080 1449 1565
infoshin@shin-mic.com

Archive: 2021年7月29日

自分の能力の発見

Windows 98 – Virtual x86 | 自分の能力を発見する事

Windows 98 – Virtual x86 というブラウザ上で懐かしのWindows98を操作できるサイトがあったので触ってみた。

少し触ってみた感じ、一つ一つの動作のロード時間が長いものの、インターネット関係以外はたいてい動く感じだ。

 

windows98 スクリーンセイバー設定画面

 

当時、よくお店のパソコンコーナーに並ぶパソコンで、なぜか意味もなく設定したスクリーンセーバーの設定画面もちゃんと出てくるし、ファイルの保存もできるし、アクセサリに入っていたゲームも懐かしの画面で使える。とにかく、画面が懐かしすぎる。

 

Windows98の個人的な思い出

僕がパソコンを触り始めたのがこのWindows98からだ。
それまで、たまにワープロを使う事もあったけれど、僕はボタンが並んでいるものが苦手で、ワープロ作業も苦痛以外の何物でもなく、どうしても必要に駆られる時に、黄金の一本指打法で打つ程度だった。好きじゃないから、当時、たまたま新品でゲットした書院も人にあげてしまった記憶がある。だからパソコンなんてのは、僕が触るべきものではないくらいに思っていたし、Windows95が発売されて、世間一般にパソコンが普及し始めた時も僕はなんの関心も持つことはなかった。

そんな僕がWindows98から一気にパソコンにはまった。もちろん、それにはキッカケがある。
それは、同じ社内の人がMicrosoft Wordを使っているのを横目で見た時のことだ。文書中に写真を入れて印刷しているのを見て、僕は衝撃を受けた。それまで文書中に写真を入れて印刷するなんてのは印刷専門のお店でなければ出来ないものだと思っていたから、それを個人でも簡単に出来てしまうということに驚き、パソコンってそんな事ができるんだ!と衝撃を受けたのだ。今現在の感覚から言えば笑えてしまうようなことだけど、当時の僕は「スゲー!」と大いに感動したのだ。

感動した僕はWordを皮切りに、にExcel、PowerPoint、Accessと、Microsoft Officeのメインどころを全て触り倒した。とにかく「スゲー!」の連続で楽しかったことを憶えている。Officeがひと段落したところで、次はホームページ関係を触り始め、その流れでPhotoshopやFlashなんかにも手をつけた。そして気づけば、「パソコンの詳しい人」ってやつになっており、フリーランスとして、ホームページ作成や企業でのパソコン研修、パソコン関係のトラブル処理なんかで15年ほど、ご飯を食べることになっていたのだ。

 

自分の能力を発見する事

僕の場合、上に書いたようにパソコンは苦手なものから得意なものに変わったわけだ。パソコン以外にも、もともと、全く向いてないと思っていた営業系も割といけるほうだったとか、才能なんてカケラも無いと思っていた写真撮影も、案外、そこそこは出来ると分かったとか、過去、そんな自分自身の能力の発見が僕にはいくつもある。

僕は基本的に不器用で、何事においても極めて飲み込みが悪い。これは自分自身のことだからよく分かる。だけど、集団に属すると、そこでは「何でもできる人」という器用な人の位置づけになってしまう。これは、自分の能力を発見し続けて、少しずつ出来る事が増えてきた結果だと思う。

人と会って話をしてみると、大抵の人は僕よりも器用だし、飲み込みも早いと感じる。にも拘わらず出来る事が限定されているケースが多い。これは根本的な能力が高いにもかかわらず、自分自身の能力を発見していないからだと僕は思う。というよりも、感情と思考によって、自分自身の能力を発見しようとしていないと僕には感じられるのだ。

思考と探求の授業では、自分自身の能力を発見するための感情と思考についても、ディスカッションを行っていきたいと考えている。

 

 

コミュニケーション能力

コミュ力を考える | 僕はコミュ障かも

先日、shin MICの授業後の雑談の中で

「自分はコミュニケーション能力が低いんですよね~。逆にプレゼンとかは得意だから、周囲からはそうは思われないんですけど・・・」

なんて話が出てきた。
この話を聞いた時、すぐに「あっ、この方、僕と同じだ!」とピンときたので、「具体的な目的があって、それについて話す場合は、よく話せるけど、例えば合コンみたいな場だと、途端に話せなくなっちゃうような感じじゃないですか?」と、ふってみると「そうなんです!」と大いに共感してもらえた。

