僕が安曇野の風景写真をSNSに投稿すると、とにかく、みなさんに褒めていただける。投稿するたびに「素晴らしい」「綺麗」「癒される」といったコメントを沢山いただく。もちろん、これはとても嬉しい事だから、また撮って投稿するということを繰り返している。
そうこうしているうちに、カメラマンの方からメッセージをいただくようになった。「どういう設定で撮っているのか?」とか「機材は何を使っているのか?」といった質問がやってくるのだけれど、僕は、スマートフォンでしか写真を撮らないし、カメラの知識が皆無だから、聞かれていることがチンプンカンプンで、いつも知識が無い事をお話して「お役に立てずにすいません。」と返信させてもらっている。さらに一時期は「出されている写真集の名前を教えてもらえますか?」といった、完全に僕をプロカメラマンと勘違いしているメッセージまで、ちょくちょく届いていた。
下は最近SNSに投稿した写真だ。




今までに何回も、行政やメディア、旅行サイトなどから写真を使わせてもらえないかという問い合わせもいただいているし、アーティストの作品の販売サイトから、写真を掲載しないかというお誘いまでいただいたこともあった。
こういったお話をいただくと、とりあえず嬉しいのだけれど、いつも思うのが、カメラマンさんがちゃんとした機材を使って撮った同じような風景の綺麗な写真が世の中にはたくさんあるのに、なぜに、素人のスマホ写真?という疑問だ。
僕は芸術的センスはいたって乏しいし、そもそも写真を撮るのが、嫌いではないけれど、好きなわけではない。自分が綺麗だと思った風景を写真に撮ってSNSに投稿すると、同じように綺麗だと共感してくれる人がいるから、それが嬉しくて撮っているだけだ。だから僕の写真の何がいいのかが、自分ではよく分からないのだ。
安曇野は綺麗な風景が多い場所だから、単純に元の風景が綺麗だから、みなが褒めてくれると思っていたのだけれど、やがて、それプラス僕の写真そのものを褒めてくれていることが分かってきた。
下は昨日、海外の方が僕のFacebookに投稿した写真に残してくれたコメントだ。
Your photography always give a strong sense of positive energy and gentle touch of gratitude. I appreciate very much.
The real meaning of photography is to inspire and to feel how good life is.
なかなか、深い意味の事を書いてくれていて、ありがたい限りだ。そう言えば、僕の投稿写真の事を「小林ワールド」って表現する人もいるから、僕の写真独特の何か感じるものがあるのかもしれない。
マルセル・デュシャン

Marcel Duchamp, パブリック・ドメイン, via Wikimedia Commons
この写真は、マルセル・デュシャンの「泉(Fountain)」という作品で、セラミック製の男性用小便器に「R.Mutt」というサインと年号が書かれだけのものだ。これをマルセル・デュシャンは作品展に出品し物議を醸した。
近代美術から現代美術、ヨーロッパ近代芸術からアメリカ現代美術、視覚的な芸術から観念的な芸術へと価値観が移行するターニングポイントとなる作品である。それゆえ作者のマルセル・デュシャンは「現代美術の父」「ダダイズムの父」とみなされている。
マルセル・デュシャンは、この作品によって芸術という概念自体に革命を起こした現代に続くコンセプチュアルアートの創始者であり、その影響力はピカソを上回ると言われている。
小便器にサインと年号を書き入れたところで、小便器は小便器だ。でも、これが美術館に展示されていたら、鑑賞者は「なぜ、これが美術作品なのか?」と頭の中が「???」だらけにはるはずだ。
つまり、芸術は目の前にある作品という概念から、その作品を元に鑑賞者の頭の中で完成するのが芸術ではないのか!
という問題提起をした作品ってことだ。
僕はいたって芸術には疎いのだけれど、この頭の中で完成するのが芸術!ってのは、なんとなく分かる気がする。芸術に疎いから、僕は美術館に入って作品を見ても、きれいな絵だな!くらいで、スーッと1周して出てきてしまう。ところが、その作家の生き様や、その作品にかけた執念だったりを知ると、その作品の前に佇み、作品からエネルギーを受けることが出来るからだ。
まあ、コンセプチュアルアートの概念はきっと、もっと深いものだろうし、やはり、壁にダクトテープでバナナを貼り付けただけの作品に1,600万円もの値がついたりするコンセプチュアルアートの世界は、僕には、今一つ分からないのだけれど。
僕のスマホ写真
ここで僕のスマホ写真に話を戻すと、写真を褒めてもらっているのはSNS上だ。つまり、写真を投稿する際には、必ず何かしらのコメントをつけて投稿しているわけだ。時には安曇野の紹介をすることもあるし、自分自身の思いや出来事を書いて投稿することもある。さらには、投稿にコメントが書かれれば、それに対して返信をするから、やり取りが生まれる。
つまり、僕の写真を見てくれてる人は、写真以外に多くの情報を受け取っているわけだ。そんな中で、投稿している僕という人物のイメージも頭の中に出来てるだろうし、僕の思いなんかも感じ取り、無意識のうちに、そんなものを写真に重ね合わせて見ているのではないかと考えてみたりする。だから、コンセプチュアルアートの考え方でいくと、僕のスマホ写真は、そこを元に、安曇野や僕自身のイメージとともに、見てくれている人の頭の中で作品として完成されているということではないだろうか。
だとするならば、僕のスマホ写真はやはり写真そのものよりも、そこを起点にして頭の中で作品として完成させるための情報提供がうまくいっているから、いい写真だと感じてもらえているのかもしれない。
そう考えると、写真そのものよりも、投稿する時に何気なく書いている文章が、より大きな役割をになっているのかもしれない。この事は、芸術分野だけでなく、マーケティングや自分自身の見せ方など、多くの場面で考えてみる価値のあることだろう。
春の安曇野で“ばえる”スマホ風景写真-ワークショップでは、SNS映えするという点も考えて、そんなところまで話を広げて、皆さんと一緒に写真を撮りながら歩いてみたいと考えている。