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YUICHI KOBAYASHI

永田鉄山

永田鉄山 | 歴史の「もしも」を考える事

昨日、たまたま永田鉄山が長野県の出身であることを知った。近現代史に詳しい人なら、今さら何をって話だろうけれど、東条英機や石原莞爾の名前は知っていても永田鉄山の名前を知らない人はけっこう多いんじゃないだろうか。

以下はウィキペディアからの抜粋だ。

永田 鉄山(ながた てつざん、1884年(明治17年)1月14日 – 1935年(昭和10年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業したのち参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だったが、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害された。

ウィキペディア

僕が中学・高校の頃は、学校では近現代史は、簡単にしかやらなかったから、僕が永田鉄山を知ったのは大人になってからだ。きっかけは2.26事件を描いた映画226を見たことだった。この映画の中で繰り返し歌われていたのが「昭和維新の歌」だ。僕が当時、通った高校では、入学すると新入生全員に、校歌や応援歌が掲載された歌集が配られた。この歌集には校歌や応援歌以外にも、旧制高等学校寮歌や民謡まで掲載されていたが、その中に「青年日本の歌」という題名で「昭和維新の歌」も掲載されていた。それが映画の中で繰り返し歌われていたから、高校時代なんとなく眺めていた歌詞の歌がどういう歌なんだろう?という疑問から、二・二六事件を初めて詳しく調べ、その過程で永田鉄山という人物を知ったわけだ。

「昭和維新の歌」は昭和5年5月、当時24歳だった三上卓海軍少尉が作詞したものだ。歌詞の内容は今現在の日本にも当てはまる部分があり、屈原の楚辞を知らなければ、冒頭の歌詞から意味が分からないから、教養も織り込まれた、なかなか素晴らしい歌詞だ。この歌は昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いでいる。現在では軍歌というジャンルに入れられているが、作詞された経緯や内容的にも軍歌とは、ちょっと違うんじゃないかと僕は思っている。以下にその歌詞を掲載しておくので、読んでみて欲しい。

昭和維新の歌
作詞・作曲:三上 卓

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし

三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花

五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐

八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや

九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

この歌詞からは当時の社会への不満や憤りと共に何とかしなければという思いが伝わってくる。2.26事件を引き起こした青年将校たちは、純粋にこういった思いを抱いていたのではないかと思うが、2.26事件を調べると、すぐに分かるのが、当時の陸軍内の皇道派と統制派という派閥の争いが事件のベースにあることが分かる。2.26事件の青年将校は皇道派に属しており、永田鉄山は統制派の中心人物だ。

永田鉄山が陸軍省軍務局長に就任してから、皇道派は陸軍の中心から追いやられていく。そんな中、皇道派の相沢中佐が陸軍省を訪れ、白昼に永田鉄山を斬殺するという事件が起きる。この斬殺事件が、その後の2.26事件に繋がっていく。

経緯を恐ろしくザックリ書いたけれど、この辺りの事に興味のある人は是非、調べてみて欲しい。

僕は映画226から入ったから、皇道派の青年将校に同情的な感情があったのと、永田鉄山は満州事変を支援し、「国家総力戦」「国家総動員体制」づくりを進めた中心人物だし、永田鉄山に対して、あまりいいイメージを抱かなかった。満州事変は泥沼の日中戦争から対米戦争に繋がっていくし、国家総力戦、国家総動員体制は、あの戦争で国民に塗炭の苦しみを味合わせたからだ。

しかし永田鉄山について調べていくと、しばしば「もし永田鉄山が生きていたら、太平洋戦争は回避できたのではないか?!」という意見を目にする。

当時の陸軍の軍人で名前の頭に「天才」の2文字をつけられるのは、満州事変を主導した石原莞爾と永田鉄山くらいだろう。永田鉄山が生きていれば東条英機が歴史の表舞台に出てくることはなかったと言われるくらいだから、凄まじく頭の切れる人だったのだろう。軍隊の存在価値は戦争回避にあるというのが永田鉄山の考えだったようだし、国家総動員体制もその後の歴史から我々がイメージする国民を戦争に引きずり込むような概念とは別のものが彼の頭の中にあったのかもしれない。満州事変を主導した石原莞爾は最終的にアメリカとの戦争を見据えながら、中国と連携する必要性を感じており、日中戦争には反対の立場だったと思われる。満州事変は彼の中では何手先も考えた布石だったのだろうけれど、現実は、その反対へと動いて行ってしまったわけだ。

石原莞爾はその言動や行動から、僕は天才肌の組織の型にはまらない癖の強い人だったのではないかと思う。それに対して東条英機は典型的な組織人だったのではないかと思われる。石原莞爾と東条英機は水と油で、仲がよろしくなく、東条英機が実権を握ったあとは石原莞爾は陸軍を追われていき、太平洋戦争時には完全に蚊帳の外だ。

永田鉄山は頭が切れ、政界、官界、経済界に幅広い人脈を持ち、人望も厚かったようだ。少なくとも東条英機は永田鉄山のことをめちゃんこ尊敬していたらしいから、もし生きていれば、東条英機と石原莞爾の2人をうまく使ったのかもしれない。

歴史の「もしも」を考える事

「もし永田鉄山が生きていたら、太平洋戦争は回避できたのではないか?!」

永田鉄山は合理的な人だったようだし、日露戦争の成功体験から抜け出れない陸軍を刷新し、変革を行うという実行力もあった。そんな彼だから、対米戦争の勝ち目が見出せなければ、そのスーパーな頭脳と人脈を駆使して戦争回避に全力を尽くしたかもしれない。しかし、実際の歴史では彼が引いたレールは陸軍暴走へと繋がっていったわけだから、果たして回避なんてできたんだろうか?

この「もしも」を真剣に考えようとすると、当時の世界情勢と日本の置かれていた状況、日本の社会状況、経済、国民感情、軍や政界中央部にいた人物それぞれの生い立ちや性格と思想、世界や日本の当時の感覚等々、膨大な情報が必要になってくる。

そして、我々一般人はとかく歴史を現代の感覚で考えてしまいがちだが、当時の感覚を理解できなければ、その当時の人の言動や行動の意味を正確に理解することができない。そういった感覚や感情を理解するためには、さらに膨大な周辺情報が必要になってくる。

「歴史にもしもはない」

なんて、よく言われるけれど、それは「もし、こうだったら良かったのに!」と考える事であって、真剣に歴史の「もしも」を考える事は、集めた情報から様々なケースを考えることになり、自分なりに歴史認識を深められると思うのだ。

「もし織田信長が生きていたら」

とか、そんなことを情報を集めて自分なりに真剣に考えてみるのは、それなりに知識も増えるし、けっこう楽しい。もちろん僕らは歴史学者ではないから、それを論文に書く必要もないし、完璧な情報や論理を持ち込まなくても、楽しみながら自分なりに歴史認識を深められれば、それでいいと思うのだ。

今、大河ドラマでやってる渋沢栄一の「もしも」だっていい。それを考えるために、調べ、自分自身で考えることによって、必ず新たな知識や考え方が入ってくる。それは自分自身を豊かにしていくものだ。

歴史の「もしも」を考えて楽しんでみて欲しい。

クサノオウの花

身の周りの植物から広がる世界 | アヘンの代替品クサノオウ

上の写真は、今朝、家の横で撮ったクサノオウという雑草の花だ。今、あちこちでこの雑草の花が咲いており、よく注意してみると松本市街地でも路傍で目にすることができる。普通はこんな雑草の花をいちいち気にとめる人は少ないだろうから、ほとんどの人は咲いていることすら意識に飛び込んできていないだろう。

でも、このクサノオウは何気に凄い草だったりする。

クサノオウはケシ科クサノオウ属の典型的な毒草だ。毒という事は、逆に薬にもなるということで、古くから薬草として利用されてきた。

 