この感覚は僕はとてもよく分かる。逆に僕と同じ感覚を抱いている人がいるんだ!と驚いた。

 

考えてみれば、この感覚を僕は中学時代から引きずっている。大学時代、僕は体育会に所属していた。そこでは定期的に女の子に片っ端から声をかけて、先輩方の合コンをセッティングするという今では考えられないような下級生のお仕事があった。この場合、合コンをセッティングするという目的が与えられているので、見ず知らずの女の子に声をかけて僕はいくらでも話すことができた。ていうか、割と得意だった。
ところが、自分が合コンに参加すると途端に話せなくなる。僕も話の輪に加わって楽しく盛り上がりたいのに、それが出来ないのだ。話せないから、皆が盛り上がる中で、おとなしく黙っているしかない。最悪、気を使われて女の子の方から話を振ってもらっても、表面的な無味乾燥な受け答えしかできないから楽しくない。なかなかのフラストレーションだ。

 

この感覚は、今でも続いている。仕事関係でのプレゼンとか営業トークは割と得意だ。広報活動などで、初めて会う人と話す場合も仲良く話すことができるし、そんな中から深い人間関係を築けることもある。傍から見れば、コミュ力は高い方に見えるだろう。ところが、プレゼンで饒舌に喋った僕が懇親会となると、途端に全く喋れなくなってしまう。相手から話しかけられても、とってつけたような会話になってしまう。けっして話したくないとか、懇親会がくだらないとか思っているわけではない。僕も皆のように仲良く和気あいあいと話したいのに、それが出来ないのだ。
どこそこのお店でパーティーがあるから行こう!と誘われて行っても、そこでの会話の輪に僕は入っていくことができない。もちろん行けば多少の会話はするけれど、少なくとも自分の中では、とってつけたような会話になってしまい、内心苦痛だ。だから基本的には押し黙ったまま、楽しそうに話す人たちを羨ましく眺めることになってしまう。

 

僕の場合、仕事や普段の生活をしていく上でのコミュニケーションに大きな支障を感じる事はないから、一般的にはコミュ障ではないだろう。でも、上に書いたような感覚があるから、人生の楽しみの一部を奪われているような感じで、自分ではコミュ障の一種だと思っている。

 

コミュ力を考える

コミュニケーション能力は仕事からプライベートまで、自分の人生の全てにおいて、大きな影響を及ぼすものであることは、多くの人が知るところだ。深刻に自分のコミュニケーション能力に悩んでいる人もいるだろう。個人的には昔から、これほど人生に大きな影響を与えるコミュニケーション能力、しいては人間関係を学ぶための授業が、なぜ、学校に用意されていないのか不思議に思ったりしている。

ここで、僕がパッと思いつくコミュニケーションに大切な要素を書いてみると

・愛そうも含めた表情
・相手の話をよく聞くことができる
・相手の真意を会話の文脈から推し量ることができる
・相手に合わせた伝え方ができる
・適切な話題をふれる
・会話のタイミング
・相手の感情や関心を推し量ることができる
・キャラにあったユーモア

なんてのが出てきたりするけど、一口にコミュニケーション能力と言っても、職種によって求められるコミュニケーション能力は違うだろうし、友達、対異性、パーティーの場等々でも、求められるコミュ力は変わってくるだろう。僕のように、ある部分に関してのコミュ力が著しく欠如してるなんてパターンもあるだろう。

shin MICの「思考と探求」では、人生に大きく影響を及ぼすコミュ力についても、深く考え、分析し、ディスカッションを行い、学びを得てもらう授業を提供していく予定だ。

 

高遠草(タカトウグサ)アキカラマツ

高遠草(タカトウグサ)| 知識の一般化を考える

家の近くに高遠草(タカトウグサ)が生えているのを見つけた。まだ色合いが新緑って感じで綺麗だったので写真を撮ってみた。それが上の写真だ。

高遠草(タカトウグサ)は長野県の高遠城下で腹痛の薬として伝承されてきたキンポウゲ科の多年草だ。正式名称をアキカラマツと言う。

子供の頃の思い出

個人的には高遠草には信仰に近い思い入れがある。

まだ小学校の低学年の時だったと思うが、ドブ川に落ちた際、その水をガブ飲みしてしまい、とんでもない腹痛に襲われ、下痢と嘔吐のヘビーローテーションに陥ってしまった事があった。

