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Archive: 2021年4月26日

SHIN MIC 入口

Front Door

Hello everyone!
We are continuing to make adjustments to our office and classroom to be able to welcome new students starting June 1st.

We needed to put a front sign to make it easier for people to find the place, so we did look up several DIY ideas for standing signboards, but none seemed eye-catching enough, so we decided to draw it on the front door of the building!

Did you know that it is safe to use water-based markers to draw on glass doors and windows?
That is because you can easily wipe water based paint out of impermeable surfaces like glass.
(When it comes to porous surfaces it becomes a little trickier).

Anyhow, we went ahead and decorated the front door as you can see in the picture.

You can find us on the third floor of the building, if you are interested in our classes please come and visit us!

Our office hour is on Mondays 19:00 – 20:00.

adjustments 調整
front sign 看板
standing signboard 立て看板
eye-catching 目を引く 形容詞
water-based markers 水性マーカー
impermeable 不透過性
porous 多孔質
tricky ややこしい

激アツ露天風呂はどのくらい熱かったのか?

僕は温泉好きの友人と毎月何回か葛温泉の高瀬館の露天風呂に浸かりに行っている。
高瀬館のお湯は比較的熱めで、源泉掛け流しの露天風呂も広々と開放感があって、熱めの風呂好きの僕としては、お気に入りの温泉だ。

お湯は熱めだけど、行くたびにお湯の温度が体感では微妙に違う気がする。けっこう熱いと思う時もあれば、ぬるめだと感じる時もある。それが、ちょうど2週間ほど前に行った時のことだけれど、これ以上ないというくらいに熱かった。ここまで熱かったのは僕的にはここ10年で初めての経験だ。最初、足先を入れた段階で、マジか!と思う熱さで、その後、う~アツ~と叫びながら、友人と少しずつ体をお湯に沈めた。いったん体をお湯に沈めてしまえば、なんとか入っていられる。ここまでは、冬場に冷え切った体で最初お風呂に浸かるときの反応と似た感じだ。冬場のお風呂の場合は、いったん浸かってしまえば、あとは特に熱いと思う事もなく、普通に入っていられる。

ところが、この日は少し違った。いったん浸かってしまえば入ってはいられるのだが、身動きせずに浸かっている分には、なんとかいいのだけれど、お湯の中で、少し手や足を動かすと、動かした部分が、めちゃんこ熱いのだ。そして、お湯の中を歩くと足の甲が、熱いを通り越してひり付く感じだった。実際に、出たあと1時間くらいは、足の甲が少しヒリヒリする感じだった。

友人とは、普段の倍は熱いんじゃないかとか、摂氏何℃くらいだろうか?と話しながら、その熱さに子供のように盛り上がった。風呂としてはどうかって感じだったけれど、あまりの熱さにはしゃいでイベント的で愉快な風呂だった。(^^)

 

この日の温泉で、少し動くと、その部分がなぜめちゃんこ熱かったのか考えてみた。
その原因はおそらく流体である水と体の間にできる温度境界層ではないかと想像してみたりする。熱いお湯より温度の低い体によって、体の周囲のお湯は少し冷やされる。これが体全体を膜のように覆って、それほど熱く感じなくなる。ところが動くと、動いた部分ではこの膜が破れ、さらに対流熱伝達の影響もあって一気に熱が体に伝わり、めちゃんこ熱く感じたってことではないだろうか。特に、お湯の中を歩くという行為によって、一番動きが激しかった足の甲がひり付くほどの影響を受けたと想像している。

ほんとに熱いお湯だったので、友人は60℃くらいあるんじゃないかと言っていたが、僕はせいぜい52℃くらいじゃないかと主張した。なぜなら60℃もあれば、10秒ちょっとで火傷するわけで、いくら温度境界層があるからといっても1分も浸かっていられるわけがないと思うからだ。ところがサウナでは80~100℃の中に長時間いることができる。これは水と空気の熱伝導率熱容量の違いによるものだ。つまり、水より空気の方が我々の体に熱を伝えにくいってことだ。でも、サウナでサーキュレーターを使って熱風を体に当てれば、対流熱伝達の向上によって、あっという間に火傷するだろう。今回の足の甲がひり付いたのも、これが原因だろう。

普段の倍くらい熱いと感じたお湯だったが、計ったわけではないけれど、おそらく、せいぜい10℃くらいの違いだろう。10℃って大した違いじゃないようだけれど、体感では、とんでもない違いだ。それなら、普段のお風呂の温度を42℃として、その倍の温度は何度だろうか?お風呂の温度としては、この時の体感ではおそらく52℃で倍だ。でも摂氏なら84℃ということになる。