古くから主に民間療法において薬草として使用されてきた歴史がある。漢方ではつぼみの頃に刈り取った地上部を乾燥させたものを白屈菜と称し、特にいぼ取りや、水虫、いんきんたむしといった皮膚疾患、外傷の手当てに対して使用された。また煎じて服用すると消炎性鎮痛剤として作用し胃病など内臓疾患に対して効果がある、ともされている。しかし胃などの痛み止めとして用いる際には嘔吐や神経麻痺といった副作用も現れる。湿疹、疥癬、たむし、いぼといった皮膚疾患の外用薬としても有効であるが、有毒植物であるため内服するにせよ外用するにせよ、素人が処方なしで用いるのは危険である。

ウィキペディア

 

西洋ではケリドニンの中枢神経抑制作用を利用してアヘンの代替品として用いられたり、がんの痛み止めにも使用された。日本では晩年に胃がんを患った尾崎紅葉がこの目的で使用したことで特に有名であるが、本種自体が強い毒性をあわせもつので現在は用いられない。

ウィキペディア

 

クサノオウの茎や葉からは有毒な橙黄色の汁液が出てくる。この汁液には、ケリドリン、プロトピン、ケレリトリンなどのアルカロイドが含まれている。このアルカロイドはケシに比べれば弱いが、鎮静作用や知覚末梢神経を麻痺させる作用があるから、それを利用して上のウィキペディアの記載にあるように、西洋ではアヘンの代替品として使われたのだろう。ちなみに尾崎紅葉は、晩年に胃がんを患った際に痛み止めとしてクサノオウを使用している。

 

クサノオウの橙黄色の汁液

クサノオウの汁液

この汁液が健康な皮膚につくと炎症を引き起こしたり、間違って口に入ったりすると、嘔吐、下痢、昏睡、呼吸麻痺、手足のしびれといった症状がでるようだから、要注意だ。

 

ネット上を探すと、このクサノオウの麻薬成分を試すべく吸引にチャレンジした人の記事があった。基本的にクサノオウは毒草だから、かなりのチャレンジャーだ。以下は書かれていた吸引後の感覚の一部だ。

 

世界が完全になった。
この感覚はうまく言葉に表せないのだが、とにかく不完全だった世界が今まさに完全になりつつあり、光は手裏剣型に滲み、脳みそはフル回転し、背筋に心地よい怖気のようなものが走り、世界は完全になり、近視なのにメガネなしで遠くの山の端まですっきり見えた。
やがて首の裏から発した地震は背中全体を駆け巡り、射精感にも似たびくつきは6回を数え、数えるごとにそれはいや増し、世界は完全になり、あごはがくつき、目は見開かれた。

車上生活で本を書く 青井硝子のケイトライフ
「煙遊び」と「煙薬(けむりぐすり)」について

 

吸引後の感覚を、幻覚などはなく、酩酊感や覚醒といった感覚とも違うと記事には書かれているが、「世界が完全になった」なんて感覚は、まさにクスリがキマッた時の感覚ではないかと僕は想像する。

とにかく、道行く人のほとんどが全く意識にとめず、そこに咲いている事にさえ気づいていないこの雑草は、なかなか凄い草ということだ。前回の記事に書いたDr.Stoneの千空であれば、こういった身の周りの草からも有用な化学物質を精製することが出来るだろう。

 

身の周りの植物から広がる世界

実はこういった麻薬成分を含む植物はクサノオウ以外にも存在している。例えば、野生のものから観賞用のものまでチョウセンアサガオはアルカロイド系の毒素を持つ植物で、ドラッグとして使用すると強烈な幻覚作用を引き起こす。江戸時代に世界初の全身麻酔による外科手術を行った華岡青洲がチョウセンアサガオから精製したものを「通仙散」という麻酔薬として使ったのは有名な話だ。また、チョウセンアサガオの別名にダツラという呼び名があるため、かつてオウム真理教が「ダツラの技法」と称して、信者の洗脳や自白にチョウセンアサガオを利用していたらしい。

 

チョウセンアサガオの花

チョウセンアサガオの花

 

毒系では、たまに観賞用に植えてあるのを目にするトウゴマは、もともと種からヒマシ油という油を搾るための作物だが、トウゴマからはリシンというタンパク質を精製することができる。このリシンは猛毒で、かつてKGBが暗殺に使用した毒物として有名だ。庭先や畑の隅に観賞用に植えてあるトウゴマを目にするたびに、僕はリシンが使われた事件を思い出すが、トウゴマを知らない人は、そこに植えられていることも意識のうちに入ってこないのだと思う。

今日、写真に撮ったのがアヘンの代替品にまでなったクサノオウだったので、麻薬成分や毒物系でチョウセンアサガオやトウゴマを紹介してしまったが、道を歩いていて目に入ってくる雑草は、知っていれば、かなり面白い。現在は迷惑な雑草として扱われているが、もともとはサラダ菜として日本に入ってきたものや、ハーブとして入って来たもの、つまり食べられる系や、薬草系、有用な化学成分を含んだものなど、知っていれば、道を歩きながら雑草を見てるだけでもかなり楽しめる。

そして、クサノオウから尾崎紅葉、チョウセンアサガオから華岡青洲の世界初の全身麻酔による外科手術が出てきたように、それぞれの雑草も一歩踏み込んで調べてみれば、面白いことがたくさん出てくる。雑草から化学や歴史、デザインなど、広い範囲に知識を広げる事ができる。現在では、カメラを向けるだけで、その植物の名前を教えてくれる便利なアプリもあるから、知らない植物の名前を調べるのも簡単だ。是非、よく目にする雑草を一歩踏み込んで調べてみて欲しい。

きっと、普段歩く道で、今までと違った楽しみができ、違った世界が広がるはずだ。

これは植物に限ったことではなく、今まで何気なく見てスルーしていた石碑なんかもそうだ。

ちょっと意識するだけで、多くの学びが生まれ、自分の見える世界が変わっていく。

 

イタドリのジャム

Dr.Stone–学びのモティベーション

子供に薦められてアニメ「Dr.Stone」を一気見した。
人気アニメらしいので、見たことがある人も多いのではないかと思う。物理、化学、地学、生物と科学知識が詰まったアニメで、とにかく面白く、一気見してしまった。

あらすじは、ある日、突然、空が発光し、その光を浴びた全人類が石化してしまう。約3700年後の文明が消え去った原始の地球で、主人公の石神千空(いしがみ せんくう)は石化が解けて目覚める。天才的な科学知識を持った千空は、遅れて目覚めた仲間たちと共に、何もないゼロの世界から鉄や銅、火薬、ガラス、サルファ剤、インスタント食品、発電所、はては携帯電話まで作り上げ、現代文明復活を目指して、奮闘していく。

 

 

このアニメがなんと言っても面白いのは、千空は現代文明に溢れている上記のようなものを、岩石や植物など身の周りの資源を使ってゼロから作り上げていくところだ。例えば、普段身の周りに溢れているガラス一つとっても、何もない状態でゼロから作ってみろと言われたら、我々は途方にくれてしまう。たとえガラスが何かを科学的に分かっていたとしても、原材料の調達、その加工技術、加工するための道具、それらが何もない状態では、お手上げだ。それを千空の知識をもとに仲間で協力して一つ一つクリアして作り上げていく様子は、見ていてワクワクする。

このアニメで注目すべきは、千空の科学知識と、もう一つは千空のリーダーシップだ。仲間にビジョンを示し、ロードマップを作り、適材適所に人を振り分け、そして自ら果てしない作業を繰り返して働く。しかも常に仲間と対等な関係を築いている。まさに現代に求められている理想的なリーダー像と言える。だから見ていて、千空はカッコいい!ちなみに僕は千空を見ていて、本田宗一郎が頭に浮かんでしまった。本田宗一郎にとっての藤沢武夫に相当する相棒がやがて千空にも現れるのだろうか?そんな見方もワクワクする。

おそらく、このアニメを見る子供たちは、科学的な知識の部分は理解できなくても、科学ってスゲー!とか、千空がカッコいい!とか、そういった感動を持つことだろう。この感動はとても大切だ。そして好奇心の強い子であれば、実際に石鹸を作ってみよう!とか、インスタント食品を作ってみよう!とアニメを見た知識から、さらに自分で調べ行動に移すかもしれない。行動に移した時のワクワク感は宝物だ。

