食べる事が出来ずに衰弱して死んでしまうのではないと、僕はぼんやりと思っていた。

そんな様子を見かねたバアちゃんが「病院の薬が効かないみたいだから、ちょっと高遠草を飲んでみろ!」と、煎じたものを湯呑に入れて持ってきた。「うんと苦いけど我慢して飲め!この煎じたやつを丼で2杯も飲んだら赤痢だって治るから、きっと良くなる!」と煎じたものを部屋に置いていった。

しかし、その苦さたるや、当時の僕としては、今までに経験した事のない想像を絶する苦さで、結局、湯呑半分しか飲む事ができなかった。こんなもん丼で2杯って、飲まなかったら死ぬって状況でもない限り、飲めるもんじゃないと、当時思った事を憶えている。

そして、高遠草を飲んだ翌朝、あれだけ病院の薬を飲んでも収まる気配のなかった嘔吐がピタリと収まり、そのまま治ってしまったのだ。

それ以来、「いざという時は高遠草!」という信仰に近い感情を持ち、子供の頃は、毎年、高遠草を採っては干して、いつでも煎じて飲めるようにしていた。もっとも、子供の僕としては飲むのに決意がいるくらいの苦さだったから、結局、その後、高遠草を飲もうと思うほどの腹痛に襲われることはなかったのだけれど。

高遠草を煎じたもの

高遠草を煎じたもの

高遠草を乾燥させたもの

高遠草を乾燥させたもの

数年前のことだけれど、胃腸の調子悪さが続いた時があり、その時に高遠草を採取してきて干して飲んだことがあった。上の写真はその時のものだ。確かにかなりの苦さだけれど、子供の頃に感じた悶絶するような苦さではなかった。まあ、我慢して飲めるレベルだ。

飲んで1時間ほどで、ずっと動きの悪かった腸が動き出すのが感じられ、お腹の嫌な感じが引いてしまった。やはり、少なくとも僕には高遠草はよく効く。

高遠草

上にも書いたが、高遠草(タカトウグサ)は正式名称アキカラマツというキンポウゲ科の多年草で、長野県の高遠城下で何百年もの間、腹痛の薬として用いられてきたものだ。キンポウゲ科の植物は毒草が多いから、全国的には警戒されて薬草として用いられることはなかったようだ。高遠城下にだけ伝わる秘伝の薬って感じで、なんか萌える。

それが太平洋戦争のおり、国内に薬が不足し、当時の厚生省が国内に埋もれている薬資源の調査に乗り出して、初めて苦味健医薬として、取り上げられたんだそうだ。

今ではネットで検索すると、和漢薬として、けっこういいお値段で販売されたりしているから、薬草として知られ、その地位を確立しているってことだろう。

成熟したアキカラマツ

成熟した高遠草(アキカラマツ)

アキカラマツの花

高遠草(アキカラマツ)の花

知識の一般化を考える

仮に、高遠草が薬草としての地位を確立していない状態で、伝承だけを頼りに、僕が毒草だらけのキンポウゲ科の植物を煎じて飲んだなんて話を書くと、多くの人が「危ないことをする人だな」とか「チャレンジャーだな」といった感想を持つだろう。つまり、国に和漢薬として認められて初めて高遠草は、薬草であるという知識が一般化していると言える。

何百年もの間、高遠草はなぜ薬として高遠城下以外に広まらなかったのだろうか?

僕は様々な人に出会って話をした経験からも思うのだが、社会的にも有用だと思われる知識が、特定の個人や人々だけで共有されるにとどまり、一般化していないものは、案外、多いのではないかと感じている。

知識が一般化されるには、どのような経緯が必要なのだろうか?
知識が一般化されるには、どのような条件が必要なのだろうか?
一般化されていない有用だと思われる知識に出会った時、我々はどう判断し、行動すればよいのだろうか?

そんな事も、shin MICの思考と探求の授業では、様々な事例を取り上げて、考え、ディスカッションを行っていく。

現在、無料体験授業を毎週月曜日の19時から行っているので、是非、気軽に参加していただければと思う。

徳川宗春

徳川宗春とデフレを止めようとしない日本

もう1年以上前のような気がするけど、現在のshin MICの相棒から「たぶん気に入ると思う!」と、“しなのユーキ”さんの音楽CDをプレゼントしてもらった。

CDの最初の曲が「松本城初代城主・石川数正」だ。なんとも面白い曲で、相棒が言った通り、結構、気に入ってしまった。他にも、「中央西線」とか「名古屋の和菓子」など、松本市から名古屋市にかけて歴史上の人物や、名産品を、面白おかしい感じの歌にしていて、一時期、車の中でヘビーローテーション状態だったのだ。笑

このCDに収録されていた曲の中に上の動画で“しなのユーキ”さんが歌っている「尾張七代藩主・徳川宗春」もあった。曲の中で「名古屋に繁栄をもたらしたお殿様」と歌われている。当時、京、大坂、江戸の大きな都市に比べたら、名古屋(尾張)は村のような存在だった。「尾張名古屋は城でもつ」なんていう言葉があるくらい、城以外は大したものが無いような場所だったのだ。そんな名古屋を現在まで続く大きな都市となる繁栄の元を作ったお殿様が徳川宗春だ。

当時は徳川吉宗の享保の改革の真っ最中で、質素倹約が是とされ、徹底した緊縮財政と増税が行われていた。これをやれば、当然のことながら庶民の元気が無くなってくる。そんな中、尾張藩主の宗春は、名古屋で規制緩和と大きな財政出動を行い、名古屋だけが活気づき、全国から人が流入し繫栄することになる。宗春の政策は緊縮財政の公儀の方針に逆行するものだから、当然、公儀に疎まれ、やがて蟄居させられてしまう。

享保の改革を行った徳川吉宗は名君と称されるが、享保の改革は緊縮財政と増税がセットになっており、あくまでも幕府のための改革であって、そのつけを庶民が払わされるものではなかったかと僕は感じてしまう。それに対して徳川宗春の政策は、あくまでも庶民の繁栄を考えたものだったのではないかと僕は思ったりする。

徳川宗春

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財政赤字と緊縮財政

財政赤字を解消するために緊縮財政と増税を行った享保の改革と同じように、現代の日本でも巨額の財政赤字をなんとかしなければいけないと、長いこと、緊縮財政と増税の路線がとられてきている。

マスコミなどでも「国の借金が・・・」「国民一人頭・・・」といった表現がされ、国がそんな状況であれば、次の世代が払わされるツケを減らすためにも増税も仕方ないという風潮が生まれたりする。しかし、そもそも財政赤字は国の借金ではなく政府の借金だ。だから我々国民が返済するものではなく、政府が返済すべきものだ。そして政府が返済する際も、増税しなくとも、日銀に通貨発行させて国債を買い取らせればいい。日銀は政府の子会社みたいなもんだから、連結決算で政府の借金は消えるわけだ。こう言うと、そんなことをしたらハイパーインフレを引き起こすという人もいるけれど、既に日銀は異次元緩和の名の元に巨額の国債の買取を行っている。これだけ巨額の買取をしても、ハイパーインフレどころか、相変わらずデフレなのだから、素人感覚ではハイパーインフレの心配など無用だと思うのだ。

