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Archive: 2021年3月31日

SHIN MIC のスタートです!

1月から少しずつ準備を進めてきたSHIN MICですが、いよいよ4月からスタートします。
とは言っても、事務所の準備等で本格始動は4月半ばくらいになってしまいそうですけど。(^^;

思考と探求のスキルをベースに、言語、コンピューター、金融、歴史、趣味に至るまで、様々な内容をオンラインレッスン、オンラインフォーラム、ワークショップ、教室で、人生を豊かにする学びを目指して提供してまいりたいと思います。

まだ、オンラインレッスン等のコンテンツが少ないですが、これから、どんどん増やしていく予定です。6月には教室の方もスタートさせたいと考えていますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。(^^)

SHIN MICでは「みなが先生、みなが生徒」という考え方のもとにコミュニケーションを通しての学びを大切に考えています。コミュニケーションの中での気づきと、考える事の大切さに気付いてもらえる内容を提供していきたいと思っています。

例えば、最近よく言われる異文化理解、多様性、SDGs、LGBTQなんかも、行政や学校等で、言葉は振り回されますが、言葉を振り回しているだけで、実際にやっていることは真逆なんてケースが多々あります。言葉を唱えながら、そこにあるのは、批判をされないようにという消極的な思考で、同調意識しかありません。今回のコロナの件でも、それがよく出ていると思います。もちろん、当事者はそれに気づくことすらできていないのが現状です。

同調するだけではなくて、一歩踏み込んで、それについて調べ、よく自分自身で考えてみるという意識が大切だと思います。そういった姿勢を習慣化できれば、視野が広がりますし、自分自身の可能性も広がってきます。

SHIN MICでは、ワークショップも様々な内容を提供する予定ですが、最終的には、気づき、自分自身で考え、学びを得るというところに、到達できるものにしたいと考えています。

人生を豊かにする楽しい学びを、一緒にしていきましょう!!(^^)

よろしくお願いいたします。

ドル円月足巨大三角持ち合い

ドル円の巨大三角持ち合いと日本の行方

ドル円が2015年6月の124円を天井にそれ以降、巨大な三角持ち合いを形成している。そして、ちょうど今現在、その巨大な三角持ち合いの突破をチャレンジしているところだ。ドル円の上下動のサイクル的にも、僕はこの三角持ち合いを突破する可能性の方が高いと思っている。

個人的にはスミソニアン体制以降、約40年続いた円高は2011年10月の75円台で終了したと考えている。だから、今後、上下しつつも基本的には大きな流れとして円安方向に向かっていくのではないかと想像している。つまり、現在の巨大な三角持ち合いを上方に突破すれば、上下動はあっても最終的に124円を上回っていくんじゃないかと想像している。

2015年6月からの円高傾向は終了し、暫く円安傾向に変わっていくのではないかと感じている。これはテクニカル分析とかファンダメンタルズとかではなくて、チャートの雰囲気から、なんとなく僕が感じているものだ。もちろんテクニカル的にもファンダメンタルズ的にも分析すれば、様々なことが言える。でも、その分析は絶対ではない。外れることも多いのが相場というものだ。論理を超える「なんとなく」の記事でも書いたが、少なくとも僕の場合は、最後の決め手は「なんとなく」だ。

その「なんとなく」が今後、数年は円安傾向になるんじゃないかと僕に言っている。

チャートを見ていて感じることだが、値動きについて専門家が様々な分析を行うが、所詮、相場は相場の動きたいように動いていることを感じる。変な話だけれど、相場が動きたがっている方向性が感じられた後に、その方向に動くための社会の動きや事件があるように僕には感じられるのだ。

 

日本経済にとって円高が良いのか、円安が良いのかは議論が分かれるところだ。もちろん極端な円高、円安はよろしくない。ただ、これまでの感覚では円安傾向にあった時の方が経済的には良かったような気が僕はする。

今後、暫く円安傾向にあるとすれば、過去の肌感からは日本経済は比較的良いはずだ。もちろん、極端な円安になれば話は別だけれど。だから、今、コロナの第4波が言われたりしているけれど、なんとなく、今年はコロナも収まり、人の往来も増え、日本経済は上向いてくるんじゃないかと思ったりする。もちろん、これには僕の願望も入っているかもしれないけれど。

 

相場の動きに関しては、穴が空くほどチャートを眺め、幾つも線を引いて分析して判断を下すよりも、僕の場合は少なくとも「なんとなく感じる」ってのに従うのが一番確かだ。そして、相場が動きたがっている方向を感じると、それに合わせるような実社会での動きが出てくるってのが僕の感覚だ。