物でもビジネスでも、特にゼロから作り出すときのワクワク感は格別だ。このゼロから何かを作り出そうとするときのワクワク感は、子供に限ったことではなく、何歳になっても、その気になりさえすれば手にいれられる。それは趣味でも仕事でも、ちょっとした日常のなかでの探求でも手に入れる事ができる。

真綿作り

天蚕の真綿を作成

森の中でヤママユガ(天蚕)の繭を取ってきて、真綿を作ってみた。
http://yamura-yasuke.club/?p=6058

イタドリのジャム

イタドリのジャム

河川敷や高速道路の脇に生えているイタドリでジャムを作ってみた
http://yamura-yasuke.club/?p=395

上の真綿作りとジャム作りは僕の個人ブログに以前投稿したものだ。千空と違って、鍋や重曹など道具が揃った状態ではあるけれど、材料は森や野で調達してきたものだ。当時、子供と一緒に作ったものだけれど、大人の僕もとっても楽しかった。森の中の木にぶら下がってる繭から真綿が作れちゃうんだ!その辺に生えている草から、こんな美味しいジャムができるんだ!っていう驚きと感動がある。こういった驚きや感動は大切な学びの種になる。

宇宙戦艦ヤマト

僕は小学校4年生の時に宇宙戦艦ヤマトを見て感動したことを憶えている。それまで見てきた戦闘物のアニメはマジンガーZだったり、ゲッターロボだったり巨大ロボものばかりだったから、宇宙戦艦ヤマトは違うテイストで、初めての波動砲発射シーンは当時の僕にとっては衝撃的だった。

波動砲の威力から僕は当時巨大エネルギーに興味をもち、関心が原子力へと移っていった。ネットもない時代だったけれど、図書館の本を開いて調べ、広島に落とされた原爆はウラン235を使っているのに対して、長崎に落とされた原爆はプルトニウムを使っている事、ウランには235と238の同位体があり、235はわずかにしかない事、広島で使われたウランはカルノー石から採取されている事、ウランの濃縮過程でイエローケーキが作られる事、原爆と原発では使われているウランの濃縮率が違う事などを、詳しい理屈は分からなくても、知っていた。そして、原爆が核分裂反応であるのに対して、より大きな威力の水爆は核融合反応であり、水爆の起爆装置に原爆が使われている事、水爆はウランではなく重水素を使用する事、重水素は海水から無尽蔵に入手出来る事、核融合炉は原発と違い、核廃棄物が極めて少ない事を知った。だから小学校5年生の時には大人になったら、夢のエネルギーを手に入れるために核融合炉の研究に携わりたいなんてことをぼんやりと思っていた。まあ、中学に入学する頃には、そんな興味はなくなり、結局、核技術者を目指すことはなかったけれど。

ネットも無い時代、小学生の僕が、これだけ核関係について調べる事ができたモティベーションは、宇宙戦艦ヤマトの波動砲の威力に対する感動だ。

 

Dr.Stoneでは、身近にあるものの具体的な科学知識が満載だから、科学的好奇心の強い子にとっては学びのモティベーションの塊のようなアニメではないかと思う。Dr.Stoneに限らず、最近のアニメや漫画では、歴史や文化、人間関係など多くを学べるものが多いと僕は思う。そして、言葉ではうまく説明できないのだけれど、感覚的な部分で時代の先端が反映されている作品が多いように感じている。

学びのモティベーション

僕が高校に勤めた時に日本人とユダヤ人の同祖論を主張する生徒がいた。伊勢神宮の石灯籠に刻まれた五芒星に始まり、神社の位置関係、Y染色体ハプログループのD系統などを根拠に主張していた。

ちなみに僕が伊勢神宮の五芒星や日ユ同祖論を初めて知ったのも漫画だ。

都市伝説やオカルトチックなところから、日ユ同祖論にハマる人は結構いるから、彼も、そんな感じかな!?と思いながらも、じっくりと話をしてみたことがあった。話をしてみて、とにかく驚いた。ユダヤ人の歴史から、ユダヤ教、トーラー、生命の木、タルムード等々、ユダヤ関係の知識の深さが半端ない。う~ん、こりゃ大学レベルだ・・・。

彼も最初は都市伝説のようなところから日ユ同祖論を知ったようだ。でも、そこに「おもしろい」とか「すごい」という感動があったのだと思う。そして、それをモティベーションにして学んだユダヤの知識は深く本物だ。これだけの知識を彼自身が楽しく夢中で学んだというのがポイントだ。

日本の学校では未だに勉強は「教えるもの」「教えられるもの」といった感覚が強いが、学ぶのはあくまでも本人だ。彼のユダヤに関する知識も、僕が小学生の時の核に関する知識も、一般的なその年齢の知識を超えるものだ。なぜ、それだけの知識を持つことが出来たかと言えば、それを夢中で学ぶだけのモティベーションがあったからだ。

この学びのモティベーションになるものは、もちろん人によって違うのが当たり前だが、必ず「おもしろい」「かっこいい」「すごい」「きれい」「すごい」「ふしぎ」といった感動の感情がある。これが学びの種になり、そこから学びのモティベーションが生まれてくる。

だから次世代の人材を育てる上で、こういった学びの種を多く得られる環境が重要だと僕は思っている。しかし現在の学校環境では逆に、この学びの種を排除してしまうケースが多々あるのだ。どうしても大人は学校という既存のシステム側からの目線と都合が優先してしまうからだ。

僕はこれでも年齢の割には頭が柔らかい方だと勝手に思っている。それでも、子供に薦められて最近のアニメを見たりすると、はっと、自分の感覚が時代遅れになっていることに気づかされることがある。知らず知らずのうちに自分の感覚が時代遅れになってしまっているのは多くの大人に当てはまるものだと思う。次世代の子供たちに多くの学びの種を提供し、自分自身も楽しくワクワクするためにも、我々大人も学びの種を意識し、純粋な学びのモティベーションの感覚を改めて思い出すことは大事だと思っている。

SHIN MICの思考と探求のクラスでは、そんな多くの学びの種を提供していきたいと思っている。

教室とフェイク

フェイクと僕らの判断

スマホアプリのFaceAppRefaceを使ってみた。

FaceApp若返り加工
FaceApp老化加工
FaceApp性別変更若返り加工
FaceApp性別変更老化加工

上の4枚の写真は全て僕の顔をFaceAppというアプリで加工したものだ。見て分かるように、若返らせたり、老化させたり、さらには性別を変更したりと自由自在だ。

従来、肌を若返らせたり老化させるだけでも、Photoshopを使って、それなりにレイヤーを重ね、フィルターを組み合わせたりして、手間とテクが必要な作業だった。つまり、こんな事はPhotoshop職人と言われる人たちの領域で、一般に誰もが出来る事ではなかったのだ。

ところがFaceAppを使えば、グラフィックソフトの知識なんか皆無でも、簡単に、しかも一瞬で誰でもこんな加工が出来てしまうのだ。

これだけ簡単に誰でもできてしまうのだから、こういった写真はSNSなんかでも多く使われていることが推測される。少し悪意を持って使えば、僕のような50代のオッサンが1枚目と3枚目の写真を利用して若い男の子や女の子に成りすますことができる。しかも、アプリを使えばプロフィール写真だけでなく、日常的に投稿する写真も全て若者になることが出来るから信憑性もあがるわけだ。

こういったアプリが一般にしかも無料で出回っている以上、SNSに掲載されているプロフィール写真を馬鹿正直に本人そのものとして見る人も少ないのかもしれない。しかし、成りすましの50代のオッサンとSNSで友達になり、やり取りをする中で、親近感や恋愛感情を抱き始めれば、おそらく、その人の中では写真は本人そのものになっていってしまうだろう。

実際に、海外でのそういった手口の詐欺行為なんかは、よく耳にする。

上の動画は、Refaceというアプリを使って、パイレーツ・オブ・カリビアンのジャック・スパロウの顔を僕の顔と入れ替えたものだ。こんなふうに動画も、顔を誰でも簡単に入れ替えたりすることができるアプリが一般に無料で出回っているし、さらに精巧なものを作るソフトも出回っている。