緊縮財政の名の下に、無駄をなくそう!と、道路やダムなど様々な公共投資が無駄とされ、削られ続けてきた。しかし財政赤字を膨らませてきたのは公共投資ではない。なぜなら財政赤字を膨らませたのは赤字国債と言われる特例公債だからだ。公共投資は建設国債でなければ出来ない。そして建設国債の発行は増えていないからだ。まともに公共投資をしなくなったおかげでに日本のインフラは劣化し、もはや先進国と言えるのか?というところまで来てしまった気がする。お金は発行できるけど、インフラ等の資本の蓄積は一朝一夕にはできない。今の日本は緊縮財政の名の下に、過去の資本を食いつぶし、未来へ資本を残さないように、20年以上、走り続けてきてしまったのかもしれない。

GDPとデフレ

日銀に国債を買い取ってもらった一般銀行は、そのお金をどうするのだろうか?おそらくは、そのお金でまた国債を買うものと考えられる。そもそも銀行の基本的なビジネスモデルはお金を貸して金利を得ることだ。だから貸さなければ始まらない。本来なら企業の設備投資など民間に貸し出したいところだが、デフレ下では、企業も設備投資など積極的にやるところはないため、結局、政府に貸し出すしかなくなってしまっている状態だろう。

GDPはモノやサービスが生み出されなければ上がらないから、これではいくら日銀がお金をばらまいてもGDPには関係がない。一般銀行が民間に貸し出せば、設備投資等に使われるからGDPの数値が上がることになるけれど、デフレで需要がないから借りてくれないわけだ。

日本のGDPの成長率は他の先進国に比べても極めて低い。かつて世界第二位の経済規模を誇った日本は現在では第三位で第二位の中国との差は大きく開いていくばかりだ。このままいくと、近い将来、大国としての地位を失うことになるだろう。GDPはいわば国力であり、その成長率を保つことはとても重要だ。

GDPの成長率が落ちてしまったのは、少子高齢化と人口減少によるものとよく解説されるが、日本よりも人口減少が激しくともGDPの成長率を高く保っている国もある。この20年、仮に日本のGDPの成長率が他の先進国並みだったならば、高齢化による医療費の増加分も税収の伸びによって、ある程度は賄えた可能性がある。人口減少は何も日本に限ったことではない。にもかかわらず他の先進国に比べ日本だけがGDPの成長率が低いわけだから、人口減少だから仕方ないと思考停止に陥るのではなく、その原因をよく考えてみる必要があるだろう。

先日、コロナ対策の予算のうち約30兆円を使い残したという驚くべき記事を目にした。使い残した30兆円をもしそのまま使っていたなら、それはそのままGDPを押し上げてくれる。仮に本当にコロナ対策にもう使う必要がなかったなら、あと2回給付金を配布したって、その多くはGDPを押し上げることになっただろう。日経の記事によると日本がコロナ対策に使ったのはGDP比7%どまりであったのに対し、米国はGDP比13%だったそうだ。もう、こうなると政府がGDPを成長させずに国力を削ぐ方向で政策をすすめているとしか思えないくらいだ。とにかく今の日本は緊縮財政路線のもと、何が何でも財政出動を抑えようとしているのだろう。

GDPの成長率が上がるということは、それだけ新たにモノやサービスが生み出されることであり、需要が増えるわけだからデフレは解消されていく。日本がデフレから抜け出し成長路線に戻る為には、徳川宗春ではないけれど、財政出動を増やすことだ。必要な道路や港湾整備など公共投資を増やせばいい。それはそのままGDPを引き上げるし、玉突きで別の需要を作り出す。さらにそれは資本の蓄積として未来へも受け継がれるものだ。

個人的には、このまま緊縮財政を続けていたら亡国の危機がやがて訪れるのではないかと危機感さえもっている。

デフレを止めようとしない日本

米国は既に大規模かつ長期間に及ぶ公共投資を行う方向に舵を切ってきているし、このまま日本が緊縮財政を続けていたなら本当に衰退国になってしまうような気がする。

国会議員の中にも財政出動の拡大や消費税減税といった考えを持つ人も、増えてはきているみたいだが、まだ暫くは緊縮財政路線は続くのだろう。僕はかたくなに緊縮財政と増税路線を取り続ける政府によってデフレが引き起こされていると感じてしまう。つまり日本はデフレから抜け出れないのではなく、デフレを止めようとしていないのだ。

緊縮財政を続けて誰が得をするのかと言えば、増税や予算を削ることによって出世ができる財務省のお役人さんたちくらいではないかと思う。そのお役人さんたち個々の出世欲が大きな流れになって、日本は長く停滞してしまったのかもしれない。

でも、組織やそこに属する人の面子や保身などから国を巻き込む大きな流れが出来てしまう事は歴史的にも多いことなんじゃないかと思う。

自分で調べ考えることの大切さ

実は僕は20年くらい前は、「国の借金」「財政破綻」「ハイパーインフレ」といったような言葉から、緊縮財政や増税路線を支持していた。でも、折に触れて違和感を感じ、調べ考える中で、現在では上に書いたような考え方をしている。もちろん僕は経済の専門家ではないから、上に書いたことも専門家から見れば的外れなこともあるかもしれない。でも大切なのは、疑問を持ち、自分で調べ考えてみる事だ。

プロバガンダが特にそうだけれど、人は言葉が運んでくるイメージをそのまま受け取ってしまいやすい。そのまま判断してしまうのではなく、自分で調べ、自分の頭で考える事だ。それを繰り返すことによって、自分自身の知識も増えるし、物事の判断の仕方を変わってくる。だから何事も、すぐに思考停止に陥るのではなく、調べ考えることを大切にしたいと思っている。

ちなみに徳川宗春は、減税と財政出動により最終的に藩の財政難を招いた(米本位制の当時と管理通貨制度の現在の単純比較はできないと思う)が、名古屋という大きな資本を後世に残した。我々も次の世代に残すべきは単なるお金ではなく資本だと思うのだ。

と・く・が・わ むねはる♪ とくがわ むねはる♪

新型コロナワクチン

新型コロナワクチンとジェンナー | ファイザー・モデルナ・アストラゼネカ

僕の所にはまだ新型コロナワクチン接種の通知は届いてないが、周囲の人には、結構届き始めている。ちなみに母は先日、第1回目の接種が終わったところだ。今朝、たまたまつけていたテレビからは、ワクチン接種を受けたくないと言っている人は若者に多いなんてニュースが流れていた。