そんな経験はそれまでにも何回かあったが、病院でもらった薬を飲んで少し絶食すれば治っていた。それがこの時ばかりは数日しても全く回復する気配がなく、このまま何も食べる事が出来ずに衰弱して死んでしまうのではないと、僕はぼんやりと思っていた。

そんな様子を見かねたバアちゃんが「病院の薬が効かないみたいだから、ちょっと高遠草を飲んでみろ!」と、煎じたものを湯呑に入れて持ってきた。「うんと苦いけど我慢して飲め!この煎じたやつを丼で2杯も飲んだら赤痢だって治るから、きっと良くなる!」と煎じたものを部屋に置いていった。

しかし、その苦さたるや、当時の僕としては、今までに経験した事のない想像を絶する苦さで、結局、湯呑半分しか飲む事ができなかった。こんなもん丼で2杯って、飲まなかったら死ぬって状況でもない限り、飲めるもんじゃないと、当時思った事を憶えている。

そして、高遠草を飲んだ翌朝、あれだけ病院の薬を飲んでも収まる気配のなかった嘔吐がピタリと収まり、そのまま治ってしまったのだ。

それ以来、「いざという時は高遠草!」という信仰に近い感情を持ち、子供の頃は、毎年、高遠草を採っては干して、いつでも煎じて飲めるようにしていた。もっとも、子供の僕としては飲むのに決意がいるくらいの苦さだったから、結局、その後、高遠草を飲もうと思うほどの腹痛に襲われることはなかったのだけれど。

高遠草を煎じたもの

高遠草を煎じたもの

高遠草を乾燥させたもの

高遠草を乾燥させたもの

数年前のことだけれど、胃腸の調子悪さが続いた時があり、その時に高遠草を採取してきて干して飲んだことがあった。上の写真はその時のものだ。確かにかなりの苦さだけれど、子供の頃に感じた悶絶するような苦さではなかった。まあ、我慢して飲めるレベルだ。

飲んで1時間ほどで、ずっと動きの悪かった腸が動き出すのが感じられ、お腹の嫌な感じが引いてしまった。やはり、少なくとも僕には高遠草はよく効く。

高遠草

上にも書いたが、高遠草(タカトウグサ)は正式名称アキカラマツというキンポウゲ科の多年草で、長野県の高遠城下で何百年もの間、腹痛の薬として用いられてきたものだ。キンポウゲ科の植物は毒草が多いから、全国的には警戒されて薬草として用いられることはなかったようだ。高遠城下にだけ伝わる秘伝の薬って感じで、なんか萌える。

それが太平洋戦争のおり、国内に薬が不足し、当時の厚生省が国内に埋もれている薬資源の調査に乗り出して、初めて苦味健医薬として、取り上げられたんだそうだ。

今ではネットで検索すると、和漢薬として、けっこういいお値段で販売されたりしているから、薬草として知られ、その地位を確立しているってことだろう。

成熟したアキカラマツ

成熟した高遠草(アキカラマツ)

アキカラマツの花

高遠草(アキカラマツ)の花

知識の一般化を考える

仮に、高遠草が薬草としての地位を確立していない状態で、伝承だけを頼りに、僕が毒草だらけのキンポウゲ科の植物を煎じて飲んだなんて話を書くと、多くの人が「危ないことをする人だな」とか「チャレンジャーだな」といった感想を持つだろう。つまり、国に和漢薬として認められて初めて高遠草は、薬草であるという知識が一般化していると言える。

何百年もの間、高遠草はなぜ薬として高遠城下以外に広まらなかったのだろうか?

僕は様々な人に出会って話をした経験からも思うのだが、社会的にも有用だと思われる知識が、特定の個人や人々だけで共有されるにとどまり、一般化していないものは、案外、多いのではないかと感じている。

知識が一般化されるには、どのような経緯が必要なのだろうか?
知識が一般化されるには、どのような条件が必要なのだろうか?
一般化されていない有用だと思われる知識に出会った時、我々はどう判断し、行動すればよいのだろうか?