これはあくまでも「なんとなく」であり感覚的なものだから、そこに論理性はない。でも、これが、案外当たる。この「なんとなく」はもちろん、さんざんチャートを眺めたから感じるものであって、初めてチャートを見た人が感じるものではない。つまり、経験によるものであることは確かだ。その経験というのが、過去の情報処理であるとするならば、それはテクニカル分析の範囲に入ってくるものだ。でも、「なんとなく」はテクニカル分析的な判断と逆を示すこともある。だから単純に過去の情報処理ではないだろう。

つまり、人は経験の中で、第六感と呼ばれるものなのか、なんなのか分からないけれど、論理の外側部分での学習を行っているのだろう。

分野が何であれ、この論理の外側で学習しているものは、人が生きていく上で糧になるものだ。だから、この「なんとなく」がどこからやって来るものなのか、今後、考えていきたいと思っている。

有料フォーラムの人生を豊かにする楽しい学び塾では、そんな事も、皆さんから例をあげてもらいながら、考えていきたいと思っている。

DNA

セントラルドグマからの逸脱と甲羅干し休憩

セントラルドグマとは分子生物学の中心教義とされるものだ。
遺伝情報はDNAからmRNA(メッセンジャーRNA)に転写され、mRNAが核内から細胞質に出て、細胞質内のリボソームに辿り着き結合する。リボソームにはtRNA(トランスファーRNA)がアミノ酸を運んでやって来る。tRNAはmRNAの情報を読み取り、リボソームの酵素作用によってペプチド、さらにはタンパク質が作られる。このDNAからタンパク質ができるまでの一連の流れがセントラルドグマと呼ばれるものだ。

ドグマと呼ばれるくらいだから、この一連の流れは細菌から人間にまで共通する基本原理とされてきた。

 

ところが、イカの神経細胞はこのセントラルドグマから逸脱していることが分かったそうだ。

Nucleic Acids Research
https://academic.oup.com/nar/article/48/8/3999/5809668

まあ、イカ、スゲー!って話なんだけど、我々一般人は科学的に正しいことが正しい、もしくは真実味があると感じる傾向がある。でも、このイカの話のように、科学的に正しいとされることも新たな発見や理論によって覆されていくことが多々ある。

かつて、ガリレオは裁判によって有罪を宣告され、地動説を放棄させられてもなお「それでも地球は回っている」とつぶやいたらしいが、今では本気で天動説を主張したら、「バカなの?死ぬの?」くらいの勢いで叩かれそうだ。正しいとされることが正反対になってしまったわけだ。

ところが20世紀後半になって、天動説を主張した日本人がいる。それが、薬師寺元管主で「昭和の怪僧」と呼ばれた橋本 凝胤(はしもと ぎょういん)だ。

 

橋本はスプートニク打ち上げのテレビ中継を報告に来た新聞記者の青山茂に「お前もとうとうソ連やアメリカの陰謀にはめられたな。テレビで見たいうけど、テレビで見たのがみなほんまやと思とるのか。テレビの向こう何もないやないか。実際に経験して見たこというとんやないやろ。ブラウン管に映ったり新聞に載ったりすることだけ信じてるのやが、そんなん、わしは信じやへん。」と戒めた。後年青山は「科学や教えられた事以外に別の世界があるぞ。と教えてくれのかも知れません。」と述懐している。

ウィキペディア

 

橋本 凝胤は、自分はお天道様が毎日自分の上を回っていくのを見ている。それでいいじゃないか!地動説なんか、教科書に書いてあるのを見ただけで、自分の目で確認したのか?と言っていたなんて話もどこかで読んだ記憶がある。ちなみに橋本 凝胤は東京帝国大学出身だから、少なくとも秀才さんだ。

言われてみれば、我々が正しいと信じている知識のほとんどが、自分で確認したものではない。上に書いたセントラルドグマだって、高校だったか大学だったかは忘れたけど、生物の授業で習っただけのもので、それを自分で実際に確かめたものではない。それでも、やはり僕はDNAからmRNAの転写や、そこからの翻訳を正しいこととして人に話している。