僕は成人してから予防接種は記憶にある限り2回しか受けていない。昨年まで4年間勤めた学校で受けたインフルエンザ予防接種の2回だけだ。中学時代にインフルエンザ予防接種後、左腕が腫れ、腫れが引いた後も1年間くらい左腕全体の皮膚が突っ張る感じで、腕を曲げたりすると痛みが走る状態が続いた。それ以来、予防接種というものに感情的な抵抗感が出来てしまったわけだ。だから新型コロナワクチンも出来る事なら打ちたくないってのが感情的な本音だ。(^^;

 

ワクチンとは

ワクチンとは病原体の侵入と攻撃に備えて、予めそれに対する免疫を獲得させるための薬だ。そしてワクチンには以下のようにいくつかのタイプがある。

1.生ワクチン

病原体そのものを、病気を発症しないように弱毒化させ投与する。病原体を投与するから、感染するリスクのあるワクチンだ。BCG、麻疹・風疹混合 (MR)、麻疹 (はしか)、風疹、水痘(水ぼうそう)、おたふくかぜなんかが、生ワクチンだ。もし今回の新型コロナのワクチンがこのタイプだったなら恐怖感から、もっと拒絶感を示す人が増えたのかもしれない。

2.不活化ワクチン

感染しないように「殺した状態」の病原体を投与する。生ワクチンに比べて獲得される免疫力が弱いため、複数回接種が必要になってくるものが多いタイプだ。ポリオ、日本脳炎、インフルエンザなんかがこのタイプのワクチンだ。

3.組換えワクチン

病原体の成分の一部を投与する。このワクチンも獲得される免疫力が弱いため、複数回接種が必要になってくるものが多い。帯状疱疹、B型肝炎、破傷風、百日咳なんかがこのタイプだ。

4.ウイルスベクターワクチン

病原体の設計図を別の人体に無害なウイルス(ベクター)に乗せて投与する。エボラ出血熱のワクチンがこのタイプのようだ。

5.DNAワクチン

病原体の設計図の一部をDNAに乗せて投与する。

6.mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチン

病原体の設計図の一部をmRNAに乗せて投与する。

 

新型コロナワクチン

ファイザーとモデルナの新型コロナワクチンは、上のmRNAワクチンであり、アストロゼネカはウイルスベクターワクチンだ。つまり現在日本で承認されている新型コロナワクチンはmRNAワクチンとウイルスベクターワクチンに分けられる。ちなみに中国のシノバック製の新型コロナワクチンは不活化ワクチンだ。

mRNAワクチンとウイルスベクターワクチンは最新技術であり、今回の新型コロナワクチン以前ではmRNAワクチンで承認されたものはないし、ウイルスベクターワクチンもエボラウイルスに対してのものだけだ。

現在、日本で接種が始まっている新型コロナワクチンはmRNAワクチンということになる。新型コロナウイルスの表面には、「スパイクタンパク質」と呼ばれる突起があり、これが人間の細胞表面のタンパク質と結合する。これが新型コロナ感染の条件になるから、mRNAワクチンは、これを阻害するのが目的だ。mRNAワクチンにはスパイクタンパク質の設計図が含まれていて、これを投与されると、細胞に到達したmRNAから細胞はスパイクタンパク質を生成する。これを免疫細胞が認識、記憶して、中和抗体を作り出すことによって免疫を獲得するという仕組みのようだ。上に書いた従来の組み換えワクチンでは工場で作っていたタンパク質を投与していたわけだけど、mRNAワクチンでは、その設計図だけを体内に入れ、タンパク質そのものはヒトの体に作らせる仕組みだから、凄い技術だ。ていうか、ヒトの体って凄い!

ワクチンのmRNAはスパイクタンパク質の情報だけだから、新型コロナそのものの情報は含まれていないわけで、感染したり、ウイルスの遺伝情報が体内に取り込まれることは有り得ない。またmRNAは核内には入らないから、ヒトの遺伝情報に組み込まれることもないし、mRNAは細胞に取り込まれてから20分以内に全て分解され、作り出されたタンパク質も10日以内に全て分解されるそうだ。つまり新型コロナワクチンの仕組みは、素人感覚でも、これまで我々が接種してきている既存のワクチンに比べ、安全性が高いと感じられる。

 

新型コロナワクチンとジェンナー

ワクチンと言えば、僕は真っ先に近代免疫学の父と呼ばれるエドワード・ジェンナーが頭に浮かんでくる。天然痘予防に種痘を開発した人物だ。ジェンナーは牛痘に感染した人は天然痘にかからないという農民の話から、牛痘接種を思いつく。牛痘はヒトの天然痘と違って、感染しても死亡率の低い病気だったようだ。僕が子供のころ読んだ本にジェンナーが自分の息子に牛痘接種を試している挿絵が出ていて、なぜかその印象が強烈で、その絵を未だに覚えている。しかし、実際は、ジェンナーが牛痘接種を最初に試した少年は、どうやら、実の息子ではなかったらしい。いずれにしてもジェンナーから始まる種痘によって我々人類は天然痘を克服したのは確かだ。

 

牛痘接種の風刺絵
James Gillray, Public domain, via Wikimedia Commons

 

上の絵はウィキペディアに出ていたものだが、1802年当時の風刺画だ。種痘を受けた人の体から牛が生えたり、角が生えたりしている。人は未知なるものに恐怖感を抱くから、ワクチンの概念が現在のように行き渡っていない当時であれば、牛由来のものを人体に打つわけだから、こんなデマが横行したって不思議ではない。恐怖感があると人は感情的なバイアスがかかりやすくなるのだ。

新型コロナワクチンに関しても、不妊になるとか、マグネットがくっつく体になるとか、様々なデマが飛び交っている。そういった中、ワクチン接種に対して抗議する人たちもいる。厚生労働省が発表している資料でも、ワクチン接種後に亡くなっている人がそれなりの割合で存在している。もちろん、厚生労働省は死因にワクチン接種との因果関係はないとしている。上に書いたmRNAワクチンの仕組みから考えれば、因果関係はないと考える方が自然だ。しかし、冒頭で書いたように予防接種そのものに感情的な抵抗感ができてしまっている僕は、それでも、やっぱり、なんかあるんじゃないの!?と考えたくなる。ましてや、ワクチンの仕組みを理解していない状態で、ワクチン接種に感情的な抵抗がある人ならば、デマに飛びつきたくなるのは、ごくごく自然なことだと思われる。

凄まじく技術が進歩し、情報も得やすい時代になった現在も、人の本質はジェンナーの種痘が始まった頃と何も変わっていないと言っていいのかもしれない。

我々の思考や判断は、感情や権威から多大な影響を受け、バイアスがかかりやすい。新型コロナワクチン接種のデマや自分自身のことを考えてみると、未知なるものの恐怖感がある時の感情によるバイアスは本当に大きいと思う。今後、ますます技術は進歩し世の中が変化していく中で、自分自身の思考や判断が何に影響を受けやすいかを自覚した上で、情報収集し、考える力はますます重要になってくると僕は考えている。