そもそも熱とは何かって話だけれど、物理学的には分子の熱運動の運動エネルギーだ。この運動エネルギーがゼロになるのが、絶対零度と言われる摂氏マイナス273.15℃だ。物理学ではこのマイナス273.15℃を0としてケルビンという単位を使う。遥か昔の中学だか高校の物理だ。笑
摂氏よりもケルビンの方が、温度というものを物理的にはより的確に捉えている。そのケルビンで考えるならば、42℃は315.15ケルビンであり、その倍は630.3ケルビンだから、そこから273.15を引くと、摂氏357.15℃となる。この357.15℃が42℃の倍の温度ということになる。まあ体感では数十倍、数百倍って感じじゃないだろうか。

風呂の熱さ42℃の倍の熱さは何度かと聞かれ、84℃と答えれば、物理学の分子の運動量で熱を捉えている人は笑うかもしれないし、我々のように風呂に入っていた人間にすれば、アホか!死んでまうは!って話になる。物理学的には357.15℃が正解だろうし、日常的には84℃の方が正解のような気がする。そして体感になると、ここに熱伝導率や熱容量、対流熱伝達といったものが絡んでくる。さらには個々人の感覚の違いだったり、その日の気分や天候など様々なものが関係してきて、とても複雑な話になってくる。

しかも、その複雑な体感ってやつはとても大事だ。例えば経済指標的に景気が良いと判断されても、我々の体感的に景気が悪ければ、どうしようもないし、いくら高速処理ができるCPUを積んだパソコンでも、体感的に遅ければ、やはり良いPC環境とは言えない。

今回の風呂の熱さの例ように、熱さという単純なものをとっても様々な側面がある。これが一般社会の出来事になれば人間の個々の複雑な感覚がさらに多数絡み合ったものになってくるから、おそろしく様々な側面が出てくるはずだ。倍の風呂の熱さは、52℃であり、84℃であり、357.15℃だ。どれも正しく、どれも間違いと言える。

ところが人は一つの側面から主張を始めると、やがてそれが信念となり他の側面を見ようとしなくなる傾向がある。357.15℃は物理学的客観性をもった数値だから、こういったものは信念をもって主張されやすい。しかし、風呂の熱さを倍にしようといった時、これは明らかに間違いだ。357.15℃の風呂は馬鹿げてるから、誰でもわかる。しかし、一般社会は側面としてはとても複雑だから、ある側面からだけ主張がなされ、そして、それが行われてしまうことが多々あるのだ。

一つのことにも様々な側面があり、それぞれの側面で主張は変わってくる。そのそれぞれの主張にはそれぞれの正しさがあり、それぞれの間違いがあることを認識して考える事が大切だ。実はこれは、かなり難しい。できると思っている人でも、僕も含め、ほとんどの人が出来ない。ひとたび信念を持ってしまえば、バイアスにより他の主張の正しさが見えにくくなり、間違いばかりに目がいくようになるからだ。逆に自分の信念の正しさがクローズアップされ、間違いは矮小化される。これにより対立が生まれていく。

SHIN MICの思考と探求の教室やオンラインレッスンでは、様々な分野の様々な材料を取り上げて、究極的には、自分と対立する主張にも、それぞれの正しさがあること、自分の主張にも間違いがあることを認め、そこから、建設的により良い方向を考えられる姿勢を共に身に付けていきたいと思う。

 

セキュリティ

PPAP-ペンパイナッポーアッポーペンじゃないよ!

今回とりあげたPPAPは、同じPPAPでも「ペンパイナッポーアッポーペン」のことではない。

ここで言うPPAPとは

Passwordつきzipファイルを送ります
Passwordを送ります
An号化(暗号化)
Protocol(プロトコル)

の略だ。

メール等にファイルを添付して相手に送る際、そのファイルを他人に盗み見されたくない場合、パスワードをかけたZIPファイルにして送り、その後、すぐに解凍するためのパスワードを別のメールで送るというものだ。

ZIPファイル付きのメールとパスワードが書かれたメールの両方を盗み見されれば、これは全く意味がないし、そもそも本気でパスワードがかかったZIPファイルの中身を見ようとすれば、手間をかければみる事が出来てしまう。例えば「Pika Zip」なんていう、ZIPファイルのパスワードを解析するフリーソフトまで存在する。総当たりの解析だから、パスワードの桁数が大きくなれば、それなりの時間はかかるだろうけど。

とにかくセキュリティ上、それほど意味があるとは思えないし、圧縮、解凍、パスワードを書いたメールを送ったりと、PPAPだと業務も煩雑になるという理由から、大手企業や霞が関では全廃する方向のようだ。