そんな事も、shin MICの思考と探求の授業では、様々な事例を取り上げて、考え、ディスカッションを行っていく。

現在、無料体験授業を毎週月曜日の19時から行っているので、是非、気軽に参加していただければと思う。

徳川宗春

徳川宗春とデフレを止めようとしない日本

もう1年以上前のような気がするけど、現在のshin MICの相棒から「たぶん気に入ると思う!」と、“しなのユーキ”さんの音楽CDをプレゼントしてもらった。

CDの最初の曲が「松本城初代城主・石川数正」だ。なんとも面白い曲で、相棒が言った通り、結構、気に入ってしまった。他にも、「中央西線」とか「名古屋の和菓子」など、松本市から名古屋市にかけて歴史上の人物や、名産品を、面白おかしい感じの歌にしていて、一時期、車の中でヘビーローテーション状態だったのだ。笑

このCDに収録されていた曲の中に上の動画で“しなのユーキ”さんが歌っている「尾張七代藩主・徳川宗春」もあった。曲の中で「名古屋に繁栄をもたらしたお殿様」と歌われている。当時、京、大坂、江戸の大きな都市に比べたら、名古屋(尾張)は村のような存在だった。「尾張名古屋は城でもつ」なんていう言葉があるくらい、城以外は大したものが無いような場所だったのだ。そんな名古屋を現在まで続く大きな都市となる繁栄の元を作ったお殿様が徳川宗春だ。

当時は徳川吉宗の享保の改革の真っ最中で、質素倹約が是とされ、徹底した緊縮財政と増税が行われていた。これをやれば、当然のことながら庶民の元気が無くなってくる。そんな中、尾張藩主の宗春は、名古屋で規制緩和と大きな財政出動を行い、名古屋だけが活気づき、全国から人が流入し繫栄することになる。宗春の政策は緊縮財政の公儀の方針に逆行するものだから、当然、公儀に疎まれ、やがて蟄居させられてしまう。

享保の改革を行った徳川吉宗は名君と称されるが、享保の改革は緊縮財政と増税がセットになっており、あくまでも幕府のための改革であって、そのつけを庶民が払わされるものではなかったかと僕は感じてしまう。それに対して徳川宗春の政策は、あくまでも庶民の繁栄を考えたものだったのではないかと僕は思ったりする。

徳川宗春

Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

財政赤字と緊縮財政

財政赤字を解消するために緊縮財政と増税を行った享保の改革と同じように、現代の日本でも巨額の財政赤字をなんとかしなければいけないと、長いこと、緊縮財政と増税の路線がとられてきている。

マスコミなどでも「国の借金が・・・」「国民一人頭・・・」といった表現がされ、国がそんな状況であれば、次の世代が払わされるツケを減らすためにも増税も仕方ないという風潮が生まれたりする。しかし、そもそも財政赤字は国の借金ではなく政府の借金だ。だから我々国民が返済するものではなく、政府が返済すべきものだ。そして政府が返済する際も、増税しなくとも、日銀に通貨発行させて国債を買い取らせればいい。日銀は政府の子会社みたいなもんだから、連結決算で政府の借金は消えるわけだ。こう言うと、そんなことをしたらハイパーインフレを引き起こすという人もいるけれど、既に日銀は異次元緩和の名の元に巨額の国債の買取を行っている。これだけ巨額の買取をしても、ハイパーインフレどころか、相変わらずデフレなのだから、素人感覚ではハイパーインフレの心配など無用だと思うのだ。

緊縮財政の名の下に、無駄をなくそう!と、道路やダムなど様々な公共投資が無駄とされ、削られ続けてきた。しかし財政赤字を膨らませてきたのは公共投資ではない。なぜなら財政赤字を膨らませたのは赤字国債と言われる特例公債だからだ。公共投資は建設国債でなければ出来ない。そして建設国債の発行は増えていないからだ。まともに公共投資をしなくなったおかげでに日本のインフラは劣化し、もはや先進国と言えるのか?というところまで来てしまった気がする。お金は発行できるけど、インフラ等の資本の蓄積は一朝一夕にはできない。今の日本は緊縮財政の名の下に、過去の資本を食いつぶし、未来へ資本を残さないように、20年以上、走り続けてきてしまったのかもしれない。