SHIN MICではディスカッションを通して、そういった力を養う事を大切に考えている。

 

 

 

NIVIDA Canvas

NIVIDA Canvas | 近未来を想像する

米NVIDIAが発表したWindows10用アプリの「Canvas」が凄い!
上の動画を見てもらうと分かると通り、ベタ塗りの落書きがAIの処理によって、写真のような高精細な風景画像にリアルタイムで変換されていく。しかも出来上がったものはPhotoshopにレイヤーを保持したまま書き出せるようだから、様々な素材を作り放題って感じだ。もう、ヤバッ!って感じのレベルだ。AIもここまで来たか!とビビった。

しかも、今ならβ版を無料ダウンロードできるようなので、早速、ダウンロードして遊んでみようと思ったが、システム要件のGPUの欄に、GeForce RTX, NVIDIA RTX, Quadro RTX, TITAN RTXと記載があった。残念ながら僕のパソコンは、こんなグラフィックボードは積んでいない。こういうグラフィックボードを積んでるのってゲーム目的のお値段の高いパソコンだ。まさか「Canvas」で遊んでみるだけに、新たにお値段の高いパソコンを買うわけにもいかず、とりあえず断念した。笑

 

 

ベタ塗りの落書きから、これほど高精細な画像をAIが生成することに、現実と仮想世界との境界があやふやになりつつあることを感じてしまう。こういったソフトも、きっと風景だけでなく人物や食品などあらゆるものに広がっていくのだろう。そして、やがては出回ってる写真と思われる画像の半分以上がこうしてAIが作り出した画像なんて状態になるかもしれない。

 

5Gと6G

現在はまだ5Gが普及し始めたところだけど、5Gが普及すると、ありとあらゆるものがインターネットに接続されていくだろう。それによって収集されるデータはさらに膨大になり、AIの進化も、より加速すると考えられるから、さらにAIが社会で果たす役割が増え、仕事にも多くの影響が出てくるのではないかと思われる。そして、既に6Gの研究も始まっている。6Gも20年後といえば世の中に普及している可能性がある。6Gは桁違いの通信速度だから、SFに出てくるようなフォログラムや、視覚や聴覚だけでなく、触覚や匂いなども伝える技術も現実化する可能性だってある。そうなれば、我々は物理的な制約から解き放たれることになる。例えばオフィスに物理的に移動して出勤しなくても、仮想空間のオフィスにフォログラムで出勤すれば済むようになるかもしれない。もちろんAIは格段に進化するから、現在人が行っている仕事の多くをAIが受け持つようになるだろう。つまり生き方や働き方、そして我々の価値観も大きく変わる可能性がある。

ゲームもアニメのソードアート・オンラインに近いものが出てくるかもしれない。

 

 

つまり現実と仮想現実の境界が極めて曖昧になり、現実世界の自分と仮想現実世界の自分と、どちらが自分のアイデンティティーなのか分からないような状態が現実のものとなる可能性が考えられる。それが遠い未来のことではなく、ほんの20年後には、そんな世界に我々は生きている可能性がある。それほど変化スピードが速い時代に我々は生きているのだ。

ほんの10年、20年で、生き方や働き方、価値観が大きく変わってしまう時代に生きているわけだから、我々は現在の常識や考え方に捉われず、物事を深く考える意識や習慣を身に付ける必要があると思うのだ。

Let’s think!

 

思考と判断

Bitcoinと鈴木商店 | 判断の思考部分について考える

皆さんもご存知の通り、5月にビットコインが大暴落した。ビットコインだけではなく、もれなく他の仮想通貨も大暴落したわけだけど。

あっという間に価値が半分になってしまったから、もし最高値の1ビットコイン700万円近辺で買っていたなら、大損害だ。これほどの大暴落だから甚大な損害を被った人も多いかもしれない。ビットコインの爆上げ過程では、メディアでもそれをあちこちで取り上げていた。仮想通貨投資による「億り人」の紹介なんかも、この時期にはよく目にした。

しかし、仮想通貨に限らず株なんかもそうだけど、メディアが爆上げを取り上げだすのは、既に爆上げの終わりの時期から頂点をつける時期がほとんどだ。だからメディアで取り上げられるのを見て「儲かりそう!」と手を出すと痛い目を見るパターンが多いんじゃないかと思う。そして、ひとたび大暴落が起これば「仮想通貨バブルは終わった」とか「大暴落はまだ始まったばかり」といったネガティブな報道のオンパレードになる。まあ、ビットコインに関しては実際に「中国のマイニングの禁止」とかテスラの「テスラ車のビットコインによる購入を認めない」といったネガティブな出来事が続いたのも確かだけど。

そんな中、積極的なビットコイン投資で知られる米ソフトウエア企業のマイクロストラテジーが約540億円分のビットコインを買い増ししたと発表した。平均購入価格は3万7617ドルということらしい。今日現在1ビットコインは3万4000ドル近辺だから評価損が出ていることになる。今後、マイクロストラテジーがどうなるかは分からないが、えてして巨額の利益を上げる人は、こういった総悲観の中で密かに買ったりしていることが多い。

そもそも、現在のビットコインの状況が、そこまで悲観的なものかを冷静に考えてみれば、ビットコインは元々乱高下が激しく、毎年のように50%くらいの大暴落を繰り返している。そしてそのたびに総悲観状態になりながらも再上昇して高値を更新し続けてきている。だからと言って今回もそれがあるとは限らないけれど、ビットコインの値動きをよく見ている人の中には、今が絶好のチャンスと捉えて大量購入する人がいても不思議な話ではない。

 

鈴木商店

皆さんは鈴木商店をご存知だろうか?
鈴木商店は明治から昭和の初めにかけて活躍した商社だ。神戸の一個人商店から始まり、瞬く間に日本一の総合商社になっている。その最盛期にはスエズ運河を航行する船の1割が鈴木船籍だったというから凄いものだ。鈴木商店は昭和に入って倒産するが、鈴木商店からはIHI、帝人、双日、昭和シェル石油、サッポロビール等々の大企業が生まれてきている。僕は個人的に鈴木商店の物語が好きなので、また機会があれば、いろいろと書いてみたいと思うけれど、今回は、とりあえず興味のある方は、下の動画で鈴木商店のあらましを掴んでみて欲しい。

 

 

上の動画の中にも出てくるが、鈴木商店が本格的な世界進出をするきっかけになったのが、鈴木商店の立役者である大番頭の金子直吉による鉄の買いまくりだ。第一次世界大戦勃発時、多くの人が、この戦争は長引かないと考えていたわけだけど、金子直吉は独自の情報網から戦争は長引くと考えて、鉄の需要が増えることを予測し、信念をもって鉄を買いまくっている。鈴木商店が鉄を買いまくるのを見て「鈴木の金子は頭がおかしくなった」とか「これで鈴木も終わりだ」と他の商社ではささやかれていたみたいだから、金子直吉だけがその他大勢と逆の判断をして思い切った行動に出ていたことになる。結局、金子直吉の予測が当たって鈴木商店は巨額の利益を得ることになるわけだ。

