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YUICHI KOBAYASHI

日本は確実に貧しくなっている!|悪い円安が進行中

最近ガソリンの値段が上がっている。
車をメインの移動手段にしている僕としてはなかなかキツイ状況だ。
原油先物の値が上昇傾向で、かつ、為替が円安傾向だから、暫くはガソリンの高騰は続くのかもしれない。
まいったな~。

まあ、円安傾向と言ってもドル円レートは金曜日の終値で111円くらいだから、レートだけを見れば、それほど円安という感覚はない。しかし日本はずっとデフレで世界の経済成長から取り残され、物価も給与も上がってない状況だ。仮に30年前も今も1ドル100円だったと仮定して、他の国では経済成長によるインフレにより30年前100円だったものが、現在では200円になっているとすれば、輸入する際に、30年前は100円で済んだものが、現在では200円出さなければ輸入できないことになる。つまり為替レートが変わっていなくても、円の価値は半分になってしまったということだ。

この例で書いたような悪い円安が現在進行中だ。
デフレが長期間続き経済成長しないということは、こういうことなのだ。
日本は確実に貧しくなっている。

ネットのどこかで30年前の状況を見たが、それによると、

社会保険料の負担が今の半分
消費税なし
物価が今の約9割
ボーナスからは社会保険料の控除なし
初任給は今と変わらず
平均給与は40万円高かった

ということらしい。
いかに国民の経済状況がきつくなったかが分かるし、これでは若者も未来に希望を持ちにくい状況と言えるだろう。

そこで、長い事、デフレ解消が叫ばれ、政府や日銀などもインフレ目標を掲げたりしている。
インフレとはモノやサービスの値が上がっていくことだから、逆に言えばお金の価値が下がっていくことだ。モノやサービスに対してお金の量が増えれば相対的にお金の価値が下がるから、お金の量が増えるとインフレになるなんてのを、中学時代の公民で習った記憶がある。

ということで、2回目の安倍政権以降、日銀は異次元緩和の名のもとに、膨大なお金を刷って、お金を増やしてきたが、いっこうにインフレにならない。その膨大なお金は結局は日銀に積みあがってしまい、民間に出回らないからだろう。なぜ民間に出回らないかと言えば、民間に需要がないからだ。

今、必要なのはお金の量を増やすことではなく、民間の需要を作り出していくことだ。
その為には、公共投資などの財政出動が極めて有効だと思うのだけれど、なぜか、国は長年、真逆の緊縮財政路線をとっている。
ちなみに今の日本の緊縮財政については三橋貴明さんが「財務省が日本を滅ぼす」などで論破している。データというエビデンスを持って主張されているので、素人の僕が感じている事にも一定の正しさはあるということだろう。

財政赤字であったり、少子高齢化であったり、そういった言葉と共に我々は緊縮財政や消費税を受け入れてきている。
もちろん経済政策に絶対的な正解なんてない。それでも、緊縮財政や消費税導入、消費税アップは現状を悪化させるだけのものにしか僕には思えない。少なくとも、数十年に渡り、そういった政策を取り続けて、状況が好転するどころか悪化を辿っているから、少なくとも間違いであることは確かだと思う。

政府や大手マスコミの言うことを、我々は鵜呑みにしやすい傾向がある。特に経済政策とか、ちょっと、とっつきにくい内容になれば、考えるのもめんどくさいから、余計にそうなってしまう。その結果、唯唯諾諾と従ってしまうことになる。

そういう意味でも、クリティカルシンキングは大切だ。クリティカルシンキングは、なんでもかんでも反対したり批判することではない。情報に対して一人一人が鵜呑みにすることなく、自分で調べ、考える姿勢を作っていくことが大切だと思っている。それは場合によっては自分たちの生活を守ることにまで繋がっていくものだと思うから。

shin MICではクリティカルシンキングを大切にした勉強会を開いています。

 

 

 

 

 

論理力

EXCELの便利機能フラッシュフィルと関数

エクセルを業務等で使用している人だと、下の図のように、氏名を姓と名に分けなければいけないなんて場面に出くわしたことがある人は、けっこう、多いのではないだろうか。下の図のように人数が10人程度であれば、直接入力していっても問題はないけれど、これが数百人とかになれば、直接入力するのは、かなりしんどくなってくる。

エクセル氏名

このような場合、最近のエクセルは大したもので、フラッシュフィルなどという、超便利な機能が搭載されている。

下の図のように、姓のところを二人ほど直接入力して、図だとB4セルをアクティブにし、メニューのデータにあるフラッシュフィルというボタンを押すだけで、一瞬で、以下の姓の部分だけを取り出してくれる。名も上二つを直接入力し、その下のC4セルをアクティブにして、フラッシュフィルというボタンを押すだけだ。

フラッシュフィル

フラッシュフィルを使えば、こんなふうに簡単に氏名を姓と名に分けることができるわけだけど、フラッシュフィルはもちろん万能ではない。上の図の例では姓と名の間にスペースが入るという規則性があるから、フラッシュフィルが使えるが、もしスペースが無ければ、まともに機能しない。例えば「長野県松本市清水1丁目11-18」というような住所から都道府県と市区町村、それ以下の住所に分割しなければならないケースなどでは、それぞれの間にスペースが無いからフラッシュフィルはうまく機能してくれない。このような場合は、どうしてもエクセルの関数を使って処理をするしかなくなってくる。

そこで、姓と名に分ける作業をフラッシュフィルを使わずに関数を使って分ける事を考えてみる。

エクセルの関数処理1

上の図のB2セルには図のように

=LEFT(A2,FIND(“ ”,A2)-1)

という関数が入っている。関数の意味は氏名が入力されているA2セルのスペースまでの文字数から、スペース分の1を引いた数だけ左から文字を取り出せと言う意味だ。

次に名の部分を見てみよう。

エクセル関数処理

C2セルには上図のように

=RIGHT(A2,(LEN(A2)-LEN(B2)-1))

という関数が入っている。関数の意味は氏名が入っているA2セルの文字数からB2セルの文字数を引き、そこからさらにスペース分の1を引いた数だけ右から文字を取り出せという意味だ。

どうだろうか?

