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Archive: 2021年3月31日

SHIN MIC のスタートです!

1月から少しずつ準備を進めてきたSHIN MICですが、いよいよ4月からスタートします。
とは言っても、事務所の準備等で本格始動は4月半ばくらいになってしまいそうですけど。(^^;

思考と探求のスキルをベースに、言語、コンピューター、金融、歴史、趣味に至るまで、様々な内容をオンラインレッスン、オンラインフォーラム、ワークショップ、教室で、人生を豊かにする学びを目指して提供してまいりたいと思います。

まだ、オンラインレッスン等のコンテンツが少ないですが、これから、どんどん増やしていく予定です。6月には教室の方もスタートさせたいと考えていますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。(^^)

SHIN MICでは「みなが先生、みなが生徒」という考え方のもとにコミュニケーションを通しての学びを大切に考えています。コミュニケーションの中での気づきと、考える事の大切さに気付いてもらえる内容を提供していきたいと思っています。

例えば、最近よく言われる異文化理解、多様性、SDGs、LGBTQなんかも、行政や学校等で、言葉は振り回されますが、言葉を振り回しているだけで、実際にやっていることは真逆なんてケースが多々あります。言葉を唱えながら、そこにあるのは、批判をされないようにという消極的な思考で、同調意識しかありません。今回のコロナの件でも、それがよく出ていると思います。もちろん、当事者はそれに気づくことすらできていないのが現状です。

同調するだけではなくて、一歩踏み込んで、それについて調べ、よく自分自身で考えてみるという意識が大切だと思います。そういった姿勢を習慣化できれば、視野が広がりますし、自分自身の可能性も広がってきます。

SHIN MICでは、ワークショップも様々な内容を提供する予定ですが、最終的には、気づき、自分自身で考え、学びを得るというところに、到達できるものにしたいと考えています。

人生を豊かにする楽しい学びを、一緒にしていきましょう!!(^^)

よろしくお願いいたします。

ドル円月足巨大三角持ち合い

ドル円の巨大三角持ち合いと日本の行方

ドル円が2015年6月の124円を天井にそれ以降、巨大な三角持ち合いを形成している。そして、ちょうど今現在、その巨大な三角持ち合いの突破をチャレンジしているところだ。ドル円の上下動のサイクル的にも、僕はこの三角持ち合いを突破する可能性の方が高いと思っている。

個人的にはスミソニアン体制以降、約40年続いた円高は2011年10月の75円台で終了したと考えている。だから、今後、上下しつつも基本的には大きな流れとして円安方向に向かっていくのではないかと想像している。つまり、現在の巨大な三角持ち合いを上方に突破すれば、上下動はあっても最終的に124円を上回っていくんじゃないかと想像している。

2015年6月からの円高傾向は終了し、暫く円安傾向に変わっていくのではないかと感じている。これはテクニカル分析とかファンダメンタルズとかではなくて、チャートの雰囲気から、なんとなく僕が感じているものだ。もちろんテクニカル的にもファンダメンタルズ的にも分析すれば、様々なことが言える。でも、その分析は絶対ではない。外れることも多いのが相場というものだ。論理を超える「なんとなく」の記事でも書いたが、少なくとも僕の場合は、最後の決め手は「なんとなく」だ。

その「なんとなく」が今後、数年は円安傾向になるんじゃないかと僕に言っている。

チャートを見ていて感じることだが、値動きについて専門家が様々な分析を行うが、所詮、相場は相場の動きたいように動いていることを感じる。変な話だけれど、相場が動きたがっている方向性が感じられた後に、その方向に動くための社会の動きや事件があるように僕には感じられるのだ。

 

日本経済にとって円高が良いのか、円安が良いのかは議論が分かれるところだ。もちろん極端な円高、円安はよろしくない。ただ、これまでの感覚では円安傾向にあった時の方が経済的には良かったような気が僕はする。

今後、暫く円安傾向にあるとすれば、過去の肌感からは日本経済は比較的良いはずだ。もちろん、極端な円安になれば話は別だけれど。だから、今、コロナの第4波が言われたりしているけれど、なんとなく、今年はコロナも収まり、人の往来も増え、日本経済は上向いてくるんじゃないかと思ったりする。もちろん、これには僕の願望も入っているかもしれないけれど。

 

相場の動きに関しては、穴が空くほどチャートを眺め、幾つも線を引いて分析して判断を下すよりも、僕の場合は少なくとも「なんとなく感じる」ってのに従うのが一番確かだ。そして、相場が動きたがっている方向を感じると、それに合わせるような実社会での動きが出てくるってのが僕の感覚だ。

これはあくまでも「なんとなく」であり感覚的なものだから、そこに論理性はない。でも、これが、案外当たる。この「なんとなく」はもちろん、さんざんチャートを眺めたから感じるものであって、初めてチャートを見た人が感じるものではない。つまり、経験によるものであることは確かだ。その経験というのが、過去の情報処理であるとするならば、それはテクニカル分析の範囲に入ってくるものだ。でも、「なんとなく」はテクニカル分析的な判断と逆を示すこともある。だから単純に過去の情報処理ではないだろう。

つまり、人は経験の中で、第六感と呼ばれるものなのか、なんなのか分からないけれど、論理の外側部分での学習を行っているのだろう。

分野が何であれ、この論理の外側で学習しているものは、人が生きていく上で糧になるものだ。だから、この「なんとなく」がどこからやって来るものなのか、今後、考えていきたいと思っている。