PPAPも、もともとは添付ファイルを盗み見されたくないというところから始まり、組織内で習慣化していったものだろう。そして、それが一旦、組織内で習慣化すれば、それをやるのが当たり前であり、同調圧力により、それに対して異を唱える事が難しい雰囲気が醸成され、やがて常識となり、それについて深く考える人がいなくなってくる。そんな中でPPAPではなく添付ファイルを送ろうものなら、社会人としてなっていない!とか、セキュリティ意識のカケラもない!みたない評価を周囲からくらうのではないだろうか。そうやってPPAPも長い間、日本の企業や行政機関などで、行われてきたのではないかと思う。もちろん、それについて考える人がいて、そしてそれが広がってきたからこそ、全廃という方向が出てきたのだろうけど、それが行われている真っ最中は、ほとんどの人が、セキュリティ上の常識みたいな感覚で、その操作の一つ一つの意味については、あまり考えることは無かっただろうと想像できる。

 

それに対して、僕が勤めた学校は、この情報に対するセキュリティ意識なんてものは、ほとんど感じられないところだった。一般社会の感覚からすると、ビックリするような感覚と認識で各種ファイルが取り扱われていたし、それに対して提言を行っても、真剣に対策を考えられることもなかった。おそらくPPAPですら、普及させることは困難な集団であったと思う。もちろん、言葉では情報セキュリティだとか、ICT活用だとか言うけれど、実際には、一般企業なら社会的に糾弾されるような情報管理のずさんさは放置されたままなのだ。

もちろん、この原因には無知がある。でも、無知であることは悪い事じゃない。大切なのは必要なことに気づき、学び、考えることなのだ。ところが、googleのアカウントにログインしているのかログアウトしているのかさえも分からない人が、情報関係について知識のある人の言葉を聞こうとせず、判断を行っている。自分の世界を広げることを止めてしまった人が判断を行い、おかしいと思っても、それに従うことを良しとする人たちで組織運営がなされているから、時代遅れのとっても不思議な世界が出来上がっていく。そして、自分の世界を広げることを止めてしまっているから、不思議な世界になっていることにさえ気づくことがない。

 

PPAPが長いこと、企業や行政機関で習慣化されていたことも、情報に対するセキュリティ意識が欠落していた上の学校の例も、一番の大元にあるのは、疑問を持ち、気づき、調べ、学び、考えるという姿勢の欠如ではないかと思う。個々人は、気づき、学び、考える姿勢を持っていても、日本社会では組織に入ると、途端に、その部分で思考停止に陥ってしまう傾向があるように思う。そして、組織内ではなぜ思考停止に陥りがちになるのか、それを個々が考える必要がある。それを知ることは、また一つ自分の世界を広げることにつながる。

社会をより良いものにしていく為にも、子供たちのより良い未来を作っていく為にも、我々、大人は何歳になっても、学び、考え、そして自分の世界を広げていく必要があると思うのだ。僕は自分の世界を広げ続けることを、できるだけ多くの人に知って欲しいと願っている。

常念岳と桜

僕のスマホ写真とマルセル・デュシャン

僕が安曇野の風景写真をSNSに投稿すると、とにかく、みなさんに褒めていただける。投稿するたびに「素晴らしい」「綺麗」「癒される」といったコメントを沢山いただく。もちろん、これはとても嬉しい事だから、また撮って投稿するということを繰り返している。

そうこうしているうちに、カメラマンの方からメッセージをいただくようになった。「どういう設定で撮っているのか?」とか「機材は何を使っているのか?」といった質問がやってくるのだけれど、僕は、スマートフォンでしか写真を撮らないし、カメラの知識が皆無だから、聞かれていることがチンプンカンプンで、いつも知識が無い事をお話して「お役に立てずにすいません。」と返信させてもらっている。さらに一時期は「出されている写真集の名前を教えてもらえますか?」といった、完全に僕をプロカメラマンと勘違いしているメッセージまで、ちょくちょく届いていた。
下は最近SNSに投稿した写真だ。

わさび田と有明山と桜
菜の花と桜
常念岳と桜

今までに何回も、行政やメディア、旅行サイトなどから写真を使わせてもらえないかという問い合わせもいただいているし、アーティストの作品の販売サイトから、写真を掲載しないかというお誘いまでいただいたこともあった。

こういったお話をいただくと、とりあえず嬉しいのだけれど、いつも思うのが、カメラマンさんがちゃんとした機材を使って撮った同じような風景の綺麗な写真が世の中にはたくさんあるのに、なぜに、素人のスマホ写真?という疑問だ。