エクセルに慣れていない人ならば、便利機能のフラッシュフィルに比べたら、恐ろしく、ややこしく感じたのではないだろうか。
もちろん、今回の例のような場合であれば、関数など使わずにフラッシュフィルを使用すればいい。その方がおそらく処理も早いだろうし、簡単だから、それで、なんの問題もない。

でも、住所から都道府県や市区町村を抜く場合は関数を使って処理するしかないだろう。

エクセルを普段使わない人からすると「関数」という単語だけで拒絶反応を起こす人もいるかもしれない。でも、エクセルの関数の書き方は難しいものではないし、もっと言えば関数なんか覚えなくても、その時々で検索すれば用は足りる。

関数を使って姓を取り出す場面では、姓と名の間にスペースが有ることに注目し、左からスペースまでの文字数を数えられれば、そこからスペース分の1を引いた数だけ左から取り出すというロジックを考えられる事が大切な点だ。このロジックが組めれば、後は、スペースまでの文字数を取得するための関数や、左から指定した数だけ文字数を取り出す関数を検索して探せばいいだけだ。

もちろん、普段、業務でエクセルを使う人なら、よく使う関数は覚えていた方が効率がいいから、その必要性は出てくるだろう。

しかし、SHIN MICの勉強会でエクセルを扱う場合は、エクセルそのものの使い方よりも、自分でロジックを考える論理的な思考を何よりも重要視している。その上で、そのロジックをエクセルの関数でどう実現するのかを考えてもらう事を大切にしている。

論理力を鍛えたい方には、SHIN MICのエクセル勉強会はおすすめかもしれない。

 

 

ボリバル紙幣

ベネズエラのデノミ | バランスを考える思考の大切さ

YAHOOニュースに、ベネズエラが通貨ボリバルを100万分の1に切り下げるデノミを10月1日に実施すると発表したという記事が出ていた。

下は2019年4月のIDE-JETROの記事の抜粋だが、大変なことになっていることが分かる。

 

169万パーセントのインフレ、5年連続マイナス経済成長、3年間で総人口の1割(300万人)以上の国民が国を脱出、5日におよぶ全国停電。これらが起きているのは戦下の国ではない、南米ベネズエラだ。さらに今年1月以降は2人の大統領が並び立つという異常な事態にある。

 

ベネズエラのハイパーインフレの直接原因はもちろん、財政赤字の拡大と、それを補うために行われた中央銀行による貨幣の増発にある。しかし、そういう状況に追い込んだのは反米左派政権の経済政策の失敗だろう。ベネズエラ政府はアメリカによる経済制裁や石油価格の下落など外的要因を経済破綻の原因としているようだが、明らかに国家による価格や為替レートの非現実的な固定や、企業や農地の接収と、それに伴う人事によるものだと思われる。

ベネズエラのハイパーインフレの状況をニュースで読むにつけ、思い出されるのがジンバブエのハイパーインフレだ。ジンバブエでも白人農場の接収や価格統制などの経済政策が行われていた。

いずれの国も国家が経済に介入し、とても極端な経済政策をとっている事や、敵対勢力に属していたと考えられる人を徹底して排除し、それにより様々なノウハウが失われ、実体経済が疲弊していく様は、似ているような気がする。

 

バランスを考える思考の大切さ

ベネズエラにしてもジンバブエにしても、その経済政策は、そんな極端なことをやったらダメだろ!と、素人の僕でも思うものだ。でも、それを実際に国家が行っていたわけだ。もちろん、そこには独裁制に至ってしまう過程の問題や、独裁者自身の問題、統治システムの問題など、様々な問題があると思われる。しかし、もっと根底には、何かを否定した時に、徹底してそれを否定するという極端な思考に走りやすいという特性が我々に有ることでないかと思われる。

日本でも、民主党政権時代に無駄を無くすという名目の元、公共投資や公務員の削減方向に動き出し、それは現在にまで引き継がれている。当時、霞が関に勤めている人は何か悪いことでもしているかのような空気まで醸成されていた記憶がある。これにより公務員数は現在、全盛期の半数近くになっているようだ。これは行政サービスの遅滞を引き起こし、さらには行政関係の様々なノウハウが失われてしまう可能性があると思われる。

このような何かを否定した時に、それに付随するあらゆるものを否定して極端な方向に走ってしまう習性は、何も国家に限ったことではなく、日常的にも起こりうる。多くの人は「世の中に絶対的な正しさも、絶対的な間違いもない」ということに同意するだろう。しかし、何かを否定すると、そこに存在していた良いものも否定してしまう傾向が強いのだ。

何かを否定した時に、その否定したものの中にある正しさを考える事は、ある意味めんどくさい。しかし、それを考えバランスを取ることが、最善に近づく一つの道だと僕は思う。身の周りで、何かを否定した時に、そこに極端に思考がはしっていないかを考えてみて欲しい。また、否定したことの中にも、ある程度の正しさがないかを考えてみて欲しい。これが多面的にものを捉え、考える事であり、shin MICで大切にしているクリティカルシンキングにも繋がるものだ。

何かを否定して、その方向に極端にはしってしまうとロクなことが無いのは失敗した国家運営からも感じられることだから、日常的な場面でも何かを否定した時に、極端な否定に思考がはしらないように、ちょっと、踏みとどまって意識してみて欲しい。

もちろん、shin MICの思考と探求では、極端にはしる思考傾向につていもディスカッションを行っていく予定だ。

 

 

 

 

自分の能力の発見

Windows 98 – Virtual x86 | 自分の能力を発見する事

Windows 98 – Virtual x86 というブラウザ上で懐かしのWindows98を操作できるサイトがあったので触ってみた。

少し触ってみた感じ、一つ一つの動作のロード時間が長いものの、インターネット関係以外はたいてい動く感じだ。

 

windows98 スクリーンセイバー設定画面

 

当時、よくお店のパソコンコーナーに並ぶパソコンで、なぜか意味もなく設定したスクリーンセーバーの設定画面もちゃんと出てくるし、ファイルの保存もできるし、アクセサリに入っていたゲームも懐かしの画面で使える。とにかく、画面が懐かしすぎる。

 

Windows98の個人的な思い出

僕がパソコンを触り始めたのがこのWindows98からだ。
それまで、たまにワープロを使う事もあったけれど、僕はボタンが並んでいるものが苦手で、ワープロ作業も苦痛以外の何物でもなく、どうしても必要に駆られる時に、黄金の一本指打法で打つ程度だった。好きじゃないから、当時、たまたま新品でゲットした書院も人にあげてしまった記憶がある。だからパソコンなんてのは、僕が触るべきものではないくらいに思っていたし、Windows95が発売されて、世間一般にパソコンが普及し始めた時も僕はなんの関心も持つことはなかった。