有料フォーラムの人生を豊かにする楽しい学び塾では、そんな事も、皆さんから例をあげてもらいながら、考えていきたいと思っている。

DNA

セントラルドグマからの逸脱と甲羅干し休憩

セントラルドグマとは分子生物学の中心教義とされるものだ。
遺伝情報はDNAからmRNA(メッセンジャーRNA)に転写され、mRNAが核内から細胞質に出て、細胞質内のリボソームに辿り着き結合する。リボソームにはtRNA(トランスファーRNA)がアミノ酸を運んでやって来る。tRNAはmRNAの情報を読み取り、リボソームの酵素作用によってペプチド、さらにはタンパク質が作られる。このDNAからタンパク質ができるまでの一連の流れがセントラルドグマと呼ばれるものだ。

ドグマと呼ばれるくらいだから、この一連の流れは細菌から人間にまで共通する基本原理とされてきた。

 

ところが、イカの神経細胞はこのセントラルドグマから逸脱していることが分かったそうだ。

Nucleic Acids Research
https://academic.oup.com/nar/article/48/8/3999/5809668

まあ、イカ、スゲー!って話なんだけど、我々一般人は科学的に正しいことが正しい、もしくは真実味があると感じる傾向がある。でも、このイカの話のように、科学的に正しいとされることも新たな発見や理論によって覆されていくことが多々ある。

かつて、ガリレオは裁判によって有罪を宣告され、地動説を放棄させられてもなお「それでも地球は回っている」とつぶやいたらしいが、今では本気で天動説を主張したら、「バカなの?死ぬの?」くらいの勢いで叩かれそうだ。正しいとされることが正反対になってしまったわけだ。

ところが20世紀後半になって、天動説を主張した日本人がいる。それが、薬師寺元管主で「昭和の怪僧」と呼ばれた橋本 凝胤(はしもと ぎょういん)だ。

 

橋本はスプートニク打ち上げのテレビ中継を報告に来た新聞記者の青山茂に「お前もとうとうソ連やアメリカの陰謀にはめられたな。テレビで見たいうけど、テレビで見たのがみなほんまやと思とるのか。テレビの向こう何もないやないか。実際に経験して見たこというとんやないやろ。ブラウン管に映ったり新聞に載ったりすることだけ信じてるのやが、そんなん、わしは信じやへん。」と戒めた。後年青山は「科学や教えられた事以外に別の世界があるぞ。と教えてくれのかも知れません。」と述懐している。

ウィキペディア

 

橋本 凝胤は、自分はお天道様が毎日自分の上を回っていくのを見ている。それでいいじゃないか!地動説なんか、教科書に書いてあるのを見ただけで、自分の目で確認したのか?と言っていたなんて話もどこかで読んだ記憶がある。ちなみに橋本 凝胤は東京帝国大学出身だから、少なくとも秀才さんだ。

言われてみれば、我々が正しいと信じている知識のほとんどが、自分で確認したものではない。上に書いたセントラルドグマだって、高校だったか大学だったかは忘れたけど、生物の授業で習っただけのもので、それを自分で実際に確かめたものではない。それでも、やはり僕はDNAからmRNAの転写や、そこからの翻訳を正しいこととして人に話している。

僕は、我々は実際に自分で確かめてもいないのに正しいことだと信じているものだらけであるということを、意識に留めておく必要があると思うのだ。

甲羅干し休憩

夏場、海水浴や炎天下での作業に出るとき「また、日焼け止め塗ってないんじゃないの~」とよく嫁さんに怒られる。

うちの嫁さんは紫外線は有害なものと認識しているから、太陽光をたくさん浴びるような場合の紫外線対策は必須だ。

ところが、僕が子供の頃の小学校の水泳の授業時間には「甲羅干し休憩」という時間があった。これは体温と体力の低下を防ぐためのものだったのだろうけど、「甲羅干し休憩」の間は、うつ伏せに寝転がって、ひたすら太陽の光を浴びて日に焼ける事が推奨された。当時は、なぜか、夏の間に日に焼けると冬になってから風邪をひかないと信じられており、とにかく日に焼けて黒くなることが健康の証のような風潮があった。夏休み中もプールに通い、せっせと日焼けに勤しんだことを憶えている。別に日に焼けなかったからと言って怒られることもなかったが、夏休み明けに日焼けして学校に行くと褒められたものだ。

嫁さんは僕の12歳年下なのだけれど、この「甲羅干し休憩」の話をすると、

「頭、大丈夫?」
「虐待レベルだよね!」

と「甲羅干し休憩」という単語もあってか、バカうけしていた。
ほんの10年くらいの間に世の中の認識が大きく変わったってことだろう。
良いとされていた事が、悪い事になってしまっていたのだ。

日本は同調圧力が高い社会

暫く前にレストランのレジに並んでいた時のことだけど、僕の後ろから人が詰めてきたので、半歩前に出たところ、前にいたおじさんに「ソーシャルディスタンス!」と厳しい口調で言われ、睨まれた。そんなに、くっついたわけじゃないし、そこまで神経質になるなら外食なんか、するなよ!って思いながらも「すいません」と謝ってはおいたけど。

日本は同調圧力が強い社会で「ソーシャルディスタンス」という言葉が出始めると、やたらと、その言葉が振り回され、少しでも、その言葉から外れた行動をすると、僕のように怒られてしまう。まあ、この同調圧力が強いからこそ、日本は治安が良かったりするのかもしれないけれど、その一方で、学校の中なんか密もいいところだ。ソーシャルディスタンスと書かれた貼り紙をあちこちに掲示しながら、体験入学なんかやろうものなら、外部からも人が入って来て、かなりの密だ。ところが、面白いことに、これは許されるのが日本の社会なのだ。検温もしているし、出来る事はやっているのだから、仕方がないと思うのか、誰からも苦情が出ない。これに関して、おかしいと主張しても、出来る事はやってるし、仕方がないってことでスルーされてしまう。

レストランの例も、下の学校の例も、話は逆だけれど、どちらもソーシャルディスタンスは感染を防ぐための対策という目的を考えると論理性を欠いている。少なくとも僕の中ではソーシャルディスタンスという言葉を様式化しただけの、ただの茶番だ。