GDPとデフレ

日銀に国債を買い取ってもらった一般銀行は、そのお金をどうするのだろうか?おそらくは、そのお金でまた国債を買うものと考えられる。そもそも銀行の基本的なビジネスモデルはお金を貸して金利を得ることだ。だから貸さなければ始まらない。本来なら企業の設備投資など民間に貸し出したいところだが、デフレ下では、企業も設備投資など積極的にやるところはないため、結局、政府に貸し出すしかなくなってしまっている状態だろう。

GDPはモノやサービスが生み出されなければ上がらないから、これではいくら日銀がお金をばらまいてもGDPには関係がない。一般銀行が民間に貸し出せば、設備投資等に使われるからGDPの数値が上がることになるけれど、デフレで需要がないから借りてくれないわけだ。

日本のGDPの成長率は他の先進国に比べても極めて低い。かつて世界第二位の経済規模を誇った日本は現在では第三位で第二位の中国との差は大きく開いていくばかりだ。このままいくと、近い将来、大国としての地位を失うことになるだろう。GDPはいわば国力であり、その成長率を保つことはとても重要だ。

GDPの成長率が落ちてしまったのは、少子高齢化と人口減少によるものとよく解説されるが、日本よりも人口減少が激しくともGDPの成長率を高く保っている国もある。この20年、仮に日本のGDPの成長率が他の先進国並みだったならば、高齢化による医療費の増加分も税収の伸びによって、ある程度は賄えた可能性がある。人口減少は何も日本に限ったことではない。にもかかわらず他の先進国に比べ日本だけがGDPの成長率が低いわけだから、人口減少だから仕方ないと思考停止に陥るのではなく、その原因をよく考えてみる必要があるだろう。

先日、コロナ対策の予算のうち約30兆円を使い残したという驚くべき記事を目にした。使い残した30兆円をもしそのまま使っていたなら、それはそのままGDPを押し上げてくれる。仮に本当にコロナ対策にもう使う必要がなかったなら、あと2回給付金を配布したって、その多くはGDPを押し上げることになっただろう。日経の記事によると日本がコロナ対策に使ったのはGDP比7%どまりであったのに対し、米国はGDP比13%だったそうだ。もう、こうなると政府がGDPを成長させずに国力を削ぐ方向で政策をすすめているとしか思えないくらいだ。とにかく今の日本は緊縮財政路線のもと、何が何でも財政出動を抑えようとしているのだろう。

GDPの成長率が上がるということは、それだけ新たにモノやサービスが生み出されることであり、需要が増えるわけだからデフレは解消されていく。日本がデフレから抜け出し成長路線に戻る為には、徳川宗春ではないけれど、財政出動を増やすことだ。必要な道路や港湾整備など公共投資を増やせばいい。それはそのままGDPを引き上げるし、玉突きで別の需要を作り出す。さらにそれは資本の蓄積として未来へも受け継がれるものだ。

個人的には、このまま緊縮財政を続けていたら亡国の危機がやがて訪れるのではないかと危機感さえもっている。

デフレを止めようとしない日本

米国は既に大規模かつ長期間に及ぶ公共投資を行う方向に舵を切ってきているし、このまま日本が緊縮財政を続けていたなら本当に衰退国になってしまうような気がする。

国会議員の中にも財政出動の拡大や消費税減税といった考えを持つ人も、増えてはきているみたいだが、まだ暫くは緊縮財政路線は続くのだろう。僕はかたくなに緊縮財政と増税路線を取り続ける政府によってデフレが引き起こされていると感じてしまう。つまり日本はデフレから抜け出れないのではなく、デフレを止めようとしていないのだ。

緊縮財政を続けて誰が得をするのかと言えば、増税や予算を削ることによって出世ができる財務省のお役人さんたちくらいではないかと思う。そのお役人さんたち個々の出世欲が大きな流れになって、日本は長く停滞してしまったのかもしれない。

でも、組織やそこに属する人の面子や保身などから国を巻き込む大きな流れが出来てしまう事は歴史的にも多いことなんじゃないかと思う。

自分で調べ考えることの大切さ

実は僕は20年くらい前は、「国の借金」「財政破綻」「ハイパーインフレ」といったような言葉から、緊縮財政や増税路線を支持していた。でも、折に触れて違和感を感じ、調べ考える中で、現在では上に書いたような考え方をしている。もちろん僕は経済の専門家ではないから、上に書いたことも専門家から見れば的外れなこともあるかもしれない。でも大切なのは、疑問を持ち、自分で調べ考えてみる事だ。