上の動画は誰が見てもフェイク動画だと分かるだろう。
しかし今、ディープフェイクといって、顔写真のデータを人工知能(AI)に大量に学習させて作る偽動画が問題になっている。これは映像だけでなく音声までも合成することができてしまう。

現状ディープフェイクはポルノ映像の顔をハリウッドの俳優や女優の顔と入れ替えたフェイクポルノが圧倒的に多いようだけれど、政治家や著名人の発言などのディープフェイクもあり、社会的な影響が大きい。

 

オバマ元大統領がトランプ大統領(当時)を「完全なばか者」と罵倒したり、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOが「何十億もの人から盗まれたデータを、1人の男が管理する世界を想像してみて」と語り掛けたりする偽動画も存在。国内では昨年10月以降、芸能人のフェイクポルノを配信した男らが名誉毀損(きそん)容疑などで逮捕される事件が相次いだ。

JIJI.COM
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021050400388&g=soc

 

アメリカでは既に大きな社会問題になっているようだけれど、日本でも徐々にこういった映像や写真が出始めているようだ。

ディープフェイクは技術の向上とともに、その映像が本物なのかフェイクなのか見分けがつかない精巧なものになってきている。そして、ディープフェイク作成ソフトと、それがフェイクかどうかを判定するためのソフトの開発のイタチごっこになっているのが現状だ。

政府要人等に好きな発言をさせる動画が作れるのだから、恐ろしいことだ。フェイク判定ソフトがあっても、ひとたびそういった動画が投下されれば、デマが広がるスピードの方が早いだろう。

デマは、もっともらしい事や、人々が不安を抱えている内容に関してのものは広がりやすい。だから、厚生労働大臣が記者会見で「コロナのワクチン接種を行うと1年後にゾンビ化する可能性があることが分かりました!」なんて発言しているフェイク動画を作成しても、それは面白動画くらいにしか皆思わないだろう。でも、

新型コロナワクチン接種後の死亡として報告された事例の概要
https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000778304.pdf

なんていう厚生労働省の資料とともに、厚生労働大臣が「ワクチン接種の危険性を隠蔽しろ!」と指示しているフェイク動画を作成して投下すれば、デマとなって拡散され、大きな社会不安を引き起こすだろう。ちなみに上の厚生労働省の資料は死亡事例とワクチン接種との因果関係は認められないという内容になっているが、いったんフェイク動画が広まれば、それさえも、隠蔽のための資料として捉えられ、事態収拾に時間がかかるようになる可能性だってある。

実際に、アメリカではフェイクによる深刻な事態が起きてきているわけだから、日本でも対岸の火事とは言っていられないだろう。

我々は今、技術の進歩により何が本当で何が嘘なのか見分けるのが難しい時代に生きていることを、それぞれが自覚しなければならないだろう。

バイアスによる自分自身の判断への影響をよく認識し、自分の判断が論理に影響されやすいのか、感情に影響されやすいのか、言葉や権威に影響されやすいのかといった、自分自身の思考判断の癖をよく認識する必要があると思うのだ。

その為には、我々は自分の思考判断の癖を意識しながら、日々、学び続けることが大切だと僕は思っている。

異文化理解

異文化理解と日本人

暫く前のYAHOOの記事に以下のようなものがあった。

 

クルド人が入管法案反対 難民申請3回で送還対象「人生終わる」

政府が今国会に提出した入管法改正案に反対するため、埼玉県川口市で暮らすクルド人ら約80人が18日、同市内で記者会見した。現状は難民申請中であれば送還は停止されるが、改正案では3回目以上の申請者を強制送還の対象にしている。この日は、すでに3回以上難民申請し、送還される可能性が非常に高い人も多く参加し「帰ったら弾圧される恐れがある。私たちを助けてほしい」と切実な思いを訴えた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/34557dee91835a7fcdb160acfade2dda249ddb0b

 

日本は1981年に難民条約に加入しているが、難民受け入れに対する政治的な意思が十分にないのが現状だ。難民の受け入れに対しては、さまざまな意見や考え方があるだろう。しかし、外国人の人権を守ることに対する、日本社会の意識の希薄さは否めない。と言うより、それに関心が無いというか、気付いていない人が多いのが現状のような気がする。

僕は日本人だし日本に住んでいることが当たり前だ。ところが、Facebookを通して海外から僕を訪ねて来てくれた人たちと話していると、この感覚が我々に比べ極めてあいまいなことを感じる。マレーシア人だと言うから、当然マレーシアに住んでいると思って会ってみると、住んでいるのはアメリカだったり、オランダ在住のオランダ人という言うから、ゲルマン系だと思って会ってみると、人種的にはペルー人だったりスコットランド人だったりする。今SHIN MICで一緒に仕事をしているイタリア人にしても、イタリアでは大学を出ても、まともな仕事になかなかありつけないから、皆、海外に出ていくのが当たり前だなんて言っている。彼らの国境をまたぐ感覚は我々の県をまたぐくらいの感覚なのかもしれないと想像してみたりする。

多くの国では異文化に触れたり異文化に飛び込むことが当たり前であるのに対し、日本ではまだ異文化に接することは特殊なことなのかもしれない。その辺が外国人の人権を守ることに対する無関心さに繋がっているのかもしれない。

 

昨今の教育現場では、グローバル教育だとか、国際交流、異文化理解といったような言葉が並べられることが多い。僕が勤めた学校でも、そんな言葉が振り回されていた。しかし、せいぜい文化的な違いを知るところまでで、理解しようという姿勢がないのだ。その証拠に外国人の教員や留学生対して、二言目には「ここは日本だから・・・」を連発してしまう。つまり、日本文化や日本社会の価値観の押し付けをひたすらやってしまうのだ。日本の価値観では「郷に入っては郷に従え」だ。ところが、「郷に入っては郷に従え」を良しとする国の人たちもいれば、とても屈辱的なことと捉える国の人たちもいる。ところが「ここは日本だから・・・」を連発する人たちは、他の価値観があることが分からないから、ひたすら本人によかれと価値観の押し付けをやってしまい、屈辱的な思いを与えることになるケースがあるわけだ。一般の学校と違い、インターナショナルスクールなどでは、この辺りのことがよく分かっていて配慮されているようではあったけれど。

 

異文化の洗礼

僕が初めて異文化の洗礼を受けたのは大学4年生の時だ。配属になった研究室には大学院生として留学してきていたタイ人女性がいた。研究室配属になってすぐに気づいたのが、彼女がよく机に伏せてシクシクと泣いている姿だ。どうしたのかと声をかけると「日本人はみな私に冷たい」と言う。たしかに観察してみると他の大学院生は、どことなく彼女に対してよそよそしいし、時としてきつめの言葉を浴びせているところを目にすることもあった。僕は可哀そうに思い、積極的に彼女に声をかけることにした。すると「あなただけは優しい」とか「弟みたいでかわいい」とか言い出し、仲良くなった。しかし、2ヶ月も経った頃、なぜ皆が彼女によそよそしいのか、その理由が僕にも分かってきた。

当時、オーバーナイトと言って、夜中まで研究室に残り実験をすることがあった。彼女は日本の大学を出ているわけではなかったためか、化学的な知識に乏しく、実験手法の化学的な意味合いが理解できていないことがあったため、たまに頓珍漢なことをすることがあった。彼女がオーバーナイトで実験をしている時、当然、僕は家に帰って寝ている。そして、午前3時とか4時に彼女から電話がかかってきて起こされるのだ。「実験が分からなくなった!いますぐ来て教えて!」当然行くわけもなく「何時だと思ってるんですか!寝ます!」と言って、いつも電話を切っていた。次の日に彼女に文句を言うとキョトンとした顔をしている。仕方なく実験の説明をすると「分かってるのに、なぜ、来てくれなかったのか?」と言い出す始末だ。これでは、付き合いきれない。

そして事件が起きた!