僕は、我々は実際に自分で確かめてもいないのに正しいことだと信じているものだらけであるということを、意識に留めておく必要があると思うのだ。

甲羅干し休憩

夏場、海水浴や炎天下での作業に出るとき「また、日焼け止め塗ってないんじゃないの~」とよく嫁さんに怒られる。

うちの嫁さんは紫外線は有害なものと認識しているから、太陽光をたくさん浴びるような場合の紫外線対策は必須だ。

ところが、僕が子供の頃の小学校の水泳の授業時間には「甲羅干し休憩」という時間があった。これは体温と体力の低下を防ぐためのものだったのだろうけど、「甲羅干し休憩」の間は、うつ伏せに寝転がって、ひたすら太陽の光を浴びて日に焼ける事が推奨された。当時は、なぜか、夏の間に日に焼けると冬になってから風邪をひかないと信じられており、とにかく日に焼けて黒くなることが健康の証のような風潮があった。夏休み中もプールに通い、せっせと日焼けに勤しんだことを憶えている。別に日に焼けなかったからと言って怒られることもなかったが、夏休み明けに日焼けして学校に行くと褒められたものだ。

嫁さんは僕の12歳年下なのだけれど、この「甲羅干し休憩」の話をすると、

「頭、大丈夫?」
「虐待レベルだよね!」

と「甲羅干し休憩」という単語もあってか、バカうけしていた。
ほんの10年くらいの間に世の中の認識が大きく変わったってことだろう。
良いとされていた事が、悪い事になってしまっていたのだ。

日本は同調圧力が高い社会

暫く前にレストランのレジに並んでいた時のことだけど、僕の後ろから人が詰めてきたので、半歩前に出たところ、前にいたおじさんに「ソーシャルディスタンス!」と厳しい口調で言われ、睨まれた。そんなに、くっついたわけじゃないし、そこまで神経質になるなら外食なんか、するなよ!って思いながらも「すいません」と謝ってはおいたけど。

日本は同調圧力が強い社会で「ソーシャルディスタンス」という言葉が出始めると、やたらと、その言葉が振り回され、少しでも、その言葉から外れた行動をすると、僕のように怒られてしまう。まあ、この同調圧力が強いからこそ、日本は治安が良かったりするのかもしれないけれど、その一方で、学校の中なんか密もいいところだ。ソーシャルディスタンスと書かれた貼り紙をあちこちに掲示しながら、体験入学なんかやろうものなら、外部からも人が入って来て、かなりの密だ。ところが、面白いことに、これは許されるのが日本の社会なのだ。検温もしているし、出来る事はやっているのだから、仕方がないと思うのか、誰からも苦情が出ない。これに関して、おかしいと主張しても、出来る事はやってるし、仕方がないってことでスルーされてしまう。

レストランの例も、下の学校の例も、話は逆だけれど、どちらもソーシャルディスタンスは感染を防ぐための対策という目的を考えると論理性を欠いている。少なくとも僕の中ではソーシャルディスタンスという言葉を様式化しただけの、ただの茶番だ。

考えることをせずに、周囲に同調することは楽なのだ。そして、社会的にも同調圧力が高いのが日本だ。学校の例は、先の大戦で無謀な戦争を延々と続けてしまった当時の政府の感性に近いものを感じるし、レストランのおじさんには、ちょっとしたことで、非国民!と周囲の人を突き上げていた人の感性と近いものを僕は感じてしまう。

上でも書いたように、正しいと信じられている事は、往々に覆されてしまう。天動説が正しいとまでは言わないけれど、それでも、実際に自分で確認したり考える事を意識して、それをすることは、とても大切だ。

同調することは、ある意味楽だし、同調圧力のメリットもあるけれど、日本はそれが高い社会である以上、より一層、自分で確認し、考える事が大切だと思うのだ。

絶対的な正しさなんて無いのだから。

SHIN MIC オフィス

Spring Cleaning: Shin MIC headquarters

Hi ~

 

It is the end of March and this means that we are preparing to enter the next fiscal year, which in Japan begins in April. That is why we are cleaning up our headquarters.

We have decided to set up shop on the third floor of a building, the one that you can find the address of on our page. We are planning on setting up a little office and a classroom for our workshops.

Actually, it looks like it is going to take some effort to make these two rooms comfortable, but I will upload some pictures to keep you updated.

In the meantime, in the picture you can see how the office is looking at this specific moment.

単語

fiscal year 会計年度

headquarters 本部

set up shop 営業・店を開く

テセウスの船

テセウスの船:同一性の認識を考えてみる

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

プルタルコスは全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのかという疑問が生じる。

テセウスの船(テセウスのふね、英: Ship of Theseus)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。

ウィキペディア テセウスの船

上は「テセウスの船」というパラドックスのウィキペディアからの引用だ。

僕は全ての部品が交換されても、それが年月をかけて徐々に行われていったものなら、やはり、それはテセウスの船だと感じる。

しかし、短期間に全ての部品が交換されたのなら、それはレプリカだと感じてしまう。

皆さんはどう感じますか?