 

判断の思考部分について考える

もともとビットコインの値動きをよく観察して分析している人でもない限り、この大暴落状況で新たにビットコインを買ってみようと思う人は少ないはずだ。多くの人は「ビットコインは怖い、危ない、怪しい」といった感情によって、手を出さないという判断に至るだろう。逆に上に書いたマイクロストラテジーなどは、ビットコインの値動きを観察分析し、論理を積み重ねた上で買い増しするという判断にいたったんじゃないかと想像できる。鈴木商店の金子直吉も、他から何を言われようが、自分の情報分析と論理の積み重ねから確信を持って鉄を買いまくったのだと思う。

しかし、情報分析や論理を簡単に裏切ってくるのも相場というものの動きだ。自分の情報分析と論理から確信にいたり信念に固執すると、相場が逆に動いた時には「自分は間違ってはいない!間違っているのは相場だ!」と本末転倒な事を言い出す人もいるくらいだ。以前の記事の論理を超える「なんとなく」でも書いたが、論理よりも直観に従った方が正しいこともある。つまり相場を判断する際、思考部分において論理的な考えが正しいとは限らない。では直観が正しいのかと言えば、論理的な考えよりも分が悪いことの方が多い。もちろん感情に従った判断ともなれば、さらに分が悪いことが多いのは明らかだ。

我々は生きている限り、小さなことから大きな事まで、常に判断を迫られる。判断を迫られるということは、そこに不確定要素があるからだ。だから、その判断が正しかったかどうかは結果論であって絶対的に正しい判断というものはない。それでも我々は判断を行う時は正解するために判断を行う。よく判断材料という言葉が使われるが、判断材料という言葉を出す時点で、その判断は論理に頼ったものと言えるだろう。しかし相場のように論理を逸脱してくるケースも多々あるわけで、ある判断材料による判断が間違っていた場合、そもそも判断材料が間違っていたと、別の論理が持ち出されてくる。しかしこの論理は言わば後付けのものであって、判断前にその論理を確実に引き当てられるものではない。

我々は判断を行う際、論理だけでなく、感情や直観、願望など様々な思考に左右される。だから判断する際、自分はどの思考に偏っているかを意識してみる必要がある。また、自分はどのような場合にどの思考要素のウエイトが高くなりやすいのか、それによって正解を導くことが阻害されている可能性はないかを意識してみることは大切だと思う。

あなたなら、大暴落しているビットコインを買いますか?
自分の判断はどの思考要素によるものですか?
ちょっと真剣に想像してみるだけでも、判断の際の思考要素を意識するきっかけにしてもらえるのではないかと思う。

 

ジャーナリングのすすめ

muute(ジャーナリングアプリ) | ジャーナリングのすすめ

今週からAndroidでもジャーナリングアプリのmuuteが使えるようになったので早速、使ってみた。

ジャーナリングは、日記とは違って、とにかく頭に浮かんだことを思いのままに書きだすというもので、「書く瞑想」なんて言われたりしている。特に感情的な事を書きだしたりすると、ストレス軽減にもつながり精神的にいいということが科学的にも証明されているらしい。

誰に見せるものでもないから、心の赴くままに書いていけばいい。手で実際にノートに書くのがいいらしいけど、muuteにはアプリならではの良さがある。muuteはAIが自分の思考や感情を分析してフィードバックしてくれるから、一人でもくもくと書くのと違って、ちょっとやる気もでるし、楽しい。

感情選択や、muuteが提供してくれる質問に答える形でも書くことができるから、書くことが見つからないなんて時でも、とりあえずは何かを書くことはできる。新たな自分探しの旅をAIが手伝ってくれるようなアプリで、おもしろい。

muute words
muute biorhythm
muute mind space
muute emotioin

僕は、とりあえずTwitterに投稿するような感覚で書いてみている。ただしmuuteへの投稿は他人は見ることなく自分しか見ないから、感情をさらけ出し、アイデアなど思いつくままに書いてるのが、SNSへの投稿との違いだ。

もちろん、何かテーマを決めて書いてみるのもいいし、使い方は人それぞれだと思うけれど、思いつくままに書いたものを振り返ることによって、新たな自分探しができるだろう。それをAIがお手伝いしてくれるから、楽しくジャーナリングを続けられるアプリなのだと思う。そして、とにかく操作が簡単なのが素晴らしい。

自分だけのものを書くわけだから人に見られるのは基本的には困る。muuteの設定でアプリを開くためのパスワード設定や指紋認証の設定も簡単にできるから安心もできる。

目的と手段の罠

実際のところ、自分自身のことって案外分からなかったりする。自分が本当に望んでいるものが何かを、よく認識できている人は、少ないんじゃないかと思う。子供の頃は将来の夢とか、進路を考えるときなどに、自分がどうしたいのかを、ある程度考える機会が与えられたけれど、大人になると、日々の仕事に精一杯で、自分が本当に望んでいるものを考えるということすらしなくなる傾向が多くの人にあるのではないだろうか。

そういった状況下では、目的と手段が逆転する「目的と手段の罠」に陥りやすい。例えば、家族を幸せにしたいというのが本来の望みであり目的だったとする。家族に不自由な生活をさせたくないから多くを稼ごうと思う。その為には昇進も果たさなければならないしと、がむしゃらに働く。仕事、仕事で家にいることも少なくなり、いつの間にか家族とのすれ違いが起こり始める。多少、家族との不和があっても、今、昇進を果たさなければと躍起になり、やがて、それが常態化していく。この時点で目的は「昇進」になっており、目的と手段が逆転してしまっている。僕の父もそうだったけれど、高度経済成長期には多かったパターンではないかと思う。

目的と手段の罠は、現在でもサラリーマンだろうが経営者だろうが、全ての人に起こりやすい現象だ。ひとたび目的と手段の罠に陥ると、本来の自分の望みと違った方向に、力を入れ続けることになる。しかも、本来の目的を忘れ、手段が目的になってしまっていることに気付くことが難しい。

そもそも、自分の本当の望みが何かを認識できていないケースも多いのではないかと思う。例えば「お金持ちになりたい」と思った時に、なぜ自分はお金持ちになりたいのか?を自分に問うてみた方がいい。その答えが、いい車に乗ったりブランド服を着たりして他人に見栄をはりたいなんてことだってある。そしたら、なぜ自分は見栄をはりたいのか?見栄をはることによって自分は何を得ようとしているのか?と、心が究極的に何を求めているのかを自分自身と対話して、本当の望みを認識していく作業は大切だ。自分の本当の望みと違った方向に進んでしまうと、当初考えた「お金持ちになりたい」が実現できても、何か満たされず、どこまでも渇き続けることになってしまう。