彼女が引越しをするから手伝ってくれる人を集めて欲しいと言ってきた。僕は学部中を飛び回ってお願いして、人を集めた。そして彼女が指定した場所と時間に皆に集合してもらった。ところが肝心の彼女が現れない。集まってくれた人たちも「せっかく時間とってここままで来たのに、どうなってるんだ?」と言い出すし、僕はみなに謝りながら、ひたすらもう少し待ってくれるようにお願いした。指定時間から30分を過ぎ、これ以上は無理かと解散しようと思ったところに、数人を引き連れて彼女が現れた。
そして開口一番

「はやく、はやく、こっちに来て!」

なんじゃ、そりゃ!

「みんな貴重な時間を空けて、手伝いをするために、わざわざここまで足を運んでくれてるのに、30分以上待たせて、まずは、ごめんさい!じゃないのか!!」

と僕は彼女にくってかかった。

すると彼女と一緒にやってきた他学部の大学院生を名乗る男に

「君は彼女と同じ研究室なんだろ!?彼女の国と日本とでは文化も違うし、そういうことが理解できないの?同じ研究室なら、そんな文句を言っていないで、まずは文化の違いを理解しないとね!!」

と、逆に僕が怒られた。これがまた、赤いバンダナにサングラスといういで立ちで、いかにも国際通みたいな雰囲気のキザっぽい感じがして、「お前に、そんな事を言われる筋合いはねー!」と僕はブチ切れ、このあと彼と大喧嘩になったのだ。笑

当時の僕は彼女の夜中の電話にも耐えて、研究室の中では一番仲良くしていたつもりだし、彼女のためにあちこちで頭を下げて人も集めたわけだから、赤いバンダナの男の言葉は不条理そのもので、怒りが爆発したわけだけど、今になって考えてみれば、彼の言葉は正しい。当時の僕は国や地域が違えばアイデンティティーが変わってくることを理解していなかったのだ。これについては、また、探求の教室で詳しく取り上げたいと思っている。とにかく異文化理解ってのは言葉で言うほど簡単なことではないのだ。

 

異文化理解

よく外国人は契約にうるさいから外国人に対しての契約書はしっかりと全て書いておかないと!みたいなことが言われる。このことは、多くの人が知っていることであると同時に、この言葉を言うとき、どこかに「ケチ」とか「めんどくさい」とか「協調性がない」という感情があるのではないだろうか。しかし、彼らの心の中にはちょっと違う感情がある。

例えば就業時間は17:00までだが、社内で大きな催し物があって、時間がオーバーしちゃったけど、皆で頑張って17:30にはなんとか終わったとしよう。日本人的には、なんとか無事に終了してよかった!お疲れ様でした!って話だけど、外国人(国や地域による)だと、表に出さなくても、心の中では大きな怒りを抱えているケースがある。表に出せば日本社会では「協調性がない」ということで白い目で見られることになるから、彼らも皆の前では表には出さないけれど。仮に17:00に彼らだけ時間通り帰したとしても、やはり、彼らの心の中には怒りが渦巻く。彼らにしてみると自分だけではなく、他の人も就業時間を過ぎても当たり前のように仕事をしている体制に怒りを感じているのだ。これを繰り返すことによって彼らは自尊心を傷つけられ、消耗していく。

これは彼らにとっては倫理の問題なのだ。契約の時間を過ぎてサービスで働くことは理由は何にしろ、彼らにとっては、それは、してはならない悪いことなのだ。つまり、悪いことをしている自分に対して良心の呵責があるわけで、さらには、その悪いことに対して、誰も異を唱えることもなく受け入れているということに怒りを感じるのだ。しかも、この良心の呵責は日本人には理解されないから、彼らにとっては、よけいに行き場のない怒りとストレスになっていくのだ。

「外国人は契約にうるさい」というのが異文化を知っている事であり、「良心の呵責」という感情を知る事が理解することだ。理解をしたうえで、どうしていけばよいかという事を考えなければならないと思うが、日本社会では「外国人は契約にうるさい」というところで終わってしまっているケースが多いのではないだろうか。

 

日本は少子高齢化が進んでおり、移民を受け入れて大国としての地位を保つのか、人口減少を受け入れ、アジアの小国への道を歩むのかという岐路にある。そんな中、国は移民の受け入れに舵を切りつつあるようだ。その為には、難民も含めて、外国人に対しての制度面を変えていかなければならないだろう。そして、その制度を変えていく時に必要なのが、異文化に対する理解だ。異文化理解とは、違いを知るだけではなく、その背後にある感情面を理解して考える事だと僕は思う。

SHIN MICの教室では語学を通して、本当の異文化理解にまで踏み込んでいきたいと考えている。

 

激アツ露天風呂はどのくらい熱かったのか?

僕は温泉好きの友人と毎月何回か葛温泉の高瀬館の露天風呂に浸かりに行っている。
高瀬館のお湯は比較的熱めで、源泉掛け流しの露天風呂も広々と開放感があって、熱めの風呂好きの僕としては、お気に入りの温泉だ。

お湯は熱めだけど、行くたびにお湯の温度が体感では微妙に違う気がする。けっこう熱いと思う時もあれば、ぬるめだと感じる時もある。それが、ちょうど2週間ほど前に行った時のことだけれど、これ以上ないというくらいに熱かった。ここまで熱かったのは僕的にはここ10年で初めての経験だ。最初、足先を入れた段階で、マジか!と思う熱さで、その後、う~アツ~と叫びながら、友人と少しずつ体をお湯に沈めた。いったん体をお湯に沈めてしまえば、なんとか入っていられる。ここまでは、冬場に冷え切った体で最初お風呂に浸かるときの反応と似た感じだ。冬場のお風呂の場合は、いったん浸かってしまえば、あとは特に熱いと思う事もなく、普通に入っていられる。

ところが、この日は少し違った。いったん浸かってしまえば入ってはいられるのだが、身動きせずに浸かっている分には、なんとかいいのだけれど、お湯の中で、少し手や足を動かすと、動かした部分が、めちゃんこ熱いのだ。そして、お湯の中を歩くと足の甲が、熱いを通り越してひり付く感じだった。実際に、出たあと1時間くらいは、足の甲が少しヒリヒリする感じだった。

友人とは、普段の倍は熱いんじゃないかとか、摂氏何℃くらいだろうか?と話しながら、その熱さに子供のように盛り上がった。風呂としてはどうかって感じだったけれど、あまりの熱さにはしゃいでイベント的で愉快な風呂だった。(^^)

 

この日の温泉で、少し動くと、その部分がなぜめちゃんこ熱かったのか考えてみた。
その原因はおそらく流体である水と体の間にできる温度境界層ではないかと想像してみたりする。熱いお湯より温度の低い体によって、体の周囲のお湯は少し冷やされる。これが体全体を膜のように覆って、それほど熱く感じなくなる。ところが動くと、動いた部分ではこの膜が破れ、さらに対流熱伝達の影響もあって一気に熱が体に伝わり、めちゃんこ熱く感じたってことではないだろうか。特に、お湯の中を歩くという行為によって、一番動きが激しかった足の甲がひり付くほどの影響を受けたと想像している。

ほんとに熱いお湯だったので、友人は60℃くらいあるんじゃないかと言っていたが、僕はせいぜい52℃くらいじゃないかと主張した。なぜなら60℃もあれば、10秒ちょっとで火傷するわけで、いくら温度境界層があるからといっても1分も浸かっていられるわけがないと思うからだ。ところがサウナでは80~100℃の中に長時間いることができる。これは水と空気の熱伝導率熱容量の違いによるものだ。つまり、水より空気の方が我々の体に熱を伝えにくいってことだ。でも、サウナでサーキュレーターを使って熱風を体に当てれば、対流熱伝達の向上によって、あっという間に火傷するだろう。今回の足の甲がひり付いたのも、これが原因だろう。

普段の倍くらい熱いと感じたお湯だったが、計ったわけではないけれど、おそらく、せいぜい10℃くらいの違いだろう。10℃って大した違いじゃないようだけれど、体感では、とんでもない違いだ。それなら、普段のお風呂の温度を42℃として、その倍の温度は何度だろうか?お風呂の温度としては、この時の体感ではおそらく52℃で倍だ。でも摂氏なら84℃ということになる。