考えることをせずに、周囲に同調することは楽なのだ。そして、社会的にも同調圧力が高いのが日本だ。学校の例は、先の大戦で無謀な戦争を延々と続けてしまった当時の政府の感性に近いものを感じるし、レストランのおじさんには、ちょっとしたことで、非国民!と周囲の人を突き上げていた人の感性と近いものを僕は感じてしまう。

上でも書いたように、正しいと信じられている事は、往々に覆されてしまう。天動説が正しいとまでは言わないけれど、それでも、実際に自分で確認したり考える事を意識して、それをすることは、とても大切だ。

同調することは、ある意味楽だし、同調圧力のメリットもあるけれど、日本はそれが高い社会である以上、より一層、自分で確認し、考える事が大切だと思うのだ。

絶対的な正しさなんて無いのだから。

テセウスの船

テセウスの船:同一性の認識を考えてみる

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

プルタルコスは全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのかという疑問が生じる。

テセウスの船(テセウスのふね、英: Ship of Theseus)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。

ウィキペディア テセウスの船

上は「テセウスの船」というパラドックスのウィキペディアからの引用だ。

僕は全ての部品が交換されても、それが年月をかけて徐々に行われていったものなら、やはり、それはテセウスの船だと感じる。

しかし、短期間に全ての部品が交換されたのなら、それはレプリカだと感じてしまう。

皆さんはどう感じますか?

我々の体も常に細胞が新しくなり、物質的には体の大方が7年ほどで入れ替わるようだ。人の場合、物質的にほとんどが入れ替わっても、テセウスの船のように考える人は、まずいないだろう。物質的に入れ替わっていても、考える余地もなく同じ人だ。

アニメやドラマの世界なんかだと体と人格が入れ替わるなんてのがよくある。この場合、我々は、当たり前にのように、体ではなく人格側を本人だと認識して見ている。つまり物理的なところではなく、本人の記憶や思考、性格、アイデンティティーを本人と認識しているということだ。

では、記憶喪失になり、自分が誰かも分からず、しかも性格も以前とは変わってしまっている人の場合はどうだろうか。この場合、記憶喪失になって別の人のようになってしまった!というような表現を使ったりする。記憶や性格、アイデンティティーさえ失っても、やはり、我々はその人を本人だと認識する。

こうして考えてみると、アニメや映画の「攻殻機動隊(Ghost in the Shell)」ではないけれど、本人かどうかってのは、信じる信じないに関わらず、その人の魂部分を感じ取っているのかもしれない。

人ではなくても、例えば神社は、遷宮の度に作り替えられていく。時の移り変わりとともに社は物理的には別物になっていくが、同じ神社として人はそれを認識する。もし仮に災害等で神社の社を建て直した場合、それは物理的には全く別物のはずなのに、それを別の神社だと人は認識しない。

車やなんかでも、長年修理をして部品を交換しながら乗っているものは、例え大部分の部品が交換されて物理的に別のものになっていても、やはり自分の愛車だ。しかし、同じ車種の新車を持ってきたら、それは、もはや自分の愛車という認識はない。これは思い出の品やなんかでも同じことが言える。

つまり、物であっても、同じ物かどうかを考える際に、我々の思念のようなものが深く関わっているという事だろう。

よく霊魂は不滅だ!なんて言ったりするけど、我々が霊魂だとか神だとか呼んでいる時間の影響を受けない何かを我々は感じ取り、それを同一性の尺度にしているのかもしれないなんて想像してみたりもする。(^^;

少なくとも物理的に存在するものは全て、1秒たりとも全く同じ姿を保つことは出来ない。時間の影響を受け変化し続けている。しかも我々生物には成長や老化という変化までついてくる。

同級会とかに参加すると、いつも思う事だが、皆、見た目は中学生や高校生の時とは、当然、随分変わっている。でも暫く話すと当時となんら変わりない感覚になってくる。皆、それぞれ、色々な経験をして多くを学んできていても、その人の本質ってのは、そう変わるもんじゃないことを僕は感じる。

この本質というのが魂なのか、なんなのかは分からないけれど、おそらく、それが時間の影響を受けない何かなのかもしれない。

「その人」という本質を変えることが出来なくても、我々は考え方は変えることができる。この世の物は時間の経過とともにすべてが形を変えていく。もちろん社会全体の考え方も変わっていく。

人の本質が変わらないものだとすれば、時間経過による変化に対して、自分自身の考え方を変えて対応していくいしかない。その為に常に学び続け自分自身をアップデートしていく必要があると思うのだ。

有料フォーラム「人生を豊かにする楽しい学び塾」では、この自分自身をアップデートすることを、皆で話し考えていきます。(^^)

デジタルユーロ

デジタルユーロ|CBDC(中央銀行デジタル通貨)構想

[フランクフルト 19日 ロイター] – 欧州中央銀行(ECB)のパネッタ専務理事は19日、ECBが発行するデジタル通貨(CBDC)である「デジタルユーロ」について、ECBは構想を先に進めるか年央あたりに決定すると述べた。ただ、正式な発行は約5年後になるとの見通しを示した。

REUTERS
https://jp.reuters.com/article/ecb-euro-digital-idJPKBN2BB1PL

 

上のロイターの記事によると、ECB(欧州中央銀行)が5年後にデジタルユーロの発行を目指しているようだ。実現すれば社会全体に大きな影響を与えるだろう。

このように中央銀行が発行するデジタル通貨をCBDC(中央銀行デジタル通貨)と言う。CBDCはCentral Bank Digital Currencyの略だ。まあ、そのまんまの名前なんだけど。(^^;

実はCBDCは、ECBに限った事ではなく、各国の中央銀行が研究したり、導入を検討したりしている。アメリカや日本はCBDCに対して比較的消極的だが、その準備と研究は行っている。そして積極的な中国は既に発行目前だ。