我々の体も常に細胞が新しくなり、物質的には体の大方が7年ほどで入れ替わるようだ。人の場合、物質的にほとんどが入れ替わっても、テセウスの船のように考える人は、まずいないだろう。物質的に入れ替わっていても、考える余地もなく同じ人だ。

アニメやドラマの世界なんかだと体と人格が入れ替わるなんてのがよくある。この場合、我々は、当たり前にのように、体ではなく人格側を本人だと認識して見ている。つまり物理的なところではなく、本人の記憶や思考、性格、アイデンティティーを本人と認識しているということだ。

では、記憶喪失になり、自分が誰かも分からず、しかも性格も以前とは変わってしまっている人の場合はどうだろうか。この場合、記憶喪失になって別の人のようになってしまった!というような表現を使ったりする。記憶や性格、アイデンティティーさえ失っても、やはり、我々はその人を本人だと認識する。

こうして考えてみると、アニメや映画の「攻殻機動隊(Ghost in the Shell)」ではないけれど、本人かどうかってのは、信じる信じないに関わらず、その人の魂部分を感じ取っているのかもしれない。

人ではなくても、例えば神社は、遷宮の度に作り替えられていく。時の移り変わりとともに社は物理的には別物になっていくが、同じ神社として人はそれを認識する。もし仮に災害等で神社の社を建て直した場合、それは物理的には全く別物のはずなのに、それを別の神社だと人は認識しない。

車やなんかでも、長年修理をして部品を交換しながら乗っているものは、例え大部分の部品が交換されて物理的に別のものになっていても、やはり自分の愛車だ。しかし、同じ車種の新車を持ってきたら、それは、もはや自分の愛車という認識はない。これは思い出の品やなんかでも同じことが言える。

つまり、物であっても、同じ物かどうかを考える際に、我々の思念のようなものが深く関わっているという事だろう。

よく霊魂は不滅だ!なんて言ったりするけど、我々が霊魂だとか神だとか呼んでいる時間の影響を受けない何かを我々は感じ取り、それを同一性の尺度にしているのかもしれないなんて想像してみたりもする。(^^;

少なくとも物理的に存在するものは全て、1秒たりとも全く同じ姿を保つことは出来ない。時間の影響を受け変化し続けている。しかも我々生物には成長や老化という変化までついてくる。

同級会とかに参加すると、いつも思う事だが、皆、見た目は中学生や高校生の時とは、当然、随分変わっている。でも暫く話すと当時となんら変わりない感覚になってくる。皆、それぞれ、色々な経験をして多くを学んできていても、その人の本質ってのは、そう変わるもんじゃないことを僕は感じる。

この本質というのが魂なのか、なんなのかは分からないけれど、おそらく、それが時間の影響を受けない何かなのかもしれない。

「その人」という本質を変えることが出来なくても、我々は考え方は変えることができる。この世の物は時間の経過とともにすべてが形を変えていく。もちろん社会全体の考え方も変わっていく。

人の本質が変わらないものだとすれば、時間経過による変化に対して、自分自身の考え方を変えて対応していくいしかない。その為に常に学び続け自分自身をアップデートしていく必要があると思うのだ。

有料フォーラム「人生を豊かにする楽しい学び塾」では、この自分自身をアップデートすることを、皆で話し考えていきます。(^^)

デジタルユーロ

デジタルユーロ|CBDC(中央銀行デジタル通貨)構想

[フランクフルト 19日 ロイター] – 欧州中央銀行(ECB)のパネッタ専務理事は19日、ECBが発行するデジタル通貨(CBDC)である「デジタルユーロ」について、ECBは構想を先に進めるか年央あたりに決定すると述べた。ただ、正式な発行は約5年後になるとの見通しを示した。

REUTERS
https://jp.reuters.com/article/ecb-euro-digital-idJPKBN2BB1PL

 

上のロイターの記事によると、ECB(欧州中央銀行)が5年後にデジタルユーロの発行を目指しているようだ。実現すれば社会全体に大きな影響を与えるだろう。

このように中央銀行が発行するデジタル通貨をCBDC(中央銀行デジタル通貨)と言う。CBDCはCentral Bank Digital Currencyの略だ。まあ、そのまんまの名前なんだけど。(^^;

実はCBDCは、ECBに限った事ではなく、各国の中央銀行が研究したり、導入を検討したりしている。アメリカや日本はCBDCに対して比較的消極的だが、その準備と研究は行っている。そして積極的な中国は既に発行目前だ。