 

自分の心が本当に望んでいることを知る事や、目的と手段の罠に陥ってないかをチェックする上でもジャーナリングは有効だ。しかもmuuteの場合、AIがフィードバックしてくれるから、自分だけではなかなか気づきにくいことを気付けるってのが、ちょっと使ってみた僕の感想だ。

ブログに書いたりSNSに投稿する時ってのは、他者を意識して書くから知識を固定する時には有効だし、他者とのやり取りの中で、その知識に対する新たな気づきがあったりする。それに対してジャーナリングは、完全に自分とのやり取りだ。顕在意識と潜在意識との対話と言ってもいいかもしれない。通常、学ぶ時ってのは対象は他だけれど、ジャーナリングは自分自身について学べる数少ないツールだから、皆さんにも試してみて欲しい。muuteなら、その作業も楽しくできるようになっているから、僕としてはおすすめのツールだ。

自分自身について学ぶ旅にでかけよう!!

 

二重スリット実験

二重スリット実験と引き寄せの法則

二重スリット実験と言えば高校時代の物理で習った「ヤングの干渉実験」だ。それぞれのスリットを抜けた水の波の「山と山」もしくは「谷と谷」が出会うと波が強くなり、「山と谷」が出会うと打ち消し合って波がなくなり、その結果、干渉模様ができるというものだ。ところが、これが水の波ではなく量子に置き換わった瞬間に不思議なことが起こる。物理学の世界では、過去、いろいろな説明がされてきているが、謎の現象と言っていいだろう。

下の動画では、量子の二重スリット実験を分かりやすく解説してくれている。その上で、量子の二重スリット実験や光の速度の上限、量子もつれなどの物理の現象をコンピューターゲームと対比して、この世界は仮想現実ではないかという主張を行っている。確かに下の動画で言っているように、この世界が誰かの作った仮想現実ならば、物理の摩訶不思議な現象の説明もつくわけで、とても面白く見させてもらった。

 

 

この世界では我々人間も含め、植物以外の生き物は他の命を奪ったり傷つけなければ生きていくことができない。自然界のシステムはとてもよく出来たシステムではあるけれど、どうして、こんな残酷なシステムになっているんだろうかと考えることが僕はたまにある。でも、この世界が誰かが作った仮想現実ならば、この方が面白いから、こんなシステムにしたんじゃないかと、とりとめもなく考えてしまった。笑

 

観察によってプログラムのスイッチが入る仕組みならば、シュミレーションゲームのように思考はゲーム展開にもっと大きなトリガーになるのかもしれない。そこで、暫く前に流行った「思考は現実になる」のロンダ・バーンの「ザ・シークレット」を思い出した。「ザ・シークレット」以後、あちこちで「引き寄せの法則」を目にするようになったから、インパクトのあった自己啓発書と言えるだろう。

 

 

「ザ・シークレット」はあちこちに影響を及ぼしたけれど、「思考は現実になる」とか「引き寄せの法則」は表現は違っても、過去の自己啓発書でも同じことが言われている。

僕が20代の頃は、自己啓発が流行った時期で、ナポレオン・ヒルの「成功哲学」に始まり、様々な自己啓発書がたくさん書店に並んでいた。そんな中でポール・J・マイヤーという人の言葉がカッコよく感じて、未だに覚えている。

 

ポール・J・マイヤーの言葉

Whatever you vividly imagine, ardently desire, sincerely believe,
and enthusiastically act upon… must inevitably come to pass.

鮮やかに想像し、熱烈に望み、心から信じ、魂を込めた熱意をもって行動すれば、何事も必ず実現する。

 

ちなみにマザー・テレサが言ったとされる言葉も、意味合いは似ている。

 

マザー・テレサの言葉

Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words.
Be careful of your words, for your words become your deeds.
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits.
Be careful of your habits for your habits become your character.
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

いずれも、思考が最初にあり、それを言葉にして行動があって望みが実現することを言っている。過去の自己啓発書でも、思考の仕方や、それを言葉にするやり方、そして、どのようにそれを行動に落とし込んでいくかを解説しているって感じじゃないだろうか。「ザ・シークレット」では、ここにさらにスピリチュアル的な要素が入り込んでるから、それが、世界中で売れた要因なのかもなんて、僕は思っている。

スピリチュアルでは思考や魂を、エネルギーや波動として表現する。普段、我々も「あの人とは波長が合うとか合わない」といったような表現を使うから、なんとなく奥底で感じ取っているものなのかもしれない。上の「ザ・シークレット」の動画では我々が望みを本気で思えば、宇宙がそれを与えてくれるってことだから、宇宙の波動と我々の波動を同調させるって感じなのかもしれない。この世界が誰かが作った仮想現実だとするならば、その中で予めプログラムされたものに合わせて効率よくプレイするための解説書みたいな感じかもしれない。

「ザ・シークレット」の動画の中では、ポジティブな思考よりネガティブな思考の方が強く作用することと、宇宙は否定形を理解できないということを言っている。これはとても重要なポイントだと僕は思う。それ故、実践はとても難しいと僕には思えるのだ。

望みをかなえるために思考を変えること

思考を変えるというのは、とても大変な事だと僕は思う。
何かをやる時に「自分なら出来る!」といくら言い聞かせても「でも失敗するんじゃないか」という不安が付きまとう時点で、思考は変えられていない。逆に無理っぽい事でも、「なんとかなるんじゃねえの!」って思える時は、案外、なんとかなったりする。これは思考が出来る!になっているからだ。

自己啓発書によく出てくるワードで「お金持ちになりたい」ってのがある。この「お金持ちになりたい」という事を思った時点で、自分がお金持ちではないことを認めてしまっている。よく言われる顕在意識と潜在意識でいうならば、顕在意識で自分は「お金持ちだ」といくら思っても、潜在意識では、それを否定した状態だ。

結局のところ、まずお金持ちになるためのロードマップを作り、それを、自分に出来る事だと分かるところまで細分化して、細分化したもの一つ一つについて学び、行動し、実現していくしかない。細分化したものが一つ一つ実現していく中で、成功体験が積み重なり、初めて、お金持ちになるという望みが潜在意識にも浸透していき思考が変わっていくってことじゃないかと思う。本当に思考を変えるためには経験も含めた学びが必要だと思うのだ。

この過程で「カステラの法則」が発動されるのは容易に想像できる。つまりは引き寄せだ。思考の実現も引き寄せの法則も、最初に思わなければ始まらないことは確かだけれど、ただ思って、願っていれば宇宙が与えてくれるってことではないと思う。