そもそも熱とは何かって話だけれど、物理学的には分子の熱運動の運動エネルギーだ。この運動エネルギーがゼロになるのが、絶対零度と言われる摂氏マイナス273.15℃だ。物理学ではこのマイナス273.15℃を0としてケルビンという単位を使う。遥か昔の中学だか高校の物理だ。笑
摂氏よりもケルビンの方が、温度というものを物理的にはより的確に捉えている。そのケルビンで考えるならば、42℃は315.15ケルビンであり、その倍は630.3ケルビンだから、そこから273.15を引くと、摂氏357.15℃となる。この357.15℃が42℃の倍の温度ということになる。まあ体感では数十倍、数百倍って感じじゃないだろうか。

風呂の熱さ42℃の倍の熱さは何度かと聞かれ、84℃と答えれば、物理学の分子の運動量で熱を捉えている人は笑うかもしれないし、我々のように風呂に入っていた人間にすれば、アホか!死んでまうは!って話になる。物理学的には357.15℃が正解だろうし、日常的には84℃の方が正解のような気がする。そして体感になると、ここに熱伝導率や熱容量、対流熱伝達といったものが絡んでくる。さらには個々人の感覚の違いだったり、その日の気分や天候など様々なものが関係してきて、とても複雑な話になってくる。

しかも、その複雑な体感ってやつはとても大事だ。例えば経済指標的に景気が良いと判断されても、我々の体感的に景気が悪ければ、どうしようもないし、いくら高速処理ができるCPUを積んだパソコンでも、体感的に遅ければ、やはり良いPC環境とは言えない。

今回の風呂の熱さの例ように、熱さという単純なものをとっても様々な側面がある。これが一般社会の出来事になれば人間の個々の複雑な感覚がさらに多数絡み合ったものになってくるから、おそろしく様々な側面が出てくるはずだ。倍の風呂の熱さは、52℃であり、84℃であり、357.15℃だ。どれも正しく、どれも間違いと言える。

ところが人は一つの側面から主張を始めると、やがてそれが信念となり他の側面を見ようとしなくなる傾向がある。357.15℃は物理学的客観性をもった数値だから、こういったものは信念をもって主張されやすい。しかし、風呂の熱さを倍にしようといった時、これは明らかに間違いだ。357.15℃の風呂は馬鹿げてるから、誰でもわかる。しかし、一般社会は側面としてはとても複雑だから、ある側面からだけ主張がなされ、そして、それが行われてしまうことが多々あるのだ。

一つのことにも様々な側面があり、それぞれの側面で主張は変わってくる。そのそれぞれの主張にはそれぞれの正しさがあり、それぞれの間違いがあることを認識して考える事が大切だ。実はこれは、かなり難しい。できると思っている人でも、僕も含め、ほとんどの人が出来ない。ひとたび信念を持ってしまえば、バイアスにより他の主張の正しさが見えにくくなり、間違いばかりに目がいくようになるからだ。逆に自分の信念の正しさがクローズアップされ、間違いは矮小化される。これにより対立が生まれていく。

SHIN MICの思考と探求の教室やオンラインレッスンでは、様々な分野の様々な材料を取り上げて、究極的には、自分と対立する主張にも、それぞれの正しさがあること、自分の主張にも間違いがあることを認め、そこから、建設的により良い方向を考えられる姿勢を共に身に付けていきたいと思う。

 

セキュリティ

PPAP-ペンパイナッポーアッポーペンじゃないよ!

今回とりあげたPPAPは、同じPPAPでも「ペンパイナッポーアッポーペン」のことではない。

ここで言うPPAPとは

Passwordつきzipファイルを送ります
Passwordを送ります
An号化(暗号化)
Protocol(プロトコル)

の略だ。

メール等にファイルを添付して相手に送る際、そのファイルを他人に盗み見されたくない場合、パスワードをかけたZIPファイルにして送り、その後、すぐに解凍するためのパスワードを別のメールで送るというものだ。

ZIPファイル付きのメールとパスワードが書かれたメールの両方を盗み見されれば、これは全く意味がないし、そもそも本気でパスワードがかかったZIPファイルの中身を見ようとすれば、手間をかければみる事が出来てしまう。例えば「Pika Zip」なんていう、ZIPファイルのパスワードを解析するフリーソフトまで存在する。総当たりの解析だから、パスワードの桁数が大きくなれば、それなりの時間はかかるだろうけど。

とにかくセキュリティ上、それほど意味があるとは思えないし、圧縮、解凍、パスワードを書いたメールを送ったりと、PPAPだと業務も煩雑になるという理由から、大手企業や霞が関では全廃する方向のようだ。

PPAPも、もともとは添付ファイルを盗み見されたくないというところから始まり、組織内で習慣化していったものだろう。そして、それが一旦、組織内で習慣化すれば、それをやるのが当たり前であり、同調圧力により、それに対して異を唱える事が難しい雰囲気が醸成され、やがて常識となり、それについて深く考える人がいなくなってくる。そんな中でPPAPではなく添付ファイルを送ろうものなら、社会人としてなっていない!とか、セキュリティ意識のカケラもない!みたない評価を周囲からくらうのではないだろうか。そうやってPPAPも長い間、日本の企業や行政機関などで、行われてきたのではないかと思う。もちろん、それについて考える人がいて、そしてそれが広がってきたからこそ、全廃という方向が出てきたのだろうけど、それが行われている真っ最中は、ほとんどの人が、セキュリティ上の常識みたいな感覚で、その操作の一つ一つの意味については、あまり考えることは無かっただろうと想像できる。

 

それに対して、僕が勤めた学校は、この情報に対するセキュリティ意識なんてものは、ほとんど感じられないところだった。一般社会の感覚からすると、ビックリするような感覚と認識で各種ファイルが取り扱われていたし、それに対して提言を行っても、真剣に対策を考えられることもなかった。おそらくPPAPですら、普及させることは困難な集団であったと思う。もちろん、言葉では情報セキュリティだとか、ICT活用だとか言うけれど、実際には、一般企業なら社会的に糾弾されるような情報管理のずさんさは放置されたままなのだ。

もちろん、この原因には無知がある。でも、無知であることは悪い事じゃない。大切なのは必要なことに気づき、学び、考えることなのだ。ところが、googleのアカウントにログインしているのかログアウトしているのかさえも分からない人が、情報関係について知識のある人の言葉を聞こうとせず、判断を行っている。自分の世界を広げることを止めてしまった人が判断を行い、おかしいと思っても、それに従うことを良しとする人たちで組織運営がなされているから、時代遅れのとっても不思議な世界が出来上がっていく。そして、自分の世界を広げることを止めてしまっているから、不思議な世界になっていることにさえ気づくことがない。

 

PPAPが長いこと、企業や行政機関で習慣化されていたことも、情報に対するセキュリティ意識が欠落していた上の学校の例も、一番の大元にあるのは、疑問を持ち、気づき、調べ、学び、考えるという姿勢の欠如ではないかと思う。個々人は、気づき、学び、考える姿勢を持っていても、日本社会では組織に入ると、途端に、その部分で思考停止に陥ってしまう傾向があるように思う。そして、組織内ではなぜ思考停止に陥りがちになるのか、それを個々が考える必要がある。それを知ることは、また一つ自分の世界を広げることにつながる。

社会をより良いものにしていく為にも、子供たちのより良い未来を作っていく為にも、我々、大人は何歳になっても、学び、考え、そして自分の世界を広げていく必要があると思うのだ。僕は自分の世界を広げ続けることを、できるだけ多くの人に知って欲しいと願っている。

常念岳と桜

僕のスマホ写真とマルセル・デュシャン

僕が安曇野の風景写真をSNSに投稿すると、とにかく、みなさんに褒めていただける。投稿するたびに「素晴らしい」「綺麗」「癒される」といったコメントを沢山いただく。もちろん、これはとても嬉しい事だから、また撮って投稿するということを繰り返している。