そんな僕がWindows98から一気にパソコンにはまった。もちろん、それにはキッカケがある。
それは、同じ社内の人がMicrosoft Wordを使っているのを横目で見た時のことだ。文書中に写真を入れて印刷しているのを見て、僕は衝撃を受けた。それまで文書中に写真を入れて印刷するなんてのは印刷専門のお店でなければ出来ないものだと思っていたから、それを個人でも簡単に出来てしまうということに驚き、パソコンってそんな事ができるんだ!と衝撃を受けたのだ。今現在の感覚から言えば笑えてしまうようなことだけど、当時の僕は「スゲー!」と大いに感動したのだ。

感動した僕はWordを皮切りに、にExcel、PowerPoint、Accessと、Microsoft Officeのメインどころを全て触り倒した。とにかく「スゲー!」の連続で楽しかったことを憶えている。Officeがひと段落したところで、次はホームページ関係を触り始め、その流れでPhotoshopやFlashなんかにも手をつけた。そして気づけば、「パソコンの詳しい人」ってやつになっており、フリーランスとして、ホームページ作成や企業でのパソコン研修、パソコン関係のトラブル処理なんかで15年ほど、ご飯を食べることになっていたのだ。

 

自分の能力を発見する事

僕の場合、上に書いたようにパソコンは苦手なものから得意なものに変わったわけだ。パソコン以外にも、もともと、全く向いてないと思っていた営業系も割といけるほうだったとか、才能なんてカケラも無いと思っていた写真撮影も、案外、そこそこは出来ると分かったとか、過去、そんな自分自身の能力の発見が僕にはいくつもある。

僕は基本的に不器用で、何事においても極めて飲み込みが悪い。これは自分自身のことだからよく分かる。だけど、集団に属すると、そこでは「何でもできる人」という器用な人の位置づけになってしまう。これは、自分の能力を発見し続けて、少しずつ出来る事が増えてきた結果だと思う。

人と会って話をしてみると、大抵の人は僕よりも器用だし、飲み込みも早いと感じる。にも拘わらず出来る事が限定されているケースが多い。これは根本的な能力が高いにもかかわらず、自分自身の能力を発見していないからだと僕は思う。というよりも、感情と思考によって、自分自身の能力を発見しようとしていないと僕には感じられるのだ。

思考と探求の授業では、自分自身の能力を発見するための感情と思考についても、ディスカッションを行っていきたいと考えている。

 

 

コミュニケーション能力

コミュ力を考える | 僕はコミュ障かも

先日、shin MICの授業後の雑談の中で

「自分はコミュニケーション能力が低いんですよね~。逆にプレゼンとかは得意だから、周囲からはそうは思われないんですけど・・・」

なんて話が出てきた。
この話を聞いた時、すぐに「あっ、この方、僕と同じだ!」とピンときたので、「具体的な目的があって、それについて話す場合は、よく話せるけど、例えば合コンみたいな場だと、途端に話せなくなっちゃうような感じじゃないですか?」と、ふってみると「そうなんです!」と大いに共感してもらえた。

この感覚は僕はとてもよく分かる。逆に僕と同じ感覚を抱いている人がいるんだ!と驚いた。

 

考えてみれば、この感覚を僕は中学時代から引きずっている。大学時代、僕は体育会に所属していた。そこでは定期的に女の子に片っ端から声をかけて、先輩方の合コンをセッティングするという今では考えられないような下級生のお仕事があった。この場合、合コンをセッティングするという目的が与えられているので、見ず知らずの女の子に声をかけて僕はいくらでも話すことができた。ていうか、割と得意だった。
ところが、自分が合コンに参加すると途端に話せなくなる。僕も話の輪に加わって楽しく盛り上がりたいのに、それが出来ないのだ。話せないから、皆が盛り上がる中で、おとなしく黙っているしかない。最悪、気を使われて女の子の方から話を振ってもらっても、表面的な無味乾燥な受け答えしかできないから楽しくない。なかなかのフラストレーションだ。

 

この感覚は、今でも続いている。仕事関係でのプレゼンとか営業トークは割と得意だ。広報活動などで、初めて会う人と話す場合も仲良く話すことができるし、そんな中から深い人間関係を築けることもある。傍から見れば、コミュ力は高い方に見えるだろう。ところが、プレゼンで饒舌に喋った僕が懇親会となると、途端に全く喋れなくなってしまう。相手から話しかけられても、とってつけたような会話になってしまう。けっして話したくないとか、懇親会がくだらないとか思っているわけではない。僕も皆のように仲良く和気あいあいと話したいのに、それが出来ないのだ。
どこそこのお店でパーティーがあるから行こう!と誘われて行っても、そこでの会話の輪に僕は入っていくことができない。もちろん行けば多少の会話はするけれど、少なくとも自分の中では、とってつけたような会話になってしまい、内心苦痛だ。だから基本的には押し黙ったまま、楽しそうに話す人たちを羨ましく眺めることになってしまう。

 

僕の場合、仕事や普段の生活をしていく上でのコミュニケーションに大きな支障を感じる事はないから、一般的にはコミュ障ではないだろう。でも、上に書いたような感覚があるから、人生の楽しみの一部を奪われているような感じで、自分ではコミュ障の一種だと思っている。

 

コミュ力を考える

コミュニケーション能力は仕事からプライベートまで、自分の人生の全てにおいて、大きな影響を及ぼすものであることは、多くの人が知るところだ。深刻に自分のコミュニケーション能力に悩んでいる人もいるだろう。個人的には昔から、これほど人生に大きな影響を与えるコミュニケーション能力、しいては人間関係を学ぶための授業が、なぜ、学校に用意されていないのか不思議に思ったりしている。

ここで、僕がパッと思いつくコミュニケーションに大切な要素を書いてみると

・愛そうも含めた表情
・相手の話をよく聞くことができる
・相手の真意を会話の文脈から推し量ることができる
・相手に合わせた伝え方ができる
・適切な話題をふれる
・会話のタイミング
・相手の感情や関心を推し量ることができる
・キャラにあったユーモア