プロバガンダが特にそうだけれど、人は言葉が運んでくるイメージをそのまま受け取ってしまいやすい。そのまま判断してしまうのではなく、自分で調べ、自分の頭で考える事だ。それを繰り返すことによって、自分自身の知識も増えるし、物事の判断の仕方を変わってくる。だから何事も、すぐに思考停止に陥るのではなく、調べ考えることを大切にしたいと思っている。

ちなみに徳川宗春は、減税と財政出動により最終的に藩の財政難を招いた(米本位制の当時と管理通貨制度の現在の単純比較はできないと思う)が、名古屋という大きな資本を後世に残した。我々も次の世代に残すべきは単なるお金ではなく資本だと思うのだ。

と・く・が・わ むねはる♪ とくがわ むねはる♪

新型コロナワクチン

新型コロナワクチンとジェンナー | ファイザー・モデルナ・アストラゼネカ

僕の所にはまだ新型コロナワクチン接種の通知は届いてないが、周囲の人には、結構届き始めている。ちなみに母は先日、第1回目の接種が終わったところだ。今朝、たまたまつけていたテレビからは、ワクチン接種を受けたくないと言っている人は若者に多いなんてニュースが流れていた。

僕は成人してから予防接種は記憶にある限り2回しか受けていない。昨年まで4年間勤めた学校で受けたインフルエンザ予防接種の2回だけだ。中学時代にインフルエンザ予防接種後、左腕が腫れ、腫れが引いた後も1年間くらい左腕全体の皮膚が突っ張る感じで、腕を曲げたりすると痛みが走る状態が続いた。それ以来、予防接種というものに感情的な抵抗感が出来てしまったわけだ。だから新型コロナワクチンも出来る事なら打ちたくないってのが感情的な本音だ。(^^;

 

ワクチンとは

ワクチンとは病原体の侵入と攻撃に備えて、予めそれに対する免疫を獲得させるための薬だ。そしてワクチンには以下のようにいくつかのタイプがある。

1.生ワクチン

病原体そのものを、病気を発症しないように弱毒化させ投与する。病原体を投与するから、感染するリスクのあるワクチンだ。BCG、麻疹・風疹混合 (MR)、麻疹 (はしか)、風疹、水痘(水ぼうそう)、おたふくかぜなんかが、生ワクチンだ。もし今回の新型コロナのワクチンがこのタイプだったなら恐怖感から、もっと拒絶感を示す人が増えたのかもしれない。

2.不活化ワクチン

感染しないように「殺した状態」の病原体を投与する。生ワクチンに比べて獲得される免疫力が弱いため、複数回接種が必要になってくるものが多いタイプだ。ポリオ、日本脳炎、インフルエンザなんかがこのタイプのワクチンだ。

3.組換えワクチン

病原体の成分の一部を投与する。このワクチンも獲得される免疫力が弱いため、複数回接種が必要になってくるものが多い。帯状疱疹、B型肝炎、破傷風、百日咳なんかがこのタイプだ。

4.ウイルスベクターワクチン

病原体の設計図を別の人体に無害なウイルス(ベクター)に乗せて投与する。エボラ出血熱のワクチンがこのタイプのようだ。

5.DNAワクチン

病原体の設計図の一部をDNAに乗せて投与する。

6.mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチン

病原体の設計図の一部をmRNAに乗せて投与する。

 

新型コロナワクチン

ファイザーとモデルナの新型コロナワクチンは、上のmRNAワクチンであり、アストロゼネカはウイルスベクターワクチンだ。つまり現在日本で承認されている新型コロナワクチンはmRNAワクチンとウイルスベクターワクチンに分けられる。ちなみに中国のシノバック製の新型コロナワクチンは不活化ワクチンだ。

mRNAワクチンとウイルスベクターワクチンは最新技術であり、今回の新型コロナワクチン以前ではmRNAワクチンで承認されたものはないし、ウイルスベクターワクチンもエボラウイルスに対してのものだけだ。