調べてみるとCBDCの定義はあいまいだが、日銀によるとCBDCとは以下の3つの条件を満たすものということらしい。

(1)デジタル化されていること
(2)円などの法定通貨建てであること
(3)中央銀行の債務として発行されること

技術的にはビットコインの根幹技術であるブロックチェーンを利用するケースが多いと思われるが、ビットコインのように管理者がいないオープンなものではなく、あくまでも中央銀行という管理者がいるブロックチェーンだ。だから、決済がスピーディーになったり、お金の管理が楽になったりといったメリットはあっても、あくまでも現在の法定通貨の電子版ってことだ。

最近のビットコインの爆上げぶりを見ても分かるが、ビットコインのような仮想通貨はボラティリティ(価格変動)が高く、日常の決済に使用しずらく、一般的な通貨として浸透するのは難しいと言われている。

そこで、出てくるのがステーブルコインというもので、米ドルなどの安定した通貨の価格に紐づけされたデジタル通貨だ。代表的なものがFacebookが研究、開発を主導した「Libra(リブラ)」だ。しかし、これも世界の規制当局から警戒されて反発を受け、現在ではFacebookから距離をおいて「Diem(ディエム)」と名称を変更して、発行目前まで漕ぎつけきているようだ。

5年後のデジタルユーロの発行を目指すECBの方針を読むと、明確に書いているわけではないが、ユーロ圏へのデジタル人民元や、ステーブルコインのDiem(旧Libra)の流入と、その影響力の拡大に対抗するために、デジタルユーロの発行を急いでいるように思われる。

暗号通貨

中国の一部ではビットコインのマイニングが禁止されているし、インドでは仮想通貨の取引だけでなく保有も禁止する法案が提出される方向らしいから、各国当局の仮想通貨に対する警戒感と嫌悪感は相当なものがあるだろう。

それにも関わらず、ビットコインは爆上げし続けているし、企業や中央銀行が、その技術を取り入れ、それぞれデジタル通貨発行を考えていることからも、時代の流れが、そちらに傾いていることを感じる。

デジタルユーロ、デジタル人民元、Facebookから始まったDiem、みな発行に対しては、様々な研究、想定を行っている。それでも、こういったものってのは、地震や津波の予測と同じで、想定外のことや想像を遥かに上回る事が起こる類のものだ。

そもそも、現代の我々が当たり前に受け入れている管理通貨制度や中央銀行システムと通貨発行は、調べてみれば、通貨量と借金を延々と増大させていく摩訶不思議なシステムだ。ここでは割愛するけれど、興味のある人は調べてみて欲しい。世界には、現代の通貨発行システムを詐欺だと告発する人がいるくらい、我々は不思議な世界に住んでいるのだ。個人的には、現代の通貨システムが限界に近づいてきているような気がしてならない。

だから、今後、CBDCやステーブルコインが流通し始めた時ってのは、各国の中央銀行からすると想定外の事が起こるような気がしてならない。そして、それは金本位制から管理通貨制度に移行したような、歴史的な大きな出来事に繋がっていくのかもしれないと想像してみたりもする。

とにかく、現代の我々は、ありとあらゆる分野で大きな変化に繋がる種が蒔かれたような世界に住んでいる。特に通貨発行のシステムが変わるようなことがあれば、世界は劇的に変化するだろう。

だから、あっという間に正解が不正解になり常識が非常識になる世界に我々は生きているということをよく自覚して、常に学び続け、変化に対応できる感覚を養っていかなければならない。

僕が勤めた学校のように、何かにつけて「常識的には・・・」「一般的には・・・」を連呼している場合ではないのだ。それを連呼すれば自分の頭で考えずに済むから楽だけど、変化に対応するためには、調べ、考え、学ばなければならないのだ。

謎の町コフィービル(Coffeyville)–googleアナリティクスとカンザス問題

SHIN MICを公開してまだわずかな期間だけど、お陰様で徐々にアクセスも増えてきている。海外からのアクセスもパラパラと見られ、北米、ヨーロッパ、インド、東南アジアからのアクセスをよく目にするようになってきた。

そんな中、毎日、Googleアナリティクスで目にするのがアメリカ合衆国のコフィービル(Coffeyville)というカンザス州南東部の町からのアクセスだ。同じアメリカでも、ニューヨークとかロスアンゼルスのような聞きなれた大都市ではなく、コフィービルという今まで聞いたこともなかった町からのアクセスがやたらと多いのだ。コフィービルって、どんな所だろうか?と、調べてみるも、人口10,000人ほどの小さな町で、こんなアメリカの小さな町から、公開して間もない、しかも日本語メインのサイトに、毎日複数人がアクセスしてくるなんて、どうしたって、おかしい。

コフィービルには一体なにがあるんだ?
謎だ!!