なんてのが出てきたりするけど、一口にコミュニケーション能力と言っても、職種によって求められるコミュニケーション能力は違うだろうし、友達、対異性、パーティーの場等々でも、求められるコミュ力は変わってくるだろう。僕のように、ある部分に関してのコミュ力が著しく欠如してるなんてパターンもあるだろう。

shin MICの「思考と探求」では、人生に大きく影響を及ぼすコミュ力についても、深く考え、分析し、ディスカッションを行い、学びを得てもらう授業を提供していく予定だ。

 

高遠草(タカトウグサ)アキカラマツ

高遠草(タカトウグサ)| 知識の一般化を考える

家の近くに高遠草(タカトウグサ)が生えているのを見つけた。まだ色合いが新緑って感じで綺麗だったので写真を撮ってみた。それが上の写真だ。

高遠草(タカトウグサ)は長野県の高遠城下で腹痛の薬として伝承されてきたキンポウゲ科の多年草だ。正式名称をアキカラマツと言う。

子供の頃の思い出

個人的には高遠草には信仰に近い思い入れがある。

まだ小学校の低学年の時だったと思うが、ドブ川に落ちた際、その水をガブ飲みしてしまい、とんでもない腹痛に襲われ、下痢と嘔吐のヘビーローテーションに陥ってしまった事があった。

そんな経験はそれまでにも何回かあったが、病院でもらった薬を飲んで少し絶食すれば治っていた。それがこの時ばかりは数日しても全く回復する気配がなく、このまま何も食べる事が出来ずに衰弱して死んでしまうのではないと、僕はぼんやりと思っていた。

そんな様子を見かねたバアちゃんが「病院の薬が効かないみたいだから、ちょっと高遠草を飲んでみろ!」と、煎じたものを湯呑に入れて持ってきた。「うんと苦いけど我慢して飲め!この煎じたやつを丼で2杯も飲んだら赤痢だって治るから、きっと良くなる!」と煎じたものを部屋に置いていった。

しかし、その苦さたるや、当時の僕としては、今までに経験した事のない想像を絶する苦さで、結局、湯呑半分しか飲む事ができなかった。こんなもん丼で2杯って、飲まなかったら死ぬって状況でもない限り、飲めるもんじゃないと、当時思った事を憶えている。

そして、高遠草を飲んだ翌朝、あれだけ病院の薬を飲んでも収まる気配のなかった嘔吐がピタリと収まり、そのまま治ってしまったのだ。

それ以来、「いざという時は高遠草!」という信仰に近い感情を持ち、子供の頃は、毎年、高遠草を採っては干して、いつでも煎じて飲めるようにしていた。もっとも、子供の僕としては飲むのに決意がいるくらいの苦さだったから、結局、その後、高遠草を飲もうと思うほどの腹痛に襲われることはなかったのだけれど。

高遠草を煎じたもの

高遠草を煎じたもの

高遠草を乾燥させたもの

高遠草を乾燥させたもの

数年前のことだけれど、胃腸の調子悪さが続いた時があり、その時に高遠草を採取してきて干して飲んだことがあった。上の写真はその時のものだ。確かにかなりの苦さだけれど、子供の頃に感じた悶絶するような苦さではなかった。まあ、我慢して飲めるレベルだ。

飲んで1時間ほどで、ずっと動きの悪かった腸が動き出すのが感じられ、お腹の嫌な感じが引いてしまった。やはり、少なくとも僕には高遠草はよく効く。

高遠草

上にも書いたが、高遠草(タカトウグサ)は正式名称アキカラマツというキンポウゲ科の多年草で、長野県の高遠城下で何百年もの間、腹痛の薬として用いられてきたものだ。キンポウゲ科の植物は毒草が多いから、全国的には警戒されて薬草として用いられることはなかったようだ。高遠城下にだけ伝わる秘伝の薬って感じで、なんか萌える。

それが太平洋戦争のおり、国内に薬が不足し、当時の厚生省が国内に埋もれている薬資源の調査に乗り出して、初めて苦味健医薬として、取り上げられたんだそうだ。

今ではネットで検索すると、和漢薬として、けっこういいお値段で販売されたりしているから、薬草として知られ、その地位を確立しているってことだろう。

成熟したアキカラマツ

成熟した高遠草(アキカラマツ)

アキカラマツの花

高遠草(アキカラマツ)の花

知識の一般化を考える

仮に、高遠草が薬草としての地位を確立していない状態で、伝承だけを頼りに、僕が毒草だらけのキンポウゲ科の植物を煎じて飲んだなんて話を書くと、多くの人が「危ないことをする人だな」とか「チャレンジャーだな」といった感想を持つだろう。つまり、国に和漢薬として認められて初めて高遠草は、薬草であるという知識が一般化していると言える。

何百年もの間、高遠草はなぜ薬として高遠城下以外に広まらなかったのだろうか?

僕は様々な人に出会って話をした経験からも思うのだが、社会的にも有用だと思われる知識が、特定の個人や人々だけで共有されるにとどまり、一般化していないものは、案外、多いのではないかと感じている。

知識が一般化されるには、どのような経緯が必要なのだろうか?
知識が一般化されるには、どのような条件が必要なのだろうか?
一般化されていない有用だと思われる知識に出会った時、我々はどう判断し、行動すればよいのだろうか?

そんな事も、shin MICの思考と探求の授業では、様々な事例を取り上げて、考え、ディスカッションを行っていく。

現在、無料体験授業を毎週月曜日の19時から行っているので、是非、気軽に参加していただければと思う。

徳川宗春

徳川宗春とデフレを止めようとしない日本

もう1年以上前のような気がするけど、現在のshin MICの相棒から「たぶん気に入ると思う!」と、“しなのユーキ”さんの音楽CDをプレゼントしてもらった。

CDの最初の曲が「松本城初代城主・石川数正」だ。なんとも面白い曲で、相棒が言った通り、結構、気に入ってしまった。他にも、「中央西線」とか「名古屋の和菓子」など、松本市から名古屋市にかけて歴史上の人物や、名産品を、面白おかしい感じの歌にしていて、一時期、車の中でヘビーローテーション状態だったのだ。笑

このCDに収録されていた曲の中に上の動画で“しなのユーキ”さんが歌っている「尾張七代藩主・徳川宗春」もあった。曲の中で「名古屋に繁栄をもたらしたお殿様」と歌われている。当時、京、大坂、江戸の大きな都市に比べたら、名古屋(尾張)は村のような存在だった。「尾張名古屋は城でもつ」なんていう言葉があるくらい、城以外は大したものが無いような場所だったのだ。そんな名古屋を現在まで続く大きな都市となる繁栄の元を作ったお殿様が徳川宗春だ。

