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永田鉄山 | 歴史の「もしも」を考える事

Jun 1, 2021 学びの種
永田鉄山

昨日、たまたま永田鉄山が長野県の出身であることを知った。近現代史に詳しい人なら、今さら何をって話だろうけれど、東条英機や石原莞爾の名前は知っていても永田鉄山の名前を知らない人はけっこう多いんじゃないだろうか。

以下はウィキペディアからの抜粋だ。

永田 鉄山(ながた てつざん、1884年(明治17年)1月14日 – 1935年(昭和10年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業したのち参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だったが、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害された。

ウィキペディア

僕が中学・高校の頃は、学校では近現代史は、簡単にしかやらなかったから、僕が永田鉄山を知ったのは大人になってからだ。きっかけは2.26事件を描いた映画226を見たことだった。この映画の中で繰り返し歌われていたのが「昭和維新の歌」だ。僕が当時、通った高校では、入学すると新入生全員に、校歌や応援歌が掲載された歌集が配られた。この歌集には校歌や応援歌以外にも、旧制高等学校寮歌や民謡まで掲載されていたが、その中に「青年日本の歌」という題名で「昭和維新の歌」も掲載されていた。それが映画の中で繰り返し歌われていたから、高校時代なんとなく眺めていた歌詞の歌がどういう歌なんだろう?という疑問から、二・二六事件を初めて詳しく調べ、その過程で永田鉄山という人物を知ったわけだ。

「昭和維新の歌」は昭和5年5月、当時24歳だった三上卓海軍少尉が作詞したものだ。歌詞の内容は今現在の日本にも当てはまる部分があり、屈原の楚辞を知らなければ、冒頭の歌詞から意味が分からないから、教養も織り込まれた、なかなか素晴らしい歌詞だ。この歌は昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いでいる。現在では軍歌というジャンルに入れられているが、作詞された経緯や内容的にも軍歌とは、ちょっと違うんじゃないかと僕は思っている。以下にその歌詞を掲載しておくので、読んでみて欲しい。

昭和維新の歌
作詞・作曲:三上 卓

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし

三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花

五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐

八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや

九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

この歌詞からは当時の社会への不満や憤りと共に何とかしなければという思いが伝わってくる。2.26事件を引き起こした青年将校たちは、純粋にこういった思いを抱いていたのではないかと思うが、2.26事件を調べると、すぐに分かるのが、当時の陸軍内の皇道派と統制派という派閥の争いが事件のベースにあることが分かる。2.26事件の青年将校は皇道派に属しており、永田鉄山は統制派の中心人物だ。

永田鉄山が陸軍省軍務局長に就任してから、皇道派は陸軍の中心から追いやられていく。そんな中、皇道派の相沢中佐が陸軍省を訪れ、白昼に永田鉄山を斬殺するという事件が起きる。この斬殺事件が、その後の2.26事件に繋がっていく。

経緯を恐ろしくザックリ書いたけれど、この辺りの事に興味のある人は是非、調べてみて欲しい。

僕は映画226から入ったから、皇道派の青年将校に同情的な感情があったのと、永田鉄山は満州事変を支援し、「国家総力戦」「国家総動員体制」づくりを進めた中心人物だし、永田鉄山に対して、あまりいいイメージを抱かなかった。満州事変は泥沼の日中戦争から対米戦争に繋がっていくし、国家総力戦、国家総動員体制は、あの戦争で国民に塗炭の苦しみを味合わせたからだ。

しかし永田鉄山について調べていくと、しばしば「もし永田鉄山が生きていたら、太平洋戦争は回避できたのではないか?!」という意見を目にする。

当時の陸軍の軍人で名前の頭に「天才」の2文字をつけられるのは、満州事変を主導した石原莞爾と永田鉄山くらいだろう。永田鉄山が生きていれば東条英機が歴史の表舞台に出てくることはなかったと言われるくらいだから、凄まじく頭の切れる人だったのだろう。軍隊の存在価値は戦争回避にあるというのが永田鉄山の考えだったようだし、国家総動員体制もその後の歴史から我々がイメージする国民を戦争に引きずり込むような概念とは別のものが彼の頭の中にあったのかもしれない。満州事変を主導した石原莞爾は最終的にアメリカとの戦争を見据えながら、中国と連携する必要性を感じており、日中戦争には反対の立場だったと思われる。満州事変は彼の中では何手先も考えた布石だったのだろうけれど、現実は、その反対へと動いて行ってしまったわけだ。

石原莞爾はその言動や行動から、僕は天才肌の組織の型にはまらない癖の強い人だったのではないかと思う。それに対して東条英機は典型的な組織人だったのではないかと思われる。石原莞爾と東条英機は水と油で、仲がよろしくなく、東条英機が実権を握ったあとは石原莞爾は陸軍を追われていき、太平洋戦争時には完全に蚊帳の外だ。

永田鉄山は頭が切れ、政界、官界、経済界に幅広い人脈を持ち、人望も厚かったようだ。少なくとも東条英機は永田鉄山のことをめちゃんこ尊敬していたらしいから、もし生きていれば、東条英機と石原莞爾の2人をうまく使ったのかもしれない。

歴史の「もしも」を考える事

「もし永田鉄山が生きていたら、太平洋戦争は回避できたのではないか?!」

永田鉄山は合理的な人だったようだし、日露戦争の成功体験から抜け出れない陸軍を刷新し、変革を行うという実行力もあった。そんな彼だから、対米戦争の勝ち目が見出せなければ、そのスーパーな頭脳と人脈を駆使して戦争回避に全力を尽くしたかもしれない。しかし、実際の歴史では彼が引いたレールは陸軍暴走へと繋がっていったわけだから、果たして回避なんてできたんだろうか?

この「もしも」を真剣に考えようとすると、当時の世界情勢と日本の置かれていた状況、日本の社会状況、経済、国民感情、軍や政界中央部にいた人物それぞれの生い立ちや性格と思想、世界や日本の当時の感覚等々、膨大な情報が必要になってくる。

そして、我々一般人はとかく歴史を現代の感覚で考えてしまいがちだが、当時の感覚を理解できなければ、その当時の人の言動や行動の意味を正確に理解することができない。そういった感覚や感情を理解するためには、さらに膨大な周辺情報が必要になってくる。

「歴史にもしもはない」

なんて、よく言われるけれど、それは「もし、こうだったら良かったのに!」と考える事であって、真剣に歴史の「もしも」を考える事は、集めた情報から様々なケースを考えることになり、自分なりに歴史認識を深められると思うのだ。

「もし織田信長が生きていたら」

とか、そんなことを情報を集めて自分なりに真剣に考えてみるのは、それなりに知識も増えるし、けっこう楽しい。もちろん僕らは歴史学者ではないから、それを論文に書く必要もないし、完璧な情報や論理を持ち込まなくても、楽しみながら自分なりに歴史認識を深められれば、それでいいと思うのだ。

今、大河ドラマでやってる渋沢栄一の「もしも」だっていい。それを考えるために、調べ、自分自身で考えることによって、必ず新たな知識や考え方が入ってくる。それは自分自身を豊かにしていくものだ。

歴史の「もしも」を考えて楽しんでみて欲しい。

YUICHI KOBAYASHI

YUICHI KOBAYASHI

ちょっとした意識の持ち方で自分の世界は大きく広がります。人生を豊かにする楽しい学びをしていきましょう!!

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