本当の意味で思考を変えるためには、経験も含めた多くの学びが必要になってくると僕は思う。

SHIN MICの教室では自己実現と思考の関係なんかも、扱っていく予定だ。

永田鉄山

永田鉄山 | 歴史の「もしも」を考える事

昨日、たまたま永田鉄山が長野県の出身であることを知った。近現代史に詳しい人なら、今さら何をって話だろうけれど、東条英機や石原莞爾の名前は知っていても永田鉄山の名前を知らない人はけっこう多いんじゃないだろうか。

以下はウィキペディアからの抜粋だ。

永田 鉄山(ながた てつざん、1884年(明治17年)1月14日 – 1935年(昭和10年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業したのち参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だったが、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害された。

ウィキペディア

僕が中学・高校の頃は、学校では近現代史は、簡単にしかやらなかったから、僕が永田鉄山を知ったのは大人になってからだ。きっかけは2.26事件を描いた映画226を見たことだった。この映画の中で繰り返し歌われていたのが「昭和維新の歌」だ。僕が当時、通った高校では、入学すると新入生全員に、校歌や応援歌が掲載された歌集が配られた。この歌集には校歌や応援歌以外にも、旧制高等学校寮歌や民謡まで掲載されていたが、その中に「青年日本の歌」という題名で「昭和維新の歌」も掲載されていた。それが映画の中で繰り返し歌われていたから、高校時代なんとなく眺めていた歌詞の歌がどういう歌なんだろう?という疑問から、二・二六事件を初めて詳しく調べ、その過程で永田鉄山という人物を知ったわけだ。

「昭和維新の歌」は昭和5年5月、当時24歳だった三上卓海軍少尉が作詞したものだ。歌詞の内容は今現在の日本にも当てはまる部分があり、屈原の楚辞を知らなければ、冒頭の歌詞から意味が分からないから、教養も織り込まれた、なかなか素晴らしい歌詞だ。この歌は昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いでいる。現在では軍歌というジャンルに入れられているが、作詞された経緯や内容的にも軍歌とは、ちょっと違うんじゃないかと僕は思っている。以下にその歌詞を掲載しておくので、読んでみて欲しい。

昭和維新の歌
作詞・作曲:三上 卓

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし

三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花

五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐

八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや

九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

この歌詞からは当時の社会への不満や憤りと共に何とかしなければという思いが伝わってくる。2.26事件を引き起こした青年将校たちは、純粋にこういった思いを抱いていたのではないかと思うが、2.26事件を調べると、すぐに分かるのが、当時の陸軍内の皇道派と統制派という派閥の争いが事件のベースにあることが分かる。2.26事件の青年将校は皇道派に属しており、永田鉄山は統制派の中心人物だ。

永田鉄山が陸軍省軍務局長に就任してから、皇道派は陸軍の中心から追いやられていく。そんな中、皇道派の相沢中佐が陸軍省を訪れ、白昼に永田鉄山を斬殺するという事件が起きる。この斬殺事件が、その後の2.26事件に繋がっていく。

経緯を恐ろしくザックリ書いたけれど、この辺りの事に興味のある人は是非、調べてみて欲しい。

僕は映画226から入ったから、皇道派の青年将校に同情的な感情があったのと、永田鉄山は満州事変を支援し、「国家総力戦」「国家総動員体制」づくりを進めた中心人物だし、永田鉄山に対して、あまりいいイメージを抱かなかった。満州事変は泥沼の日中戦争から対米戦争に繋がっていくし、国家総力戦、国家総動員体制は、あの戦争で国民に塗炭の苦しみを味合わせたからだ。

しかし永田鉄山について調べていくと、しばしば「もし永田鉄山が生きていたら、太平洋戦争は回避できたのではないか?!」という意見を目にする。

当時の陸軍の軍人で名前の頭に「天才」の2文字をつけられるのは、満州事変を主導した石原莞爾と永田鉄山くらいだろう。永田鉄山が生きていれば東条英機が歴史の表舞台に出てくることはなかったと言われるくらいだから、凄まじく頭の切れる人だったのだろう。軍隊の存在価値は戦争回避にあるというのが永田鉄山の考えだったようだし、国家総動員体制もその後の歴史から我々がイメージする国民を戦争に引きずり込むような概念とは別のものが彼の頭の中にあったのかもしれない。満州事変を主導した石原莞爾は最終的にアメリカとの戦争を見据えながら、中国と連携する必要性を感じており、日中戦争には反対の立場だったと思われる。満州事変は彼の中では何手先も考えた布石だったのだろうけれど、現実は、その反対へと動いて行ってしまったわけだ。

石原莞爾はその言動や行動から、僕は天才肌の組織の型にはまらない癖の強い人だったのではないかと思う。それに対して東条英機は典型的な組織人だったのではないかと思われる。石原莞爾と東条英機は水と油で、仲がよろしくなく、東条英機が実権を握ったあとは石原莞爾は陸軍を追われていき、太平洋戦争時には完全に蚊帳の外だ。

永田鉄山は頭が切れ、政界、官界、経済界に幅広い人脈を持ち、人望も厚かったようだ。少なくとも東条英機は永田鉄山のことをめちゃんこ尊敬していたらしいから、もし生きていれば、東条英機と石原莞爾の2人をうまく使ったのかもしれない。

歴史の「もしも」を考える事

「もし永田鉄山が生きていたら、太平洋戦争は回避できたのではないか?!」

永田鉄山は合理的な人だったようだし、日露戦争の成功体験から抜け出れない陸軍を刷新し、変革を行うという実行力もあった。そんな彼だから、対米戦争の勝ち目が見出せなければ、そのスーパーな頭脳と人脈を駆使して戦争回避に全力を尽くしたかもしれない。しかし、実際の歴史では彼が引いたレールは陸軍暴走へと繋がっていったわけだから、果たして回避なんてできたんだろうか?

この「もしも」を真剣に考えようとすると、当時の世界情勢と日本の置かれていた状況、日本の社会状況、経済、国民感情、軍や政界中央部にいた人物それぞれの生い立ちや性格と思想、世界や日本の当時の感覚等々、膨大な情報が必要になってくる。

そして、我々一般人はとかく歴史を現代の感覚で考えてしまいがちだが、当時の感覚を理解できなければ、その当時の人の言動や行動の意味を正確に理解することができない。そういった感覚や感情を理解するためには、さらに膨大な周辺情報が必要になってくる。

「歴史にもしもはない」

なんて、よく言われるけれど、それは「もし、こうだったら良かったのに!」と考える事であって、真剣に歴史の「もしも」を考える事は、集めた情報から様々なケースを考えることになり、自分なりに歴史認識を深められると思うのだ。

「もし織田信長が生きていたら」

とか、そんなことを情報を集めて自分なりに真剣に考えてみるのは、それなりに知識も増えるし、けっこう楽しい。もちろん僕らは歴史学者ではないから、それを論文に書く必要もないし、完璧な情報や論理を持ち込まなくても、楽しみながら自分なりに歴史認識を深められれば、それでいいと思うのだ。