当時は徳川吉宗の享保の改革の真っ最中で、質素倹約が是とされ、徹底した緊縮財政と増税が行われていた。これをやれば、当然のことながら庶民の元気が無くなってくる。そんな中、尾張藩主の宗春は、名古屋で規制緩和と大きな財政出動を行い、名古屋だけが活気づき、全国から人が流入し繫栄することになる。宗春の政策は緊縮財政の公儀の方針に逆行するものだから、当然、公儀に疎まれ、やがて蟄居させられてしまう。

享保の改革を行った徳川吉宗は名君と称されるが、享保の改革は緊縮財政と増税がセットになっており、あくまでも幕府のための改革であって、そのつけを庶民が払わされるものではなかったかと僕は感じてしまう。それに対して徳川宗春の政策は、あくまでも庶民の繁栄を考えたものだったのではないかと僕は思ったりする。

徳川宗春

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財政赤字と緊縮財政

財政赤字を解消するために緊縮財政と増税を行った享保の改革と同じように、現代の日本でも巨額の財政赤字をなんとかしなければいけないと、長いこと、緊縮財政と増税の路線がとられてきている。

マスコミなどでも「国の借金が・・・」「国民一人頭・・・」といった表現がされ、国がそんな状況であれば、次の世代が払わされるツケを減らすためにも増税も仕方ないという風潮が生まれたりする。しかし、そもそも財政赤字は国の借金ではなく政府の借金だ。だから我々国民が返済するものではなく、政府が返済すべきものだ。そして政府が返済する際も、増税しなくとも、日銀に通貨発行させて国債を買い取らせればいい。日銀は政府の子会社みたいなもんだから、連結決算で政府の借金は消えるわけだ。こう言うと、そんなことをしたらハイパーインフレを引き起こすという人もいるけれど、既に日銀は異次元緩和の名の元に巨額の国債の買取を行っている。これだけ巨額の買取をしても、ハイパーインフレどころか、相変わらずデフレなのだから、素人感覚ではハイパーインフレの心配など無用だと思うのだ。

緊縮財政の名の下に、無駄をなくそう!と、道路やダムなど様々な公共投資が無駄とされ、削られ続けてきた。しかし財政赤字を膨らませてきたのは公共投資ではない。なぜなら財政赤字を膨らませたのは赤字国債と言われる特例公債だからだ。公共投資は建設国債でなければ出来ない。そして建設国債の発行は増えていないからだ。まともに公共投資をしなくなったおかげでに日本のインフラは劣化し、もはや先進国と言えるのか?というところまで来てしまった気がする。お金は発行できるけど、インフラ等の資本の蓄積は一朝一夕にはできない。今の日本は緊縮財政の名の下に、過去の資本を食いつぶし、未来へ資本を残さないように、20年以上、走り続けてきてしまったのかもしれない。

GDPとデフレ

日銀に国債を買い取ってもらった一般銀行は、そのお金をどうするのだろうか?おそらくは、そのお金でまた国債を買うものと考えられる。そもそも銀行の基本的なビジネスモデルはお金を貸して金利を得ることだ。だから貸さなければ始まらない。本来なら企業の設備投資など民間に貸し出したいところだが、デフレ下では、企業も設備投資など積極的にやるところはないため、結局、政府に貸し出すしかなくなってしまっている状態だろう。

GDPはモノやサービスが生み出されなければ上がらないから、これではいくら日銀がお金をばらまいてもGDPには関係がない。一般銀行が民間に貸し出せば、設備投資等に使われるからGDPの数値が上がることになるけれど、デフレで需要がないから借りてくれないわけだ。

日本のGDPの成長率は他の先進国に比べても極めて低い。かつて世界第二位の経済規模を誇った日本は現在では第三位で第二位の中国との差は大きく開いていくばかりだ。このままいくと、近い将来、大国としての地位を失うことになるだろう。GDPはいわば国力であり、その成長率を保つことはとても重要だ。

GDPの成長率が落ちてしまったのは、少子高齢化と人口減少によるものとよく解説されるが、日本よりも人口減少が激しくともGDPの成長率を高く保っている国もある。この20年、仮に日本のGDPの成長率が他の先進国並みだったならば、高齢化による医療費の増加分も税収の伸びによって、ある程度は賄えた可能性がある。人口減少は何も日本に限ったことではない。にもかかわらず他の先進国に比べ日本だけがGDPの成長率が低いわけだから、人口減少だから仕方ないと思考停止に陥るのではなく、その原因をよく考えてみる必要があるだろう。

先日、コロナ対策の予算のうち約30兆円を使い残したという驚くべき記事を目にした。使い残した30兆円をもしそのまま使っていたなら、それはそのままGDPを押し上げてくれる。仮に本当にコロナ対策にもう使う必要がなかったなら、あと2回給付金を配布したって、その多くはGDPを押し上げることになっただろう。日経の記事によると日本がコロナ対策に使ったのはGDP比7%どまりであったのに対し、米国はGDP比13%だったそうだ。もう、こうなると政府がGDPを成長させずに国力を削ぐ方向で政策をすすめているとしか思えないくらいだ。とにかく今の日本は緊縮財政路線のもと、何が何でも財政出動を抑えようとしているのだろう。

GDPの成長率が上がるということは、それだけ新たにモノやサービスが生み出されることであり、需要が増えるわけだからデフレは解消されていく。日本がデフレから抜け出し成長路線に戻る為には、徳川宗春ではないけれど、財政出動を増やすことだ。必要な道路や港湾整備など公共投資を増やせばいい。それはそのままGDPを引き上げるし、玉突きで別の需要を作り出す。さらにそれは資本の蓄積として未来へも受け継がれるものだ。

個人的には、このまま緊縮財政を続けていたら亡国の危機がやがて訪れるのではないかと危機感さえもっている。

デフレを止めようとしない日本

米国は既に大規模かつ長期間に及ぶ公共投資を行う方向に舵を切ってきているし、このまま日本が緊縮財政を続けていたなら本当に衰退国になってしまうような気がする。

国会議員の中にも財政出動の拡大や消費税減税といった考えを持つ人も、増えてはきているみたいだが、まだ暫くは緊縮財政路線は続くのだろう。僕はかたくなに緊縮財政と増税路線を取り続ける政府によってデフレが引き起こされていると感じてしまう。つまり日本はデフレから抜け出れないのではなく、デフレを止めようとしていないのだ。