そこで「Google Analytics Coffeyville」で検索してみると、コフィービルからの大量アクセスに困惑している欧米のサイトオーナーは結構多いようだ。

GoogleアナリティクスはトラフィックソースのIPアドレスをサードパーティのデータソースに送信して、場所を特定している。そして、サードパーティのソースが訪問者の位置の正確な記録を持っていると判断した場合には、それを表示する。しかし、サードパーティのソースから正確な場所を特定できない場合、それがアメリカ国内であれば、不明と表示する代わりに、アメリカの地理的中心に位置するカンザス州のコフィービルを表示するということのようだ。

場所を特定できないアメリカ国内からのアクセスは全てこのコフィービルという町に表示されるということになる。つまり、コフィービルからの大量アクセスは、アメリカ国内のあちらこちらの場所を特定できないアクセスの寄せ集めということだ。だから、決して自分のサイトがコフィービルで人気があるということではない。笑

これはカンザス問題なんて呼ばれているらしい。

紛らわしいこと、この上ないけど、まあ、アメリカのどこかから毎日のようにアクセスがあるから、よしとしよう!と、こう思えるのは日本に住む僕だからであって、アメリカ国内で、このアクセス元の地理情報を見て広告戦略やマーケティングを考えている企業にしてみれば、けっこう深刻な問題なのかもしれない。

とりあえず、疑問に感じたら何でも調べてみると、こんなふうに結構、面白いことが分かったりする。そして、こうやって得た知識が、またどこかで役に立ったり、繋がったりするから、疑問に思ったことをスルーせずに調べてみるっていう意識は大事だと思う。

それでも、なんか気になるコフィービル!

いつか、機会があれば行ってみたい。(^^)

 

WordPressでブログを運営してみよう!

WordPressとは、個人ブログから大規模サイトまで作ることができるオープンソースのソフトウェアだ。現在ではWeb上の40%のサイトがWordPressを使用していると言われている。無料で使えるのに非常に高機能かつ洗練されたデザインのサイトを作成することが可能だ。

大規模なサイトでは、例えば、ニューヨークタイムズルノーソニーミュージックなんかがWordPressを使用している。もちろんSHIN MICもWordPressで作成しているし、お店や会社のホームページも外注するとWordPressで作られることが多いんじゃないかと思う。

しかも、専門的な知識がなくても一般的なブログと同じような感覚で記事を作成し公開することができるし、プラグインと呼ばれるものをインストールして、様々な機能をサイトに追加することも可能だ。

機能を追加すれば、ショッピンサイトや自前のSNSを作成することもできるし、様々な既存の大手SNSとの連結も可能だ。

 

実は僕は個人ブログもWordPressで作ったブログを使っている。

http://yamura-yasuke.club/

基本的には趣味的にスマホで撮る安曇野の写真を投稿してるのと、あと、たまに気づいたことや自分自身が勉強になったことを書き留めているだけのブログで特別な機能は追加してないものだ。googleのアドセンス広告を貼ってあるから、その広告収入でレンタルサーバー代と通信費くらいは賄えている。

そしてブログに書き留めた内容が、後になって大いに自分自身にとって役立っている。例えば勉強になったと思った事をブログに書こうと思えば、多少なりとも僕のブログを見た人が分かるようにと意識して書くから、数年後に、あれって何だったっけ?と見直した時に、自分にとってそれはとても分かりやすい。それに、書くことによって知識そのものが、比較的自分の中に残りやすいというメリットがある。

しかもブログを運営していると、自然と、ネット関係の知識も増えてくる。お恥ずかしながら僕はRSSなんてものも、WordPressでブログを作っていく中で初めて知ったのだ。笑