そうこうしているうちに、カメラマンの方からメッセージをいただくようになった。「どういう設定で撮っているのか?」とか「機材は何を使っているのか?」といった質問がやってくるのだけれど、僕は、スマートフォンでしか写真を撮らないし、カメラの知識が皆無だから、聞かれていることがチンプンカンプンで、いつも知識が無い事をお話して「お役に立てずにすいません。」と返信させてもらっている。さらに一時期は「出されている写真集の名前を教えてもらえますか?」といった、完全に僕をプロカメラマンと勘違いしているメッセージまで、ちょくちょく届いていた。
下は最近SNSに投稿した写真だ。

わさび田と有明山と桜
菜の花と桜
常念岳と桜

今までに何回も、行政やメディア、旅行サイトなどから写真を使わせてもらえないかという問い合わせもいただいているし、アーティストの作品の販売サイトから、写真を掲載しないかというお誘いまでいただいたこともあった。

こういったお話をいただくと、とりあえず嬉しいのだけれど、いつも思うのが、カメラマンさんがちゃんとした機材を使って撮った同じような風景の綺麗な写真が世の中にはたくさんあるのに、なぜに、素人のスマホ写真?という疑問だ。

僕は芸術的センスはいたって乏しいし、そもそも写真を撮るのが、嫌いではないけれど、好きなわけではない。自分が綺麗だと思った風景を写真に撮ってSNSに投稿すると、同じように綺麗だと共感してくれる人がいるから、それが嬉しくて撮っているだけだ。だから僕の写真の何がいいのかが、自分ではよく分からないのだ。

安曇野は綺麗な風景が多い場所だから、単純に元の風景が綺麗だから、みなが褒めてくれると思っていたのだけれど、やがて、それプラス僕の写真そのものを褒めてくれていることが分かってきた。
下は昨日、海外の方が僕のFacebookに投稿した写真に残してくれたコメントだ。

Your photography always give a strong sense of positive energy and gentle touch of gratitude. I appreciate very much.

The real meaning of photography is to inspire and to feel how good life is.

なかなか、深い意味の事を書いてくれていて、ありがたい限りだ。そう言えば、僕の投稿写真の事を「小林ワールド」って表現する人もいるから、僕の写真独特の何か感じるものがあるのかもしれない。

マルセル・デュシャン

Marcel Duchamp, パブリック・ドメイン, via Wikimedia Commons

この写真は、マルセル・デュシャンの「泉(Fountain)」という作品で、セラミック製の男性用小便器に「R.Mutt」というサインと年号が書かれだけのものだ。これをマルセル・デュシャンは作品展に出品し物議を醸した。

 

近代美術から現代美術、ヨーロッパ近代芸術からアメリカ現代美術、視覚的な芸術から観念的な芸術へと価値観が移行するターニングポイントとなる作品である。それゆえ作者のマルセル・デュシャンは「現代美術の父」「ダダイズムの父」とみなされている。

Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典

 

マルセル・デュシャンは、この作品によって芸術という概念自体に革命を起こした現代に続くコンセプチュアルアートの創始者であり、その影響力はピカソを上回ると言われている。

小便器にサインと年号を書き入れたところで、小便器は小便器だ。でも、これが美術館に展示されていたら、鑑賞者は「なぜ、これが美術作品なのか?」と頭の中が「???」だらけにはるはずだ。

つまり、芸術は目の前にある作品という概念から、その作品を元に鑑賞者の頭の中で完成するのが芸術ではないのか!

という問題提起をした作品ってことだ。

僕はいたって芸術には疎いのだけれど、この頭の中で完成するのが芸術!ってのは、なんとなく分かる気がする。芸術に疎いから、僕は美術館に入って作品を見ても、きれいな絵だな!くらいで、スーッと1周して出てきてしまう。ところが、その作家の生き様や、その作品にかけた執念だったりを知ると、その作品の前に佇み、作品からエネルギーを受けることが出来るからだ。

まあ、コンセプチュアルアートの概念はきっと、もっと深いものだろうし、やはり、壁にダクトテープでバナナを貼り付けただけの作品に1,600万円もの値がついたりするコンセプチュアルアートの世界は、僕には、今一つ分からないのだけれど。

僕のスマホ写真

ここで僕のスマホ写真に話を戻すと、写真を褒めてもらっているのはSNS上だ。つまり、写真を投稿する際には、必ず何かしらのコメントをつけて投稿しているわけだ。時には安曇野の紹介をすることもあるし、自分自身の思いや出来事を書いて投稿することもある。さらには、投稿にコメントが書かれれば、それに対して返信をするから、やり取りが生まれる。

つまり、僕の写真を見てくれてる人は、写真以外に多くの情報を受け取っているわけだ。そんな中で、投稿している僕という人物のイメージも頭の中に出来てるだろうし、僕の思いなんかも感じ取り、無意識のうちに、そんなものを写真に重ね合わせて見ているのではないかと考えてみたりする。だから、コンセプチュアルアートの考え方でいくと、僕のスマホ写真は、そこを元に、安曇野や僕自身のイメージとともに、見てくれている人の頭の中で作品として完成されているということではないだろうか。

だとするならば、僕のスマホ写真はやはり写真そのものよりも、そこを起点にして頭の中で作品として完成させるための情報提供がうまくいっているから、いい写真だと感じてもらえているのかもしれない。

そう考えると、写真そのものよりも、投稿する時に何気なく書いている文章が、より大きな役割をになっているのかもしれない。この事は、芸術分野だけでなく、マーケティングや自分自身の見せ方など、多くの場面で考えてみる価値のあることだろう。

春の安曇野で“ばえる”スマホ風景写真-ワークショップでは、SNS映えするという点も考えて、そんなところまで話を広げて、皆さんと一緒に写真を撮りながら歩いてみたいと考えている。

ドル円月足巨大三角持ち合い

ドル円の巨大三角持ち合いと日本の行方

ドル円が2015年6月の124円を天井にそれ以降、巨大な三角持ち合いを形成している。そして、ちょうど今現在、その巨大な三角持ち合いの突破をチャレンジしているところだ。ドル円の上下動のサイクル的にも、僕はこの三角持ち合いを突破する可能性の方が高いと思っている。

個人的にはスミソニアン体制以降、約40年続いた円高は2011年10月の75円台で終了したと考えている。だから、今後、上下しつつも基本的には大きな流れとして円安方向に向かっていくのではないかと想像している。つまり、現在の巨大な三角持ち合いを上方に突破すれば、上下動はあっても最終的に124円を上回っていくんじゃないかと想像している。

2015年6月からの円高傾向は終了し、暫く円安傾向に変わっていくのではないかと感じている。これはテクニカル分析とかファンダメンタルズとかではなくて、チャートの雰囲気から、なんとなく僕が感じているものだ。もちろんテクニカル的にもファンダメンタルズ的にも分析すれば、様々なことが言える。でも、その分析は絶対ではない。外れることも多いのが相場というものだ。論理を超える「なんとなく」の記事でも書いたが、少なくとも僕の場合は、最後の決め手は「なんとなく」だ。

その「なんとなく」が今後、数年は円安傾向になるんじゃないかと僕に言っている。

チャートを見ていて感じることだが、値動きについて専門家が様々な分析を行うが、所詮、相場は相場の動きたいように動いていることを感じる。変な話だけれど、相場が動きたがっている方向性が感じられた後に、その方向に動くための社会の動きや事件があるように僕には感じられるのだ。

 

日本経済にとって円高が良いのか、円安が良いのかは議論が分かれるところだ。もちろん極端な円高、円安はよろしくない。ただ、これまでの感覚では円安傾向にあった時の方が経済的には良かったような気が僕はする。

今後、暫く円安傾向にあるとすれば、過去の肌感からは日本経済は比較的良いはずだ。もちろん、極端な円安になれば話は別だけれど。だから、今、コロナの第4波が言われたりしているけれど、なんとなく、今年はコロナも収まり、人の往来も増え、日本経済は上向いてくるんじゃないかと思ったりする。もちろん、これには僕の願望も入っているかもしれないけれど。

 