緊縮財政を続けて誰が得をするのかと言えば、増税や予算を削ることによって出世ができる財務省のお役人さんたちくらいではないかと思う。そのお役人さんたち個々の出世欲が大きな流れになって、日本は長く停滞してしまったのかもしれない。

でも、組織やそこに属する人の面子や保身などから国を巻き込む大きな流れが出来てしまう事は歴史的にも多いことなんじゃないかと思う。

自分で調べ考えることの大切さ

実は僕は20年くらい前は、「国の借金」「財政破綻」「ハイパーインフレ」といったような言葉から、緊縮財政や増税路線を支持していた。でも、折に触れて違和感を感じ、調べ考える中で、現在では上に書いたような考え方をしている。もちろん僕は経済の専門家ではないから、上に書いたことも専門家から見れば的外れなこともあるかもしれない。でも大切なのは、疑問を持ち、自分で調べ考えてみる事だ。

プロバガンダが特にそうだけれど、人は言葉が運んでくるイメージをそのまま受け取ってしまいやすい。そのまま判断してしまうのではなく、自分で調べ、自分の頭で考える事だ。それを繰り返すことによって、自分自身の知識も増えるし、物事の判断の仕方を変わってくる。だから何事も、すぐに思考停止に陥るのではなく、調べ考えることを大切にしたいと思っている。

ちなみに徳川宗春は、減税と財政出動により最終的に藩の財政難を招いた(米本位制の当時と管理通貨制度の現在の単純比較はできないと思う)が、名古屋という大きな資本を後世に残した。我々も次の世代に残すべきは単なるお金ではなく資本だと思うのだ。

と・く・が・わ むねはる♪ とくがわ むねはる♪

思考と判断

Bitcoinと鈴木商店 | 判断の思考部分について考える

皆さんもご存知の通り、5月にビットコインが大暴落した。ビットコインだけではなく、もれなく他の仮想通貨も大暴落したわけだけど。

あっという間に価値が半分になってしまったから、もし最高値の1ビットコイン700万円近辺で買っていたなら、大損害だ。これほどの大暴落だから甚大な損害を被った人も多いかもしれない。ビットコインの爆上げ過程では、メディアでもそれをあちこちで取り上げていた。仮想通貨投資による「億り人」の紹介なんかも、この時期にはよく目にした。

しかし、仮想通貨に限らず株なんかもそうだけど、メディアが爆上げを取り上げだすのは、既に爆上げの終わりの時期から頂点をつける時期がほとんどだ。だからメディアで取り上げられるのを見て「儲かりそう!」と手を出すと痛い目を見るパターンが多いんじゃないかと思う。そして、ひとたび大暴落が起これば「仮想通貨バブルは終わった」とか「大暴落はまだ始まったばかり」といったネガティブな報道のオンパレードになる。まあ、ビットコインに関しては実際に「中国のマイニングの禁止」とかテスラの「テスラ車のビットコインによる購入を認めない」といったネガティブな出来事が続いたのも確かだけど。

そんな中、積極的なビットコイン投資で知られる米ソフトウエア企業のマイクロストラテジーが約540億円分のビットコインを買い増ししたと発表した。平均購入価格は3万7617ドルということらしい。今日現在1ビットコインは3万4000ドル近辺だから評価損が出ていることになる。今後、マイクロストラテジーがどうなるかは分からないが、えてして巨額の利益を上げる人は、こういった総悲観の中で密かに買ったりしていることが多い。

そもそも、現在のビットコインの状況が、そこまで悲観的なものかを冷静に考えてみれば、ビットコインは元々乱高下が激しく、毎年のように50%くらいの大暴落を繰り返している。そしてそのたびに総悲観状態になりながらも再上昇して高値を更新し続けてきている。だからと言って今回もそれがあるとは限らないけれど、ビットコインの値動きをよく見ている人の中には、今が絶好のチャンスと捉えて大量購入する人がいても不思議な話ではない。

 

鈴木商店

皆さんは鈴木商店をご存知だろうか?
鈴木商店は明治から昭和の初めにかけて活躍した商社だ。神戸の一個人商店から始まり、瞬く間に日本一の総合商社になっている。その最盛期にはスエズ運河を航行する船の1割が鈴木船籍だったというから凄いものだ。鈴木商店は昭和に入って倒産するが、鈴木商店からはIHI、帝人、双日、昭和シェル石油、サッポロビール等々の大企業が生まれてきている。僕は個人的に鈴木商店の物語が好きなので、また機会があれば、いろいろと書いてみたいと思うけれど、今回は、とりあえず興味のある方は、下の動画で鈴木商店のあらましを掴んでみて欲しい。

 

 

上の動画の中にも出てくるが、鈴木商店が本格的な世界進出をするきっかけになったのが、鈴木商店の立役者である大番頭の金子直吉による鉄の買いまくりだ。第一次世界大戦勃発時、多くの人が、この戦争は長引かないと考えていたわけだけど、金子直吉は独自の情報網から戦争は長引くと考えて、鉄の需要が増えることを予測し、信念をもって鉄を買いまくっている。鈴木商店が鉄を買いまくるのを見て「鈴木の金子は頭がおかしくなった」とか「これで鈴木も終わりだ」と他の商社ではささやかれていたみたいだから、金子直吉だけがその他大勢と逆の判断をして思い切った行動に出ていたことになる。結局、金子直吉の予測が当たって鈴木商店は巨額の利益を得ることになるわけだ。

 

判断の思考部分について考える

もともとビットコインの値動きをよく観察して分析している人でもない限り、この大暴落状況で新たにビットコインを買ってみようと思う人は少ないはずだ。多くの人は「ビットコインは怖い、危ない、怪しい」といった感情によって、手を出さないという判断に至るだろう。逆に上に書いたマイクロストラテジーなどは、ビットコインの値動きを観察分析し、論理を積み重ねた上で買い増しするという判断にいたったんじゃないかと想像できる。鈴木商店の金子直吉も、他から何を言われようが、自分の情報分析と論理の積み重ねから確信を持って鉄を買いまくったのだと思う。