RSSを使えば、他サイトの投稿を自分のサイトに流し込んだり、逆に自分のサイトでの投稿を他サイトへ流し込むことも可能だ。

たまたま近所の旅館のご主人が、「お客さんに季節の安曇野の写真をホームページに載せてくれ!って、よく言われるけど、そんな写真を撮って歩く間もないし、撮ったところで自分では載せられないし・・・」とぼやいていたので、それなら!と僕がブログに投稿する風景写真をRSSを使って旅館のホームページに流し込むことにした。下の旅館ホームページの下部の「季節の安曇野の風景をお届け!!」が僕のブログの投稿を流し込んでる部分だ。これが、めっぽう評判がいいようで、集客に繋がっていると旅館からは喜んでもらっている。

http://nishiyabesso.co.jp/

とにかくWordPressでブログを運営すると色々と勉強にもなるし、色々な事ができてしまうのが楽しい。

お店や会社でWordPressを使用したホームページをお持ちのところは多いけれど、ほとんど触ることもなく放置しているところも多い。こんなにも色々なことが出来るWordPressだから、もったいないな~って思う事がしばしばだ。

WordPressには専門的な知識が無ければ、扱えない部分もあるけれど、そんな専門的な箇所を触らなくても、Wordpressの全体的な仕組みさえ分かれば、かつては大きなお金をかけなければ実現できなかったことが、素人でも簡単にできてしまう。

それにブログを書いていると、思いがけないところからの問い合わせがあったりする。僕の場合であれば、写真が多いので、国内外の旅行関係サイトや雑誌会社、行政やテレビ局等から、写真を使わせて欲しいといった問い合わせがしばしばある。これはこれで、なんか愉快になれる。

僕の場合、個人ブログをWordPressで作った経験があったから、このSHIN MICのサイトも作ることができた。ちょっとだけ真剣にWordPressでブログやサイトを作成したり、運営したりすれば、随分と多くのことを学べると思うし、とにかく楽しい。そして、やがて自分の世界も少し広がってくる。

興味のある人は是非、WordPressに挑戦してみて欲しい。

お近くの方で関心のある方はWordPress初心者コースへお越し下さい!!(^^)

WordPress初心者コース

インセル(incel)–非モテの社会問題化

インセル(incel)は「involuntary celibate」を合わせて作られた言葉で、「不本意の禁欲主義者」という意味になるらしい。

インセルとは、セックスや性的魅力をめぐる競争は生まれたときから公正ではなく、自分たちは遺伝子のくじ引きの負け組であると考え、恋愛やセックスがしたくても出来ず、孤独や不幸に苛まれるのは、モテる男や、それになびく女のせいだと考えており、モテる男や女性に憎悪の念を燃やしているオンライン・コミュニティのメンバーのことだ。白人男性の異性愛者が多いとされている。

インセルの思想の世界には、細かな区分けがあるのだけど、特にモテる男性の上位ランクを「チャド」そしてそれになびく女性の上位ランクを「ステイシー」と呼んで軽蔑している。チャドもステイシーも性的魅力に溢れ、セックスに不自由しない人たちだ。インセルは、女性はチャドではなく自分たちに魅力を感じるべきなのに、そうならないことから、女性はセックスと権力への欲だけに駆られる、人間以下の生き物だという女性蔑視の思想を持っている。

そして、この憎悪が北米では無差別殺人(彼らにとってはチャドやステイシーの駆逐であって無差別という認識ではないのかもしれない)という形になって現れ、社会問題化している。

インセルが過激化したのは2010年頃からのようで、過激なフェミニストグループの出現やMeToo運動なんかが関係しているようだ。さらに人種差別、政治思想なども絡み複雑化している。そして、なんといっても過激化する契機になったのが、当時22歳のエリオット・ロジャーが引き起こしたアイラビスタの銃撃事件だ。銃とナイフで6人を殺害後、自殺している。

2018年にカナダのトロントでインセルが起こした事件では、車で通行人に突っ込み10人が亡くなっている。そのほとんどが女性だったそうだ。そして犯人は犯行前に自身のFacebookに「インセル革命はすでに始まっている!」「チャドやステイシーどもを全滅させる!」「最高紳士エリオット・ロジャー万歳!」といったような投稿をしている。
この投稿を見る限り、一部のインセルの間では、エリオット・ロジャーは神格化され、非モテの集団がカルト化しているのを感じる。

エリオット・ロジャー(Elliot Rodger)

エリオット・ロジャーとは何者だったのか?

彼は事件前に知人に137ページもあるPDFファイルをマニフェストと称して送りつけている。その内容を解説した動画がYoutubeにアップされていた。下はその一部だ。続き物になっているので、興味のある人はYoutubeを検索して続きを見てもらえればいいと思う。

彼は裕福な家庭の生まれで、個人的な感覚では、いたって恵まれた環境で育っている。一番上の動画でも分かる通りインセルの多くが嘆くブサメンでもない。

動画の解説によると、BMWに乗り、高級なブランド物に身を包んで、大学の教室に入っても女子は彼をを一顧だにしない。彼のような車やブランド物もなく、しかも野蛮な男が女子にモテる。セックスはそんな野蛮な男たちにではなく、自分ような紳士に与えられるべきものであり、大いなる不正が行われていると憎悪をたぎらせ、町や学校でカップルを見るたび憎悪し、アジア系の男がブロンドの女と話しているだけでも、なぜアジア人なんかを女が相手にしているんだと怒り心頭で人種差別もかなり激しい。

何を言っているんだこいつは?