現在、日本で接種が始まっている新型コロナワクチンはmRNAワクチンということになる。新型コロナウイルスの表面には、「スパイクタンパク質」と呼ばれる突起があり、これが人間の細胞表面のタンパク質と結合する。これが新型コロナ感染の条件になるから、mRNAワクチンは、これを阻害するのが目的だ。mRNAワクチンにはスパイクタンパク質の設計図が含まれていて、これを投与されると、細胞に到達したmRNAから細胞はスパイクタンパク質を生成する。これを免疫細胞が認識、記憶して、中和抗体を作り出すことによって免疫を獲得するという仕組みのようだ。上に書いた従来の組み換えワクチンでは工場で作っていたタンパク質を投与していたわけだけど、mRNAワクチンでは、その設計図だけを体内に入れ、タンパク質そのものはヒトの体に作らせる仕組みだから、凄い技術だ。ていうか、ヒトの体って凄い!

ワクチンのmRNAはスパイクタンパク質の情報だけだから、新型コロナそのものの情報は含まれていないわけで、感染したり、ウイルスの遺伝情報が体内に取り込まれることは有り得ない。またmRNAは核内には入らないから、ヒトの遺伝情報に組み込まれることもないし、mRNAは細胞に取り込まれてから20分以内に全て分解され、作り出されたタンパク質も10日以内に全て分解されるそうだ。つまり新型コロナワクチンの仕組みは、素人感覚でも、これまで我々が接種してきている既存のワクチンに比べ、安全性が高いと感じられる。

 

新型コロナワクチンとジェンナー

ワクチンと言えば、僕は真っ先に近代免疫学の父と呼ばれるエドワード・ジェンナーが頭に浮かんでくる。天然痘予防に種痘を開発した人物だ。ジェンナーは牛痘に感染した人は天然痘にかからないという農民の話から、牛痘接種を思いつく。牛痘はヒトの天然痘と違って、感染しても死亡率の低い病気だったようだ。僕が子供のころ読んだ本にジェンナーが自分の息子に牛痘接種を試している挿絵が出ていて、なぜかその印象が強烈で、その絵を未だに覚えている。しかし、実際は、ジェンナーが牛痘接種を最初に試した少年は、どうやら、実の息子ではなかったらしい。いずれにしてもジェンナーから始まる種痘によって我々人類は天然痘を克服したのは確かだ。

 

牛痘接種の風刺絵
James Gillray, Public domain, via Wikimedia Commons

 

上の絵はウィキペディアに出ていたものだが、1802年当時の風刺画だ。種痘を受けた人の体から牛が生えたり、角が生えたりしている。人は未知なるものに恐怖感を抱くから、ワクチンの概念が現在のように行き渡っていない当時であれば、牛由来のものを人体に打つわけだから、こんなデマが横行したって不思議ではない。恐怖感があると人は感情的なバイアスがかかりやすくなるのだ。

新型コロナワクチンに関しても、不妊になるとか、マグネットがくっつく体になるとか、様々なデマが飛び交っている。そういった中、ワクチン接種に対して抗議する人たちもいる。厚生労働省が発表している資料でも、ワクチン接種後に亡くなっている人がそれなりの割合で存在している。もちろん、厚生労働省は死因にワクチン接種との因果関係はないとしている。上に書いたmRNAワクチンの仕組みから考えれば、因果関係はないと考える方が自然だ。しかし、冒頭で書いたように予防接種そのものに感情的な抵抗感ができてしまっている僕は、それでも、やっぱり、なんかあるんじゃないの!?と考えたくなる。ましてや、ワクチンの仕組みを理解していない状態で、ワクチン接種に感情的な抵抗がある人ならば、デマに飛びつきたくなるのは、ごくごく自然なことだと思われる。

凄まじく技術が進歩し、情報も得やすい時代になった現在も、人の本質はジェンナーの種痘が始まった頃と何も変わっていないと言っていいのかもしれない。

我々の思考や判断は、感情や権威から多大な影響を受け、バイアスがかかりやすい。新型コロナワクチン接種のデマや自分自身のことを考えてみると、未知なるものの恐怖感がある時の感情によるバイアスは本当に大きいと思う。今後、ますます技術は進歩し世の中が変化していく中で、自分自身の思考や判断が何に影響を受けやすいかを自覚した上で、情報収集し、考える力はますます重要になってくると僕は考えている。

SHIN MICではディスカッションを通して、そういった力を養う事を大切に考えている。