しかし、情報分析や論理を簡単に裏切ってくるのも相場というものの動きだ。自分の情報分析と論理から確信にいたり信念に固執すると、相場が逆に動いた時には「自分は間違ってはいない!間違っているのは相場だ!」と本末転倒な事を言い出す人もいるくらいだ。以前の記事の論理を超える「なんとなく」でも書いたが、論理よりも直観に従った方が正しいこともある。つまり相場を判断する際、思考部分において論理的な考えが正しいとは限らない。では直観が正しいのかと言えば、論理的な考えよりも分が悪いことの方が多い。もちろん感情に従った判断ともなれば、さらに分が悪いことが多いのは明らかだ。

我々は生きている限り、小さなことから大きな事まで、常に判断を迫られる。判断を迫られるということは、そこに不確定要素があるからだ。だから、その判断が正しかったかどうかは結果論であって絶対的に正しい判断というものはない。それでも我々は判断を行う時は正解するために判断を行う。よく判断材料という言葉が使われるが、判断材料という言葉を出す時点で、その判断は論理に頼ったものと言えるだろう。しかし相場のように論理を逸脱してくるケースも多々あるわけで、ある判断材料による判断が間違っていた場合、そもそも判断材料が間違っていたと、別の論理が持ち出されてくる。しかしこの論理は言わば後付けのものであって、判断前にその論理を確実に引き当てられるものではない。

我々は判断を行う際、論理だけでなく、感情や直観、願望など様々な思考に左右される。だから判断する際、自分はどの思考に偏っているかを意識してみる必要がある。また、自分はどのような場合にどの思考要素のウエイトが高くなりやすいのか、それによって正解を導くことが阻害されている可能性はないかを意識してみることは大切だと思う。

あなたなら、大暴落しているビットコインを買いますか?
自分の判断はどの思考要素によるものですか?
ちょっと真剣に想像してみるだけでも、判断の際の思考要素を意識するきっかけにしてもらえるのではないかと思う。

 

ジャーナリングのすすめ

muute(ジャーナリングアプリ) | ジャーナリングのすすめ

今週からAndroidでもジャーナリングアプリのmuuteが使えるようになったので早速、使ってみた。

ジャーナリングは、日記とは違って、とにかく頭に浮かんだことを思いのままに書きだすというもので、「書く瞑想」なんて言われたりしている。特に感情的な事を書きだしたりすると、ストレス軽減にもつながり精神的にいいということが科学的にも証明されているらしい。

誰に見せるものでもないから、心の赴くままに書いていけばいい。手で実際にノートに書くのがいいらしいけど、muuteにはアプリならではの良さがある。muuteはAIが自分の思考や感情を分析してフィードバックしてくれるから、一人でもくもくと書くのと違って、ちょっとやる気もでるし、楽しい。

感情選択や、muuteが提供してくれる質問に答える形でも書くことができるから、書くことが見つからないなんて時でも、とりあえずは何かを書くことはできる。新たな自分探しの旅をAIが手伝ってくれるようなアプリで、おもしろい。

muute words
muute biorhythm
muute mind space
muute emotioin

僕は、とりあえずTwitterに投稿するような感覚で書いてみている。ただしmuuteへの投稿は他人は見ることなく自分しか見ないから、感情をさらけ出し、アイデアなど思いつくままに書いてるのが、SNSへの投稿との違いだ。

もちろん、何かテーマを決めて書いてみるのもいいし、使い方は人それぞれだと思うけれど、思いつくままに書いたものを振り返ることによって、新たな自分探しができるだろう。それをAIがお手伝いしてくれるから、楽しくジャーナリングを続けられるアプリなのだと思う。そして、とにかく操作が簡単なのが素晴らしい。

自分だけのものを書くわけだから人に見られるのは基本的には困る。muuteの設定でアプリを開くためのパスワード設定や指紋認証の設定も簡単にできるから安心もできる。

目的と手段の罠

実際のところ、自分自身のことって案外分からなかったりする。自分が本当に望んでいるものが何かを、よく認識できている人は、少ないんじゃないかと思う。子供の頃は将来の夢とか、進路を考えるときなどに、自分がどうしたいのかを、ある程度考える機会が与えられたけれど、大人になると、日々の仕事に精一杯で、自分が本当に望んでいるものを考えるということすらしなくなる傾向が多くの人にあるのではないだろうか。

そういった状況下では、目的と手段が逆転する「目的と手段の罠」に陥りやすい。例えば、家族を幸せにしたいというのが本来の望みであり目的だったとする。家族に不自由な生活をさせたくないから多くを稼ごうと思う。その為には昇進も果たさなければならないしと、がむしゃらに働く。仕事、仕事で家にいることも少なくなり、いつの間にか家族とのすれ違いが起こり始める。多少、家族との不和があっても、今、昇進を果たさなければと躍起になり、やがて、それが常態化していく。この時点で目的は「昇進」になっており、目的と手段が逆転してしまっている。僕の父もそうだったけれど、高度経済成長期には多かったパターンではないかと思う。

目的と手段の罠は、現在でもサラリーマンだろうが経営者だろうが、全ての人に起こりやすい現象だ。ひとたび目的と手段の罠に陥ると、本来の自分の望みと違った方向に、力を入れ続けることになる。しかも、本来の目的を忘れ、手段が目的になってしまっていることに気付くことが難しい。

そもそも、自分の本当の望みが何かを認識できていないケースも多いのではないかと思う。例えば「お金持ちになりたい」と思った時に、なぜ自分はお金持ちになりたいのか?を自分に問うてみた方がいい。その答えが、いい車に乗ったりブランド服を着たりして他人に見栄をはりたいなんてことだってある。そしたら、なぜ自分は見栄をはりたいのか?見栄をはることによって自分は何を得ようとしているのか?と、心が究極的に何を求めているのかを自分自身と対話して、本当の望みを認識していく作業は大切だ。自分の本当の望みと違った方向に進んでしまうと、当初考えた「お金持ちになりたい」が実現できても、何か満たされず、どこまでも渇き続けることになってしまう。

 

自分の心が本当に望んでいることを知る事や、目的と手段の罠に陥ってないかをチェックする上でもジャーナリングは有効だ。しかもmuuteの場合、AIがフィードバックしてくれるから、自分だけではなかなか気づきにくいことを気付けるってのが、ちょっと使ってみた僕の感想だ。

ブログに書いたりSNSに投稿する時ってのは、他者を意識して書くから知識を固定する時には有効だし、他者とのやり取りの中で、その知識に対する新たな気づきがあったりする。それに対してジャーナリングは、完全に自分とのやり取りだ。顕在意識と潜在意識との対話と言ってもいいかもしれない。通常、学ぶ時ってのは対象は他だけれど、ジャーナリングは自分自身について学べる数少ないツールだから、皆さんにも試してみて欲しい。muuteなら、その作業も楽しくできるようになっているから、僕としてはおすすめのツールだ。

自分自身について学ぶ旅にでかけよう!!