相場の動きに関しては、穴が空くほどチャートを眺め、幾つも線を引いて分析して判断を下すよりも、僕の場合は少なくとも「なんとなく感じる」ってのに従うのが一番確かだ。そして、相場が動きたがっている方向を感じると、それに合わせるような実社会での動きが出てくるってのが僕の感覚だ。

これはあくまでも「なんとなく」であり感覚的なものだから、そこに論理性はない。でも、これが、案外当たる。この「なんとなく」はもちろん、さんざんチャートを眺めたから感じるものであって、初めてチャートを見た人が感じるものではない。つまり、経験によるものであることは確かだ。その経験というのが、過去の情報処理であるとするならば、それはテクニカル分析の範囲に入ってくるものだ。でも、「なんとなく」はテクニカル分析的な判断と逆を示すこともある。だから単純に過去の情報処理ではないだろう。

つまり、人は経験の中で、第六感と呼ばれるものなのか、なんなのか分からないけれど、論理の外側部分での学習を行っているのだろう。

分野が何であれ、この論理の外側で学習しているものは、人が生きていく上で糧になるものだ。だから、この「なんとなく」がどこからやって来るものなのか、今後、考えていきたいと思っている。

有料フォーラムの人生を豊かにする楽しい学び塾では、そんな事も、皆さんから例をあげてもらいながら、考えていきたいと思っている。

DNA

セントラルドグマからの逸脱と甲羅干し休憩

セントラルドグマとは分子生物学の中心教義とされるものだ。
遺伝情報はDNAからmRNA(メッセンジャーRNA)に転写され、mRNAが核内から細胞質に出て、細胞質内のリボソームに辿り着き結合する。リボソームにはtRNA(トランスファーRNA)がアミノ酸を運んでやって来る。tRNAはmRNAの情報を読み取り、リボソームの酵素作用によってペプチド、さらにはタンパク質が作られる。このDNAからタンパク質ができるまでの一連の流れがセントラルドグマと呼ばれるものだ。

ドグマと呼ばれるくらいだから、この一連の流れは細菌から人間にまで共通する基本原理とされてきた。

 

ところが、イカの神経細胞はこのセントラルドグマから逸脱していることが分かったそうだ。

Nucleic Acids Research
https://academic.oup.com/nar/article/48/8/3999/5809668

まあ、イカ、スゲー!って話なんだけど、我々一般人は科学的に正しいことが正しい、もしくは真実味があると感じる傾向がある。でも、このイカの話のように、科学的に正しいとされることも新たな発見や理論によって覆されていくことが多々ある。

かつて、ガリレオは裁判によって有罪を宣告され、地動説を放棄させられてもなお「それでも地球は回っている」とつぶやいたらしいが、今では本気で天動説を主張したら、「バカなの?死ぬの?」くらいの勢いで叩かれそうだ。正しいとされることが正反対になってしまったわけだ。

ところが20世紀後半になって、天動説を主張した日本人がいる。それが、薬師寺元管主で「昭和の怪僧」と呼ばれた橋本 凝胤(はしもと ぎょういん)だ。

 

橋本はスプートニク打ち上げのテレビ中継を報告に来た新聞記者の青山茂に「お前もとうとうソ連やアメリカの陰謀にはめられたな。テレビで見たいうけど、テレビで見たのがみなほんまやと思とるのか。テレビの向こう何もないやないか。実際に経験して見たこというとんやないやろ。ブラウン管に映ったり新聞に載ったりすることだけ信じてるのやが、そんなん、わしは信じやへん。」と戒めた。後年青山は「科学や教えられた事以外に別の世界があるぞ。と教えてくれのかも知れません。」と述懐している。

ウィキペディア

 

橋本 凝胤は、自分はお天道様が毎日自分の上を回っていくのを見ている。それでいいじゃないか!地動説なんか、教科書に書いてあるのを見ただけで、自分の目で確認したのか?と言っていたなんて話もどこかで読んだ記憶がある。ちなみに橋本 凝胤は東京帝国大学出身だから、少なくとも秀才さんだ。

言われてみれば、我々が正しいと信じている知識のほとんどが、自分で確認したものではない。上に書いたセントラルドグマだって、高校だったか大学だったかは忘れたけど、生物の授業で習っただけのもので、それを自分で実際に確かめたものではない。それでも、やはり僕はDNAからmRNAの転写や、そこからの翻訳を正しいこととして人に話している。

僕は、我々は実際に自分で確かめてもいないのに正しいことだと信じているものだらけであるということを、意識に留めておく必要があると思うのだ。

甲羅干し休憩

夏場、海水浴や炎天下での作業に出るとき「また、日焼け止め塗ってないんじゃないの~」とよく嫁さんに怒られる。

うちの嫁さんは紫外線は有害なものと認識しているから、太陽光をたくさん浴びるような場合の紫外線対策は必須だ。

ところが、僕が子供の頃の小学校の水泳の授業時間には「甲羅干し休憩」という時間があった。これは体温と体力の低下を防ぐためのものだったのだろうけど、「甲羅干し休憩」の間は、うつ伏せに寝転がって、ひたすら太陽の光を浴びて日に焼ける事が推奨された。当時は、なぜか、夏の間に日に焼けると冬になってから風邪をひかないと信じられており、とにかく日に焼けて黒くなることが健康の証のような風潮があった。夏休み中もプールに通い、せっせと日焼けに勤しんだことを憶えている。別に日に焼けなかったからと言って怒られることもなかったが、夏休み明けに日焼けして学校に行くと褒められたものだ。

嫁さんは僕の12歳年下なのだけれど、この「甲羅干し休憩」の話をすると、

「頭、大丈夫?」
「虐待レベルだよね!」

と「甲羅干し休憩」という単語もあってか、バカうけしていた。
ほんの10年くらいの間に世の中の認識が大きく変わったってことだろう。
良いとされていた事が、悪い事になってしまっていたのだ。

日本は同調圧力が高い社会

暫く前にレストランのレジに並んでいた時のことだけど、僕の後ろから人が詰めてきたので、半歩前に出たところ、前にいたおじさんに「ソーシャルディスタンス!」と厳しい口調で言われ、睨まれた。そんなに、くっついたわけじゃないし、そこまで神経質になるなら外食なんか、するなよ!って思いながらも「すいません」と謝ってはおいたけど。

日本は同調圧力が強い社会で「ソーシャルディスタンス」という言葉が出始めると、やたらと、その言葉が振り回され、少しでも、その言葉から外れた行動をすると、僕のように怒られてしまう。まあ、この同調圧力が強いからこそ、日本は治安が良かったりするのかもしれないけれど、その一方で、学校の中なんか密もいいところだ。ソーシャルディスタンスと書かれた貼り紙をあちこちに掲示しながら、体験入学なんかやろうものなら、外部からも人が入って来て、かなりの密だ。ところが、面白いことに、これは許されるのが日本の社会なのだ。検温もしているし、出来る事はやっているのだから、仕方がないと思うのか、誰からも苦情が出ない。これに関して、おかしいと主張しても、出来る事はやってるし、仕方がないってことでスルーされてしまう。

レストランの例も、下の学校の例も、話は逆だけれど、どちらもソーシャルディスタンスは感染を防ぐための対策という目的を考えると論理性を欠いている。少なくとも僕の中ではソーシャルディスタンスという言葉を様式化しただけの、ただの茶番だ。

考えることをせずに、周囲に同調することは楽なのだ。そして、社会的にも同調圧力が高いのが日本だ。学校の例は、先の大戦で無謀な戦争を延々と続けてしまった当時の政府の感性に近いものを感じるし、レストランのおじさんには、ちょっとしたことで、非国民!と周囲の人を突き上げていた人の感性と近いものを僕は感じてしまう。

上でも書いたように、正しいと信じられている事は、往々に覆されてしまう。天動説が正しいとまでは言わないけれど、それでも、実際に自分で確認したり考える事を意識して、それをすることは、とても大切だ。

同調することは、ある意味楽だし、同調圧力のメリットもあるけれど、日本はそれが高い社会である以上、より一層、自分で確認し、考える事が大切だと思うのだ。

絶対的な正しさなんて無いのだから。