調べてみるとCBDCの定義はあいまいだが、日銀によるとCBDCとは以下の3つの条件を満たすものということらしい。

(1)デジタル化されていること
(2)円などの法定通貨建てであること
(3)中央銀行の債務として発行されること

技術的にはビットコインの根幹技術であるブロックチェーンを利用するケースが多いと思われるが、ビットコインのように管理者がいないオープンなものではなく、あくまでも中央銀行という管理者がいるブロックチェーンだ。だから、決済がスピーディーになったり、お金の管理が楽になったりといったメリットはあっても、あくまでも現在の法定通貨の電子版ってことだ。

最近のビットコインの爆上げぶりを見ても分かるが、ビットコインのような仮想通貨はボラティリティ(価格変動)が高く、日常の決済に使用しずらく、一般的な通貨として浸透するのは難しいと言われている。

そこで、出てくるのがステーブルコインというもので、米ドルなどの安定した通貨の価格に紐づけされたデジタル通貨だ。代表的なものがFacebookが研究、開発を主導した「Libra(リブラ)」だ。しかし、これも世界の規制当局から警戒されて反発を受け、現在ではFacebookから距離をおいて「Diem(ディエム)」と名称を変更して、発行目前まで漕ぎつけきているようだ。

5年後のデジタルユーロの発行を目指すECBの方針を読むと、明確に書いているわけではないが、ユーロ圏へのデジタル人民元や、ステーブルコインのDiem(旧Libra)の流入と、その影響力の拡大に対抗するために、デジタルユーロの発行を急いでいるように思われる。

暗号通貨

中国の一部ではビットコインのマイニングが禁止されているし、インドでは仮想通貨の取引だけでなく保有も禁止する法案が提出される方向らしいから、各国当局の仮想通貨に対する警戒感と嫌悪感は相当なものがあるだろう。

それにも関わらず、ビットコインは爆上げし続けているし、企業や中央銀行が、その技術を取り入れ、それぞれデジタル通貨発行を考えていることからも、時代の流れが、そちらに傾いていることを感じる。

デジタルユーロ、デジタル人民元、Facebookから始まったDiem、みな発行に対しては、様々な研究、想定を行っている。それでも、こういったものってのは、地震や津波の予測と同じで、想定外のことや想像を遥かに上回る事が起こる類のものだ。

そもそも、現代の我々が当たり前に受け入れている管理通貨制度や中央銀行システムと通貨発行は、調べてみれば、通貨量と借金を延々と増大させていく摩訶不思議なシステムだ。ここでは割愛するけれど、興味のある人は調べてみて欲しい。世界には、現代の通貨発行システムを詐欺だと告発する人がいるくらい、我々は不思議な世界に住んでいるのだ。個人的には、現代の通貨システムが限界に近づいてきているような気がしてならない。

だから、今後、CBDCやステーブルコインが流通し始めた時ってのは、各国の中央銀行からすると想定外の事が起こるような気がしてならない。そして、それは金本位制から管理通貨制度に移行したような、歴史的な大きな出来事に繋がっていくのかもしれないと想像してみたりもする。

とにかく、現代の我々は、ありとあらゆる分野で大きな変化に繋がる種が蒔かれたような世界に住んでいる。特に通貨発行のシステムが変わるようなことがあれば、世界は劇的に変化するだろう。

だから、あっという間に正解が不正解になり常識が非常識になる世界に我々は生きているということをよく自覚して、常に学び続け、変化に対応できる感覚を養っていかなければならない。

僕が勤めた学校のように、何かにつけて「常識的には・・・」「一般的には・・・」を連呼している場合ではないのだ。それを連呼すれば自分の頭で考えずに済むから楽だけど、変化に対応するためには、調べ、考え、学ばなければならないのだ。

謎の町コフィービル(Coffeyville)–googleアナリティクスとカンザス問題

SHIN MICを公開してまだわずかな期間だけど、お陰様で徐々にアクセスも増えてきている。海外からのアクセスもパラパラと見られ、北米、ヨーロッパ、インド、東南アジアからのアクセスをよく目にするようになってきた。

そんな中、毎日、Googleアナリティクスで目にするのがアメリカ合衆国のコフィービル(Coffeyville)というカンザス州南東部の町からのアクセスだ。同じアメリカでも、ニューヨークとかロスアンゼルスのような聞きなれた大都市ではなく、コフィービルという今まで聞いたこともなかった町からのアクセスがやたらと多いのだ。コフィービルって、どんな所だろうか?と、調べてみるも、人口10,000人ほどの小さな町で、こんなアメリカの小さな町から、公開して間もない、しかも日本語メインのサイトに、毎日複数人がアクセスしてくるなんて、どうしたって、おかしい。

コフィービルには一体なにがあるんだ?
謎だ!!

そこで「Google Analytics Coffeyville」で検索してみると、コフィービルからの大量アクセスに困惑している欧米のサイトオーナーは結構多いようだ。

GoogleアナリティクスはトラフィックソースのIPアドレスをサードパーティのデータソースに送信して、場所を特定している。そして、サードパーティのソースが訪問者の位置の正確な記録を持っていると判断した場合には、それを表示する。しかし、サードパーティのソースから正確な場所を特定できない場合、それがアメリカ国内であれば、不明と表示する代わりに、アメリカの地理的中心に位置するカンザス州のコフィービルを表示するということのようだ。

場所を特定できないアメリカ国内からのアクセスは全てこのコフィービルという町に表示されるということになる。つまり、コフィービルからの大量アクセスは、アメリカ国内のあちらこちらの場所を特定できないアクセスの寄せ集めということだ。だから、決して自分のサイトがコフィービルで人気があるということではない。笑

これはカンザス問題なんて呼ばれているらしい。

紛らわしいこと、この上ないけど、まあ、アメリカのどこかから毎日のようにアクセスがあるから、よしとしよう!と、こう思えるのは日本に住む僕だからであって、アメリカ国内で、このアクセス元の地理情報を見て広告戦略やマーケティングを考えている企業にしてみれば、けっこう深刻な問題なのかもしれない。

とりあえず、疑問に感じたら何でも調べてみると、こんなふうに結構、面白いことが分かったりする。そして、こうやって得た知識が、またどこかで役に立ったり、繋がったりするから、疑問に思ったことをスルーせずに調べてみるっていう意識は大事だと思う。

それでも、なんか気になるコフィービル!