 

二重スリット実験

二重スリット実験と引き寄せの法則

二重スリット実験と言えば高校時代の物理で習った「ヤングの干渉実験」だ。それぞれのスリットを抜けた水の波の「山と山」もしくは「谷と谷」が出会うと波が強くなり、「山と谷」が出会うと打ち消し合って波がなくなり、その結果、干渉模様ができるというものだ。ところが、これが水の波ではなく量子に置き換わった瞬間に不思議なことが起こる。物理学の世界では、過去、いろいろな説明がされてきているが、謎の現象と言っていいだろう。

下の動画では、量子の二重スリット実験を分かりやすく解説してくれている。その上で、量子の二重スリット実験や光の速度の上限、量子もつれなどの物理の現象をコンピューターゲームと対比して、この世界は仮想現実ではないかという主張を行っている。確かに下の動画で言っているように、この世界が誰かの作った仮想現実ならば、物理の摩訶不思議な現象の説明もつくわけで、とても面白く見させてもらった。

 

 

この世界では我々人間も含め、植物以外の生き物は他の命を奪ったり傷つけなければ生きていくことができない。自然界のシステムはとてもよく出来たシステムではあるけれど、どうして、こんな残酷なシステムになっているんだろうかと考えることが僕はたまにある。でも、この世界が誰かが作った仮想現実ならば、この方が面白いから、こんなシステムにしたんじゃないかと、とりとめもなく考えてしまった。笑

 

観察によってプログラムのスイッチが入る仕組みならば、シュミレーションゲームのように思考はゲーム展開にもっと大きなトリガーになるのかもしれない。そこで、暫く前に流行った「思考は現実になる」のロンダ・バーンの「ザ・シークレット」を思い出した。「ザ・シークレット」以後、あちこちで「引き寄せの法則」を目にするようになったから、インパクトのあった自己啓発書と言えるだろう。

 

 

「ザ・シークレット」はあちこちに影響を及ぼしたけれど、「思考は現実になる」とか「引き寄せの法則」は表現は違っても、過去の自己啓発書でも同じことが言われている。

僕が20代の頃は、自己啓発が流行った時期で、ナポレオン・ヒルの「成功哲学」に始まり、様々な自己啓発書がたくさん書店に並んでいた。そんな中でポール・J・マイヤーという人の言葉がカッコよく感じて、未だに覚えている。

 

ポール・J・マイヤーの言葉

Whatever you vividly imagine, ardently desire, sincerely believe,
and enthusiastically act upon… must inevitably come to pass.

鮮やかに想像し、熱烈に望み、心から信じ、魂を込めた熱意をもって行動すれば、何事も必ず実現する。

 

ちなみにマザー・テレサが言ったとされる言葉も、意味合いは似ている。

 

マザー・テレサの言葉

Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words.
Be careful of your words, for your words become your deeds.
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits.
Be careful of your habits for your habits become your character.
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

いずれも、思考が最初にあり、それを言葉にして行動があって望みが実現することを言っている。過去の自己啓発書でも、思考の仕方や、それを言葉にするやり方、そして、どのようにそれを行動に落とし込んでいくかを解説しているって感じじゃないだろうか。「ザ・シークレット」では、ここにさらにスピリチュアル的な要素が入り込んでるから、それが、世界中で売れた要因なのかもなんて、僕は思っている。

スピリチュアルでは思考や魂を、エネルギーや波動として表現する。普段、我々も「あの人とは波長が合うとか合わない」といったような表現を使うから、なんとなく奥底で感じ取っているものなのかもしれない。上の「ザ・シークレット」の動画では我々が望みを本気で思えば、宇宙がそれを与えてくれるってことだから、宇宙の波動と我々の波動を同調させるって感じなのかもしれない。この世界が誰かが作った仮想現実だとするならば、その中で予めプログラムされたものに合わせて効率よくプレイするための解説書みたいな感じかもしれない。

「ザ・シークレット」の動画の中では、ポジティブな思考よりネガティブな思考の方が強く作用することと、宇宙は否定形を理解できないということを言っている。これはとても重要なポイントだと僕は思う。それ故、実践はとても難しいと僕には思えるのだ。

望みをかなえるために思考を変えること

思考を変えるというのは、とても大変な事だと僕は思う。
何かをやる時に「自分なら出来る!」といくら言い聞かせても「でも失敗するんじゃないか」という不安が付きまとう時点で、思考は変えられていない。逆に無理っぽい事でも、「なんとかなるんじゃねえの!」って思える時は、案外、なんとかなったりする。これは思考が出来る!になっているからだ。

自己啓発書によく出てくるワードで「お金持ちになりたい」ってのがある。この「お金持ちになりたい」という事を思った時点で、自分がお金持ちではないことを認めてしまっている。よく言われる顕在意識と潜在意識でいうならば、顕在意識で自分は「お金持ちだ」といくら思っても、潜在意識では、それを否定した状態だ。

結局のところ、まずお金持ちになるためのロードマップを作り、それを、自分に出来る事だと分かるところまで細分化して、細分化したもの一つ一つについて学び、行動し、実現していくしかない。細分化したものが一つ一つ実現していく中で、成功体験が積み重なり、初めて、お金持ちになるという望みが潜在意識にも浸透していき思考が変わっていくってことじゃないかと思う。本当に思考を変えるためには経験も含めた学びが必要だと思うのだ。

この過程で「カステラの法則」が発動されるのは容易に想像できる。つまりは引き寄せだ。思考の実現も引き寄せの法則も、最初に思わなければ始まらないことは確かだけれど、ただ思って、願っていれば宇宙が与えてくれるってことではないと思う。

本当の意味で思考を変えるためには、経験も含めた多くの学びが必要になってくると僕は思う。

SHIN MICの教室では自己実現と思考の関係なんかも、扱っていく予定だ。