僕は芸術的センスはいたって乏しいし、そもそも写真を撮るのが、嫌いではないけれど、好きなわけではない。自分が綺麗だと思った風景を写真に撮ってSNSに投稿すると、同じように綺麗だと共感してくれる人がいるから、それが嬉しくて撮っているだけだ。だから僕の写真の何がいいのかが、自分ではよく分からないのだ。

安曇野は綺麗な風景が多い場所だから、単純に元の風景が綺麗だから、みなが褒めてくれると思っていたのだけれど、やがて、それプラス僕の写真そのものを褒めてくれていることが分かってきた。
下は昨日、海外の方が僕のFacebookに投稿した写真に残してくれたコメントだ。

Your photography always give a strong sense of positive energy and gentle touch of gratitude. I appreciate very much.

The real meaning of photography is to inspire and to feel how good life is.

なかなか、深い意味の事を書いてくれていて、ありがたい限りだ。そう言えば、僕の投稿写真の事を「小林ワールド」って表現する人もいるから、僕の写真独特の何か感じるものがあるのかもしれない。

マルセル・デュシャン

Marcel Duchamp, パブリック・ドメイン, via Wikimedia Commons

この写真は、マルセル・デュシャンの「泉(Fountain)」という作品で、セラミック製の男性用小便器に「R.Mutt」というサインと年号が書かれだけのものだ。これをマルセル・デュシャンは作品展に出品し物議を醸した。

 

近代美術から現代美術、ヨーロッパ近代芸術からアメリカ現代美術、視覚的な芸術から観念的な芸術へと価値観が移行するターニングポイントとなる作品である。それゆえ作者のマルセル・デュシャンは「現代美術の父」「ダダイズムの父」とみなされている。

Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典

 

マルセル・デュシャンは、この作品によって芸術という概念自体に革命を起こした現代に続くコンセプチュアルアートの創始者であり、その影響力はピカソを上回ると言われている。

小便器にサインと年号を書き入れたところで、小便器は小便器だ。でも、これが美術館に展示されていたら、鑑賞者は「なぜ、これが美術作品なのか?」と頭の中が「???」だらけにはるはずだ。

つまり、芸術は目の前にある作品という概念から、その作品を元に鑑賞者の頭の中で完成するのが芸術ではないのか!

という問題提起をした作品ってことだ。

僕はいたって芸術には疎いのだけれど、この頭の中で完成するのが芸術!ってのは、なんとなく分かる気がする。芸術に疎いから、僕は美術館に入って作品を見ても、きれいな絵だな!くらいで、スーッと1周して出てきてしまう。ところが、その作家の生き様や、その作品にかけた執念だったりを知ると、その作品の前に佇み、作品からエネルギーを受けることが出来るからだ。

まあ、コンセプチュアルアートの概念はきっと、もっと深いものだろうし、やはり、壁にダクトテープでバナナを貼り付けただけの作品に1,600万円もの値がついたりするコンセプチュアルアートの世界は、僕には、今一つ分からないのだけれど。

僕のスマホ写真

ここで僕のスマホ写真に話を戻すと、写真を褒めてもらっているのはSNS上だ。つまり、写真を投稿する際には、必ず何かしらのコメントをつけて投稿しているわけだ。時には安曇野の紹介をすることもあるし、自分自身の思いや出来事を書いて投稿することもある。さらには、投稿にコメントが書かれれば、それに対して返信をするから、やり取りが生まれる。

つまり、僕の写真を見てくれてる人は、写真以外に多くの情報を受け取っているわけだ。そんな中で、投稿している僕という人物のイメージも頭の中に出来てるだろうし、僕の思いなんかも感じ取り、無意識のうちに、そんなものを写真に重ね合わせて見ているのではないかと考えてみたりする。だから、コンセプチュアルアートの考え方でいくと、僕のスマホ写真は、そこを元に、安曇野や僕自身のイメージとともに、見てくれている人の頭の中で作品として完成されているということではないだろうか。

だとするならば、僕のスマホ写真はやはり写真そのものよりも、そこを起点にして頭の中で作品として完成させるための情報提供がうまくいっているから、いい写真だと感じてもらえているのかもしれない。

そう考えると、写真そのものよりも、投稿する時に何気なく書いている文章が、より大きな役割をになっているのかもしれない。この事は、芸術分野だけでなく、マーケティングや自分自身の見せ方など、多くの場面で考えてみる価値のあることだろう。

春の安曇野で“ばえる”スマホ風景写真-ワークショップでは、SNS映えするという点も考えて、そんなところまで話を広げて、皆さんと一緒に写真を撮りながら歩いてみたいと考えている。