いつか、機会があれば行ってみたい。(^^)

 

WordPressでブログを運営してみよう!

WordPressとは、個人ブログから大規模サイトまで作ることができるオープンソースのソフトウェアだ。現在ではWeb上の40%のサイトがWordPressを使用していると言われている。無料で使えるのに非常に高機能かつ洗練されたデザインのサイトを作成することが可能だ。

大規模なサイトでは、例えば、ニューヨークタイムズルノーソニーミュージックなんかがWordPressを使用している。もちろんSHIN MICもWordPressで作成しているし、お店や会社のホームページも外注するとWordPressで作られることが多いんじゃないかと思う。

しかも、専門的な知識がなくても一般的なブログと同じような感覚で記事を作成し公開することができるし、プラグインと呼ばれるものをインストールして、様々な機能をサイトに追加することも可能だ。

機能を追加すれば、ショッピンサイトや自前のSNSを作成することもできるし、様々な既存の大手SNSとの連結も可能だ。

 

実は僕は個人ブログもWordPressで作ったブログを使っている。

http://yamura-yasuke.club/

基本的には趣味的にスマホで撮る安曇野の写真を投稿してるのと、あと、たまに気づいたことや自分自身が勉強になったことを書き留めているだけのブログで特別な機能は追加してないものだ。googleのアドセンス広告を貼ってあるから、その広告収入でレンタルサーバー代と通信費くらいは賄えている。

そしてブログに書き留めた内容が、後になって大いに自分自身にとって役立っている。例えば勉強になったと思った事をブログに書こうと思えば、多少なりとも僕のブログを見た人が分かるようにと意識して書くから、数年後に、あれって何だったっけ?と見直した時に、自分にとってそれはとても分かりやすい。それに、書くことによって知識そのものが、比較的自分の中に残りやすいというメリットがある。

しかもブログを運営していると、自然と、ネット関係の知識も増えてくる。お恥ずかしながら僕はRSSなんてものも、WordPressでブログを作っていく中で初めて知ったのだ。笑

RSSを使えば、他サイトの投稿を自分のサイトに流し込んだり、逆に自分のサイトでの投稿を他サイトへ流し込むことも可能だ。

たまたま近所の旅館のご主人が、「お客さんに季節の安曇野の写真をホームページに載せてくれ!って、よく言われるけど、そんな写真を撮って歩く間もないし、撮ったところで自分では載せられないし・・・」とぼやいていたので、それなら!と僕がブログに投稿する風景写真をRSSを使って旅館のホームページに流し込むことにした。下の旅館ホームページの下部の「季節の安曇野の風景をお届け!!」が僕のブログの投稿を流し込んでる部分だ。これが、めっぽう評判がいいようで、集客に繋がっていると旅館からは喜んでもらっている。

http://nishiyabesso.co.jp/

とにかくWordPressでブログを運営すると色々と勉強にもなるし、色々な事ができてしまうのが楽しい。

お店や会社でWordPressを使用したホームページをお持ちのところは多いけれど、ほとんど触ることもなく放置しているところも多い。こんなにも色々なことが出来るWordPressだから、もったいないな~って思う事がしばしばだ。

WordPressには専門的な知識が無ければ、扱えない部分もあるけれど、そんな専門的な箇所を触らなくても、Wordpressの全体的な仕組みさえ分かれば、かつては大きなお金をかけなければ実現できなかったことが、素人でも簡単にできてしまう。

それにブログを書いていると、思いがけないところからの問い合わせがあったりする。僕の場合であれば、写真が多いので、国内外の旅行関係サイトや雑誌会社、行政やテレビ局等から、写真を使わせて欲しいといった問い合わせがしばしばある。これはこれで、なんか愉快になれる。

僕の場合、個人ブログをWordPressで作った経験があったから、このSHIN MICのサイトも作ることができた。ちょっとだけ真剣にWordPressでブログやサイトを作成したり、運営したりすれば、随分と多くのことを学べると思うし、とにかく楽しい。そして、やがて自分の世界も少し広がってくる。

興味のある人は是非、WordPressに挑戦してみて欲しい。

お近くの方で関心のある方はWordPress初心者コースへお越し下さい!!(^^)

WordPress初心者コース

「福寿草と座禅草」・植物は偉大!

僕が住む安曇野では、今、福寿草(フクジュソウ)が咲き誇っている。福寿草は名前の通り、福と長寿を招いてくれるおめでたい花として、古くから日本では親しまれている。冬の間、白だったり茶色だったりのモノトーンな風景の中に、鮮やかな黄色で出現する様は、たしかに目出度い感じがする。

鉢植えや庭植えをする人も多いが、実は福寿草が猛毒であるという事を知っている人は案外少なかったりする。致死量から考えると、かの有名なトリカブトより、はるかに毒性が強いということになる。トリカブトと違って福寿草の場合は解毒剤があるらしいけれど。

以前、とある高級な懐石料理屋さんで、庭に様々な山菜を植えて栽培し、それを採取して食材にしているの見かけた。よく見ると山菜に混じって福寿草も一緒に植えられているではないか。知らなかったらまずいと思い注意喚起をすると、福寿草って毒のなのかと驚いていた。こんなお店やさんで、採取の際、山菜に福寿草が誤って混じってしまったら、大ごとだ。