今、大河ドラマでやってる渋沢栄一の「もしも」だっていい。それを考えるために、調べ、自分自身で考えることによって、必ず新たな知識や考え方が入ってくる。それは自分自身を豊かにしていくものだ。

歴史の「もしも」を考えて楽しんでみて欲しい。

クサノオウの花

身の周りの植物から広がる世界 | アヘンの代替品クサノオウ

上の写真は、今朝、家の横で撮ったクサノオウという雑草の花だ。今、あちこちでこの雑草の花が咲いており、よく注意してみると松本市街地でも路傍で目にすることができる。普通はこんな雑草の花をいちいち気にとめる人は少ないだろうから、ほとんどの人は咲いていることすら意識に飛び込んできていないだろう。

でも、このクサノオウは何気に凄い草だったりする。

クサノオウはケシ科クサノオウ属の典型的な毒草だ。毒という事は、逆に薬にもなるということで、古くから薬草として利用されてきた。

 

古くから主に民間療法において薬草として使用されてきた歴史がある。漢方ではつぼみの頃に刈り取った地上部を乾燥させたものを白屈菜と称し、特にいぼ取りや、水虫、いんきんたむしといった皮膚疾患、外傷の手当てに対して使用された。また煎じて服用すると消炎性鎮痛剤として作用し胃病など内臓疾患に対して効果がある、ともされている。しかし胃などの痛み止めとして用いる際には嘔吐や神経麻痺といった副作用も現れる。湿疹、疥癬、たむし、いぼといった皮膚疾患の外用薬としても有効であるが、有毒植物であるため内服するにせよ外用するにせよ、素人が処方なしで用いるのは危険である。

ウィキペディア

 

西洋ではケリドニンの中枢神経抑制作用を利用してアヘンの代替品として用いられたり、がんの痛み止めにも使用された。日本では晩年に胃がんを患った尾崎紅葉がこの目的で使用したことで特に有名であるが、本種自体が強い毒性をあわせもつので現在は用いられない。

ウィキペディア

 

クサノオウの茎や葉からは有毒な橙黄色の汁液が出てくる。この汁液には、ケリドリン、プロトピン、ケレリトリンなどのアルカロイドが含まれている。このアルカロイドはケシに比べれば弱いが、鎮静作用や知覚末梢神経を麻痺させる作用があるから、それを利用して上のウィキペディアの記載にあるように、西洋ではアヘンの代替品として使われたのだろう。ちなみに尾崎紅葉は、晩年に胃がんを患った際に痛み止めとしてクサノオウを使用している。

 

クサノオウの橙黄色の汁液

クサノオウの汁液

この汁液が健康な皮膚につくと炎症を引き起こしたり、間違って口に入ったりすると、嘔吐、下痢、昏睡、呼吸麻痺、手足のしびれといった症状がでるようだから、要注意だ。

 

ネット上を探すと、このクサノオウの麻薬成分を試すべく吸引にチャレンジした人の記事があった。基本的にクサノオウは毒草だから、かなりのチャレンジャーだ。以下は書かれていた吸引後の感覚の一部だ。

 

世界が完全になった。
この感覚はうまく言葉に表せないのだが、とにかく不完全だった世界が今まさに完全になりつつあり、光は手裏剣型に滲み、脳みそはフル回転し、背筋に心地よい怖気のようなものが走り、世界は完全になり、近視なのにメガネなしで遠くの山の端まですっきり見えた。
やがて首の裏から発した地震は背中全体を駆け巡り、射精感にも似たびくつきは6回を数え、数えるごとにそれはいや増し、世界は完全になり、あごはがくつき、目は見開かれた。

車上生活で本を書く 青井硝子のケイトライフ
「煙遊び」と「煙薬(けむりぐすり)」について

 

吸引後の感覚を、幻覚などはなく、酩酊感や覚醒といった感覚とも違うと記事には書かれているが、「世界が完全になった」なんて感覚は、まさにクスリがキマッた時の感覚ではないかと僕は想像する。

とにかく、道行く人のほとんどが全く意識にとめず、そこに咲いている事にさえ気づいていないこの雑草は、なかなか凄い草ということだ。前回の記事に書いたDr.Stoneの千空であれば、こういった身の周りの草からも有用な化学物質を精製することが出来るだろう。

 

身の周りの植物から広がる世界

実はこういった麻薬成分を含む植物はクサノオウ以外にも存在している。例えば、野生のものから観賞用のものまでチョウセンアサガオはアルカロイド系の毒素を持つ植物で、ドラッグとして使用すると強烈な幻覚作用を引き起こす。江戸時代に世界初の全身麻酔による外科手術を行った華岡青洲がチョウセンアサガオから精製したものを「通仙散」という麻酔薬として使ったのは有名な話だ。また、チョウセンアサガオの別名にダツラという呼び名があるため、かつてオウム真理教が「ダツラの技法」と称して、信者の洗脳や自白にチョウセンアサガオを利用していたらしい。

 

チョウセンアサガオの花

チョウセンアサガオの花

 

毒系では、たまに観賞用に植えてあるのを目にするトウゴマは、もともと種からヒマシ油という油を搾るための作物だが、トウゴマからはリシンというタンパク質を精製することができる。このリシンは猛毒で、かつてKGBが暗殺に使用した毒物として有名だ。庭先や畑の隅に観賞用に植えてあるトウゴマを目にするたびに、僕はリシンが使われた事件を思い出すが、トウゴマを知らない人は、そこに植えられていることも意識のうちに入ってこないのだと思う。

今日、写真に撮ったのがアヘンの代替品にまでなったクサノオウだったので、麻薬成分や毒物系でチョウセンアサガオやトウゴマを紹介してしまったが、道を歩いていて目に入ってくる雑草は、知っていれば、かなり面白い。現在は迷惑な雑草として扱われているが、もともとはサラダ菜として日本に入ってきたものや、ハーブとして入って来たもの、つまり食べられる系や、薬草系、有用な化学成分を含んだものなど、知っていれば、道を歩きながら雑草を見てるだけでもかなり楽しめる。

そして、クサノオウから尾崎紅葉、チョウセンアサガオから華岡青洲の世界初の全身麻酔による外科手術が出てきたように、それぞれの雑草も一歩踏み込んで調べてみれば、面白いことがたくさん出てくる。雑草から化学や歴史、デザインなど、広い範囲に知識を広げる事ができる。現在では、カメラを向けるだけで、その植物の名前を教えてくれる便利なアプリもあるから、知らない植物の名前を調べるのも簡単だ。是非、よく目にする雑草を一歩踏み込んで調べてみて欲しい。

きっと、普段歩く道で、今までと違った楽しみができ、違った世界が広がるはずだ。

これは植物に限ったことではなく、今まで何気なく見てスルーしていた石碑なんかもそうだ。

ちょっと意識するだけで、多くの学びが生まれ、自分の見える世界が変わっていく。