僕は温泉好きの友人と毎月何回か葛温泉の高瀬館の露天風呂に浸かりに行っている。
高瀬館のお湯は比較的熱めで、源泉掛け流しの露天風呂も広々と開放感があって、熱めの風呂好きの僕としては、お気に入りの温泉だ。
お湯は熱めだけど、行くたびにお湯の温度が体感では微妙に違う気がする。けっこう熱いと思う時もあれば、ぬるめだと感じる時もある。それが、ちょうど2週間ほど前に行った時のことだけれど、これ以上ないというくらいに熱かった。ここまで熱かったのは僕的にはここ10年で初めての経験だ。最初、足先を入れた段階で、マジか!と思う熱さで、その後、う~アツ~と叫びながら、友人と少しずつ体をお湯に沈めた。いったん体をお湯に沈めてしまえば、なんとか入っていられる。ここまでは、冬場に冷え切った体で最初お風呂に浸かるときの反応と似た感じだ。冬場のお風呂の場合は、いったん浸かってしまえば、あとは特に熱いと思う事もなく、普通に入っていられる。
ところが、この日は少し違った。いったん浸かってしまえば入ってはいられるのだが、身動きせずに浸かっている分には、なんとかいいのだけれど、お湯の中で、少し手や足を動かすと、動かした部分が、めちゃんこ熱いのだ。そして、お湯の中を歩くと足の甲が、熱いを通り越してひり付く感じだった。実際に、出たあと1時間くらいは、足の甲が少しヒリヒリする感じだった。
友人とは、普段の倍は熱いんじゃないかとか、摂氏何℃くらいだろうか?と話しながら、その熱さに子供のように盛り上がった。風呂としてはどうかって感じだったけれど、あまりの熱さにはしゃいでイベント的で愉快な風呂だった。(^^)
この日の温泉で、少し動くと、その部分がなぜめちゃんこ熱かったのか考えてみた。
その原因はおそらく流体である水と体の間にできる温度境界層ではないかと想像してみたりする。熱いお湯より温度の低い体によって、体の周囲のお湯は少し冷やされる。これが体全体を膜のように覆って、それほど熱く感じなくなる。ところが動くと、動いた部分ではこの膜が破れ、さらに対流熱伝達の影響もあって一気に熱が体に伝わり、めちゃんこ熱く感じたってことではないだろうか。特に、お湯の中を歩くという行為によって、一番動きが激しかった足の甲がひり付くほどの影響を受けたと想像している。
ほんとに熱いお湯だったので、友人は60℃くらいあるんじゃないかと言っていたが、僕はせいぜい52℃くらいじゃないかと主張した。なぜなら60℃もあれば、10秒ちょっとで火傷するわけで、いくら温度境界層があるからといっても1分も浸かっていられるわけがないと思うからだ。ところがサウナでは80~100℃の中に長時間いることができる。これは水と空気の熱伝導率と熱容量の違いによるものだ。つまり、水より空気の方が我々の体に熱を伝えにくいってことだ。でも、サウナでサーキュレーターを使って熱風を体に当てれば、対流熱伝達の向上によって、あっという間に火傷するだろう。今回の足の甲がひり付いたのも、これが原因だろう。
普段の倍くらい熱いと感じたお湯だったが、計ったわけではないけれど、おそらく、せいぜい10℃くらいの違いだろう。10℃って大した違いじゃないようだけれど、体感では、とんでもない違いだ。それなら、普段のお風呂の温度を42℃として、その倍の温度は何度だろうか?お風呂の温度としては、この時の体感ではおそらく52℃で倍だ。でも摂氏なら84℃ということになる。
そもそも熱とは何かって話だけれど、物理学的には分子の熱運動の運動エネルギーだ。この運動エネルギーがゼロになるのが、絶対零度と言われる摂氏マイナス273.15℃だ。物理学ではこのマイナス273.15℃を0としてケルビンという単位を使う。遥か昔の中学だか高校の物理だ。笑
摂氏よりもケルビンの方が、温度というものを物理的にはより的確に捉えている。そのケルビンで考えるならば、42℃は315.15ケルビンであり、その倍は630.3ケルビンだから、そこから273.15を引くと、摂氏357.15℃となる。この357.15℃が42℃の倍の温度ということになる。まあ体感では数十倍、数百倍って感じじゃないだろうか。
風呂の熱さ42℃の倍の熱さは何度かと聞かれ、84℃と答えれば、物理学の分子の運動量で熱を捉えている人は笑うかもしれないし、我々のように風呂に入っていた人間にすれば、アホか!死んでまうは!って話になる。物理学的には357.15℃が正解だろうし、日常的には84℃の方が正解のような気がする。そして体感になると、ここに熱伝導率や熱容量、対流熱伝達といったものが絡んでくる。さらには個々人の感覚の違いだったり、その日の気分や天候など様々なものが関係してきて、とても複雑な話になってくる。
しかも、その複雑な体感ってやつはとても大事だ。例えば経済指標的に景気が良いと判断されても、我々の体感的に景気が悪ければ、どうしようもないし、いくら高速処理ができるCPUを積んだパソコンでも、体感的に遅ければ、やはり良いPC環境とは言えない。
今回の風呂の熱さの例ように、熱さという単純なものをとっても様々な側面がある。これが一般社会の出来事になれば人間の個々の複雑な感覚がさらに多数絡み合ったものになってくるから、おそろしく様々な側面が出てくるはずだ。倍の風呂の熱さは、52℃であり、84℃であり、357.15℃だ。どれも正しく、どれも間違いと言える。
ところが人は一つの側面から主張を始めると、やがてそれが信念となり他の側面を見ようとしなくなる傾向がある。357.15℃は物理学的客観性をもった数値だから、こういったものは信念をもって主張されやすい。しかし、風呂の熱さを倍にしようといった時、これは明らかに間違いだ。357.15℃の風呂は馬鹿げてるから、誰でもわかる。しかし、一般社会は側面としてはとても複雑だから、ある側面からだけ主張がなされ、そして、それが行われてしまうことが多々あるのだ。
一つのことにも様々な側面があり、それぞれの側面で主張は変わってくる。そのそれぞれの主張にはそれぞれの正しさがあり、それぞれの間違いがあることを認識して考える事が大切だ。実はこれは、かなり難しい。できると思っている人でも、僕も含め、ほとんどの人が出来ない。ひとたび信念を持ってしまえば、バイアスにより他の主張の正しさが見えにくくなり、間違いばかりに目がいくようになるからだ。逆に自分の信念の正しさがクローズアップされ、間違いは矮小化される。これにより対立が生まれていく。
SHIN MICの思考と探求の教室やオンラインレッスンでは、様々な分野の様々な材料を取り上げて、究極的には、自分と対立する主張にも、それぞれの正しさがあること、自分の主張にも間違いがあることを認め、そこから、建設的により良い方向を考えられる姿勢を共に身に付けていきたいと思う。
激アツ露天風呂から、熱量やら化学的な
探究につながる
人間どんな事でも深く掘り下げていけば
意外な学びになるもんだ
もちろん物理学的な方向を深堀りするれば、激アツ露天風呂の問題は、大学レベルの本格的な物理学になって来るんじゃないかと思います。
もう一つは熱の捉え方をどう捉えるかという視点になります。熱も物理学的な捉え方以外に、普段、我々は様々な捉え方を無意識のうちにしていると思います。本格的に物理学を考えなくても、様々な側面があることに気づき、それについて考えてみるっていう意識が大事なんじゃないかと思います。
身の周りのことから、多くの学びを得られることに気づいていただけたのは、とても嬉しく感じます。(^^)