 

この季節に咲き始める植物で僕が楽しみにしているのが座禅草(ザゼンソウ)だ。座禅草は同じサトイモ科の水芭蕉と似た雰囲気がある。しかし花は水芭蕉と違って、形状がずんぐりしていて色合いも下の写真のような感じだ。水芭蕉の爽やかな雰囲気とはずいぶんと違っている。この形が僧侶が座禅を組むイメージに似ていることから、この名になっているわけだ。僕はあまり感じたことはないが、全草に悪臭があるため英名はスカンクキャベツと言うらしい。この悪臭でハエとかをおびき寄せて受粉の助けにしているわけだ。

座禅草は、僕が住む地域では、大町市や白馬村の湿原や湿地帯で目にすることができる。いつだったか山に餌が少なかった年に白馬村では、座禅草が熊に食べられてしまったなんて記事を目にして、こんなものでも熊は食うのかと、驚いたことがあった。

実は座禅草は、自ら発熱して雪を溶かして顔を出してくる。しかも発熱温度は25℃にもなるんだとか。その発熱メカニズムの詳しい事は未だに分かってないそうだ。何気に座禅草は不思議植物なのだ。この座禅草の発熱制御アルゴリズムが岩手大学で研究されて、工業で一般的に使われるPID制御よりはるかに優れたものである事が分かった。既に実用化に入ってるらしいが、この先、一般的なものになるのだろうか?
いずれにしてもザゼンソウ制御は効率的で、かなり省エネなんだそうだ。自然は偉大だ。

身の周りの植物に目を向けてみよう!

僕は福寿草が猛毒であるということを知った時は驚いたし、座禅草が発熱して自分で雪を溶かして顔をだすということを知った時は、自然て偉大だ!と感動した。

実は身の周りの植物って調べてみると、なかなか面白い。道端に生える雑草も調べてみれば、食べられるものだったり、ハーブになったり、麻薬成分を含んでいたり、薬草だったりと、とても興味深いものが、かなりある。

大抵の人は草なんか興味がないから、おそらく道を歩いていても意識の中にすら入ってこないと思う。でも少し分かれば、普段歩いている道にも全く違った世界が見えてくる。

観賞用の植物だって調べてみると随分と面白い。なかにはKGBがかつて暗殺用の毒物として使用したものの原料の植物だったり、麻薬成分があるものもあったりと、随分と見え方が変わってくる。

そんな植物を調べていると、必ず、それは歴史や社会問題に繋がってくるから面白い。つまり身の周りの植物を少し調べるだけでも、随分と自分の世界は広がってくるのだ。

植物に限らず、身の周りの、普段当たり前にスルーしているものを意識して調べてみるだけでも世界は随分と広がるという事だ。世界が広がるという事はそれだけ視野が広くなるから、自分の人生に転がり込んでくるチャンスも多くなるし、なによりも人生が豊かになる。

是非、身の周りのものに好奇心の目を向けてみて欲しい。それだけでも得られる学びは無限に広がるのだ。

デマと陰謀論

デマと陰謀論-SNSとエコーチェンバー現象

「第5世代(5G)移動通信システムが新型コロナウイルス感染拡大に寄与している」

これは昨年の春、ヨーロッパを中心に飛び交ったデマだ。5Gとコロナは関係ねえだろ!と普通はそう考える。でも、このデマは当時猛威を振るい、イギリスなどでは電波塔が何ヶ所も放火される事件にまで発展した。

世界にはあらゆる陰謀論やデマが溢れている。これらはSNSを通して拡散し、もはや何が真実で嘘なのかも分からないような状態だ。しかも我々はどういうわけか、こういった陰謀論やデマが大好きだ。だから、こういったものとは一線を画し、自分は理性的だと思っている人も、一つや二つは何らかの陰謀論やデマを信じてしまっている可能性がある。もちろん、今ここで、こうして書いている僕自身も含めてだ。

日本の国家破産論

以前、僕は日本の国家破産論に夢中になったことがあった。
大学を卒業したての頃、日本の巨額の財政赤字を知り「えっ、やばいじゃん!」と思ったことを記憶している。その時は、その程度でスルーしてしまったが、それから20年近く経った2009年頃、ネット上で日本の国家破産についての記事を目にすることがあった。日本の財政赤字は、大学卒業したての頃に見たものとは比べ物にならないくらいに膨れ上がっており、「いよいよ、マジでやべぇんじゃねえのか!」と危機感を抱いた。

そこから僕は日本の財政赤字がどの程度ヤバいのかを調べ始めた。実はこの時点で既にバイアスがかかっている。ヤバい情報ばかりを集めてしまうからだ。調べていく中で、当然、「日本の財政赤字は問題ない」という情報も目にするが、どの程度ヤバいのかという視点で調べ始めているから、目にしても意識の中には入ってこない。ところが目にしたことによって、それについて、しっかり考える事もしていないにも関わらず、反対意見も十分に検証した気分になってしまっていた。

当時は、識者と呼ばれる人の中にも日本の国家破産を声高に叫ぶ人がいたし、書店には国家破産本が並んでおり、ネット上には国家破産が起きた場合の惨状について書かれたものが氾濫していた。こうした情報を吸収する中で日本の国家破産は自分の中では既定路線になり、あとは、それが「いつ起こるのか?」だけが問題になっていった。

 

国家破産が起きた場合、程度の差こそあれ、起こることはある程度決まっている。

・インフレ率の急上昇
・通貨価値の下落
・長期金利の上昇

当時の僕はこれに備えるための手段を調べ、いくつか実行に移していた。お陰で金融関係の知識を得ることができたが、こうした行動に移すことによって、近い将来、国家破産が起きるという考えはより強固になり、思考が偏っていき、自分の中で国家破産は起こるべきものになっていった。

実際に公平に情報を仕入れ、仕組みがよく分かってくれば、現在の日本の状態で、そんなに簡単に国家破産なんて起こるわけがないことが分かる。もちろん、何かの要因によって、ずっと低金利に抑えられている長期金利が急激に上昇を始めれば危機的な状況に陥るから、全くあり得ない話ではないけれど、巨額の財政赤字があるから国家破産が起きるってのは、かなり乱暴な考え方だと思う。

 

僕が国家破産論にのめり込んだ流れは、デマや陰謀論を信じていく流れによく似ていると思う。「えっ、そうなの!?」「えっ、ヤバいじゃん!」といったところから、バイアスがかかった状態で情報を仕入れ、やがて考えは強固になり、信念めいたものに変わっていく。最終的に、デマや陰謀論が否定されることは自分自身のアイデンティティーを否定される事と同じような感覚に陥っていくのだ。

SNSとエコーチェンバー現象

いまやSNSによって24時間どこにいても世界中の人とコミュニケーションをとることができる。一瞬で地球の裏側の人とまで繋がれて、場合によっては本当に友達になり、付き合いが始まることもあるわけで、SNSはとても開かれた空間のように感じられるが、実際のところどうだろうか?

例えば、僕はよくFacebookに自分が住んでいる安曇野の綺麗だと思った風景写真を投稿する。すると「きれいですねー。」とか「行ってみたい!」といった共感のコメントがつく。人に共感してもらえることは嬉しく楽しいから、また、投稿する。もし「つまらない写真を載せるな!」なんてコメントが付けば、僕はその人をブロックするだろうし、そもそも、そう思った人は、わざわざコメントなど書かずにスルーしていくはずだ。つまり、僕の投稿にはある程度僕と同じ感性を持ってる人が集まってきているわけだ。

そう考えると、様々な国の人や老若男女と幅広くコミュニケーションがとれるようでいて、かえって感性的には実社会より狭い範囲の人とのコミュニケーションになっているのかもしれない。

さらにグループなどになれば、一定の信条だったり趣味だったりと、共通したものを持つ人の閉鎖された空間になってくるから、そこでの投稿はさらに共感が得られやすくなってくる。グループ内では、自分と同じ意見がたくさん寄せられ、それを見聞きし続ける中で自分の意見や考えが増幅・強化されていく。こういうのをエコーチェンバー現象なんて言う。

上で書いた日本の国家破産の話も、それについての掲示板を読んでいくうちに、自分の中で考えが強化されていった部分もかなりあったと思う。

これが陰謀論などをSNSのグループ内で話すような場合は、エコーチェンバー現象によって信念に変わり、さらにはアイデンティティーにまで高められていくことが容易に想像ができる。特定のグループで、エコーチェンバー現象が起きる場合、そのグループは自分の外部に置いたアイデンティティーと言ってもいいかもしれない。

 

 

ひとたびデマや陰謀論が自分自身のアイデンティティーにまで高められてしまうと、他人の反対意見が受け入れられなくなってくるのはもちろん、自分自身でおかしいと気づいても、それを否定することが難しくなってきてしまう。

しかしながらデマや陰謀論にも一定の真実が含まれていることがあるから、その背景を調べてみる事は大切だ。「えっ、そうなの!?」という、にわかには信じがたいけれど真実味を帯びていると感じた情報を調べる時は、自分自身の中にそれを信じたい衝動がないか、正当化する情報だけを熱心に見て否定する情報を軽く受け流していないか、さらにSNSから情報を受け取っている場合は、エコーチェンバー現象の罠に嵌ってないかを、本当に冷静に自分に問いかけながら調べていく必要がある。そうして一歩引いたところから、調べることが出来れば、デマや陰謀論からも多くを学ぶことが出来る場合がある。

そもそも我々はデマや陰謀論を好みやすい習性をもっているということを肝に銘じて、細心の注意を払って上記のようなことを意識して情報に対峙しないと、デマや陰謀論に飲み込まれてしまう。そのくらい、昨今のネット上の情報は、何が真実かを見極めるのが難しくなってきているのだ。

天蚕の真綿を作成

小学生からの手紙-カイコと天蚕

何年か前に近所の小学校の総合学習の時間にカイコとヤママユガについてお話をさせてもらった事があった。後日、小学生からお礼の手紙をもらったわけだが、そこにはたくさんの質問が書かれていた。

昨日、たまたまパソコンの中を整理していたら、その時の質問に答えた僕の返事の文章が出てきた。改めて見返してみると小学生の質問の鋭さに驚かされる。大人になると、こういった鋭い質問ってなかなか出てこないようになってしまう。

その事について書く前に、まずは家蚕と野蚕、そしてこの地域の天蚕飼育について簡単に書いてみたい。

家蚕と野蚕

シルクを吐き出す虫と言えばカイコが思い浮かぶと思うが、カイコ以外にもヤママユガの仲間の繭からもシルクが生産されている。中国や東南アジアなんかでは、今では少なくなっているとは思うが、ヒマサンやシュンジュサン、サクサンといったヤママユガの繭からシルクを生産している。カイコは家の中で桑の葉や人工飼料を与えて飼育するのに対し、上記のヤママユガの仲間は基本的には野生のものである。そのため、カイコを家蚕(かさん)、ヤママユガの仲間でシルクを作り出す虫を野蚕(やさん)と呼んでいる。
アニメの蟲師の中に山の中に入って繭をとる場面があったが、あれは野蚕つまりヤママユガの仲間の繭ということになる。

天蚕(てんさん)飼育

上記のヤママユガの中に日本固有種の天蚕(てんさん)と呼ばれる虫がいる。
天蚕はクヌギの葉を食べて、下の写真のような黄緑色の繭を作り、生糸も渋めの緑がかった独特の色をしている。天蚕糸は繊維のダイヤモンドと言われ、カイコのシルクの上をいく最高級シルクだ。

天蚕の繭

天蚕糸

天蚕糸はとても高価なシルクなので、現在では、高級着物の模様部分だけに使ったりする程度のようだ。天蚕糸だけで着物を一着作ったら、田舎だと家が建つくらいの金額になるのかもしれない。現在では全国でも、実質、天蚕糸の生産地と呼べるのは、長野県安曇野市穂高の有明地区のみではないかと思う。

小学生と天蚕

日本で唯一と言ってもいい天蚕の生産地区である有明地区の小学校には、天蚕の飼育施設があり、小学生が天蚕飼育を体験する。そして小学校を卒業する時に天蚕の繭でコサージュを作り、感謝を込めて、それを親に送る。そして親は下の写真のように、そのコサージュをつけて小学校の卒業式や中学校の入学式に出席する。なかなか素敵な伝統だ。

天蚕のコサージュ

小学生の質問

上記のような背景の中、僕が話をしたクラスではカイコ(家蚕)も教室で飼って観察をしていた。僕は家蚕と野蚕の違いから始まって、カイコの実験動物としての側面や昆虫ホルモンなんかの話をそのクラスで行った。その時の子供たちのキラキラと光った目は印象的で今でも憶えているし、あの光の奥にあるものは、まさに宝物だと思う。

以下は生徒たちが送ってきてくれた手紙にあった質問に対する僕の当時の回答だ。

 

カイコの由来は?
教室でもお話させてもらいましたが、元々はクワゴという野生のカイコの先祖を長い時間をかけて品種改良したものだと言われています。これが定説になっていますが、クワゴの繭は小さく、とても絹糸がとれるようなものではありません。
クワゴに比べると、ヤママユガの仲間は品種改良しなくても、絹糸がとれたわけですから、わざわざ、絹糸がとれないクワゴから品種改良をしてカイコを作ったというのは、不自然なので、今では見られなくなってしまった別の種類の虫からカイコが作られたのではないかという説もあります。

■若返りホルモン(幼若ホルモン)でどこまで大きくなるのか?
大昔の記憶なので、あまり確かではないかもしれませんが、天蚕の5齢幼虫よりも少し大きくなったような記憶があります。でも、最終的に繭は作れずに幼虫のまま死んでしまいます。
ちなみに、カイコはたまに2匹で一つの繭を作る事があります。とても大きな繭になりますが、よい絹糸はとれないので、養蚕農家では、売り物にならない繭として処理されていたと思います。

■縛ってもなぜ死なないのか?
逆に言えば、死なない程度に縛るって事になります。でも、かなり細く縛っても大丈夫です。その細いところを通って、いろいろなものが流れていると思います。脱皮ホルモンと若返りホルモンのバランスで、脱皮したり、しなかったりします。だから、縛っても、脱皮ホルモンが全く流れていかないわけではなく、その量が少なくなるために、脱皮が起こらなくなるという事だと思います。

■どうして人が世話をしないといけないのか?
この前もお話しましたが、カイコは足の力が弱いので、野生では木につかまっていられません。つまり自分ではエサを探して木の上を動けないわけです。だからエサを人にもらわないと生きていけません。つまり、人の世話なしでは生きられないってことです。

■目のような模様は何か?
実はあの模様が無く、白く、のっぺりしたカイコもいます。あの模様は昔の野生時代のなごりで、鳥が目玉模様を嫌うので、鳥から身をまもるためのものと言われています。現在のカイコには必要ないものかもしれませんね・・・。

■なぜ桑の葉しか食べないのか?
簡単に言うと、カイコは桑の葉が好きだからです。正しくは、桑の葉にはカイコの嫌いな臭いが無いっていうことです。でも、桑の葉以外にも、和紙の原料になるコウゾや、ツリガネニンジンの葉なども食べるようです。でも、桑の葉以外では、いい繭は作らいそうです。最近では、品種改良されて、リンゴの実を食べるカイコもいるようです。もちろん、リンゴの実だけでは、まともに育ちません。

なかなか鋭い、いい質問ばかりだ。
この後、子供たちは昆虫ホルモンの実験のためにカイコを縛り、何頭か失敗して殺してしまったようだけれど、その好奇心に突き動かされて実行する行動力も素晴らしいものだと思う。

 

この子供たちの中から将来、養蚕家を志す人が出てくるってことはないだろうし、昆虫生理学を志す人が出てくる可能性だって極めて小さい。そして、カイコについて学んだことが直接なにかの役に立つこともないだろう。でも、子供たちは、そんな事はカケラも考えていない。今、目の前にあることに純粋に好奇心を抱き、行動し、楽しんでいる。

これが大人になると、なかなか出来ない。現在の生活や仕事に役立つのか、将来的に役立つのか、そんなことに捉われて、純粋に好奇心を抱き、それを満たすことを忘れていってしまう。

これが忘れていってしまうだけでなく、中学生、高校生になるにつれ、周囲の大人は受験等の結果につながる好奇心のみを推奨し、本当に純粋な好奇心を潰すような言動を始めてしまうことが多々ある。学校現場なんか、それが顕著なのではないだろうか。もちろん、そういった言動をする大人たちは、それに気付いていない。

大人になっても純粋な好奇心を持ち続けている人ってのは傍から見ても魅力がある。僕がカイコの話をした時に子供たちの目の中に見たキラメキを大人になっても持っているからだ。そのキラメキに人は惹かれるのだ。

純粋な好奇心っていうのは人生を豊かにするものであり、創造の種だ。だから、僕は純粋な好奇心を忘れてしまった大人に、それを取り戻して欲しいと願っている。そのためにも学び続けなければならない。

今後、そんな純粋な好奇心を取り戻してもらう、きっかけとなるようなワークショップを提供できたなら、こんな嬉しいことはないと思っている。