って感じだが、これが彼の揺るぎない世界だ。

裕福な家の育ちだし、ルックスだって悪くない。普通なら全く女性に相手にされないってことはないだろう。しかし、彼は女性に無視し続けられたと書いている。

ここで、面白いのが、彼はとても内気で、自分から女性に対して一言も話しかけてないということだ。つまり自分からコミュニケーションをとろうとしていないのだ。普通に彼の言っていることを捉えると、コミュニケーションもなしに女性の方から「あなたとセックスさせてください」と言ってこないことを、女性から無視され、酷い仕打ちを受けてきたと怒り狂っていることになる。

ほな、アホな!

って話だが、ここは敢えて彼の話の中に共感する部分を見つけてみたい。

僕が若い頃、遊び人の知り合いがいた。次から次へと女の子をとっかえひっかえだ。インセルが言うところのチャドだ。確かにイケメンだけど、なんで、こんな奴が、こんなにモテるんだろう?誠実な僕の方がよっぽどいいのに!なんてことをブサメンの僕が思ったことがある。笑

まあ、そう思ってもエリオット・ロジャーのように、それに対して憎悪することはない。

当時、僕のことを好きだと言ってくれる女の子もいたし、付き合ってくれる子もいた。でも、もし、ことごとく振られ、拒絶されたら、エリオット・ロジャーのような狂気の憎悪とまでならなくても、遊び人の知り合いや、それに落とされる女の子に対して憎悪や嫌悪の念を抱いたかもしれない。

もし、僕の周囲がみな彼女持ちで、僕だけが、ことごとく振られ拒絶されていたら、その時の孤独感や喪失感は大きく、憎悪の念が湧きやすいと想像される。

逆に、皆が彼女が欲しいにも関わらず、誰も彼女を作ることが出来なければ、彼女が欲しいという気持ちが強くても孤独感や喪失感は、それほど大きなものにはならないだろう。

エリオット・ロジャーの思考は、さっぱり理解はできないけれど、こうやって想像してみると、相対的な喪失感や孤独感が大きく影響したのではないかという気がする。

 

アメリカはパートナーの存在のウェイトが日本に比べて社会的に重い社会だから、パートナーを獲得できないということの相対的喪失感や孤独感が日本より大きいと考えられる。だからインセルはアメリカに比べ日本では生まれにくい気がする。

とは言っても、日本でも別のことで相対的喪失感を味わっている人は多いだろう。そういった人たちが簡単に集まれるのがSNSであり、ひとたび集まればエコーチェンバー現象により、その思いや考えは増幅されていくから、インセルもアメリカの非モテのおかしな人たちの話とばかり言ってはいられないのかもしれない。

エリオット・ロジャーの言っていることは、ほとんどの人は「何言ってんだ?こいつ!」という印象だろう。でも、相対的喪失感というエリオット・ロジャーを生む素地を我々は心の中に持っている。

しかし、自分の軸をしっかり持っている人というのは、この相対的喪失感の影響を比較的受けにくい。

だから、軸を強固にするためにも、僕は学び続けることが大切だと思っている。

3.11大川小学校–魂で学ぶ学び

3.11から早くも10年。黙祷。

今日はネット上でも、あちこちで3.11関係の記事を見かけた。SHIN MICの学びの種-アンテナにも、次のような記事の見出しを見つけ、開いてみた。

 

【悲報】小学生「津波が来る?裏山に逃げよう」 聡明な教師たち「動くなボケ!!」

記事を開くと以下のような記載があった。

 

・帰りの会の前後に地震発生
・校長は年休をとって不在
・教師A(教職員の中で唯一の生存者)が校庭に出ろ山に逃げろと叫び、それを聞いた児童たちが裏山に駆け出す
・別の教師が怒鳴り無理矢理引き戻す
・「山さ上がろう」「俺たち、ここにいたら死ぬべや」「先生なのに、なんでわからないんだ」と教師に食ってかかる児童たち
・グラウンドから裏山まで140m、40〜50秒
・裏山は緩やかな傾斜でシイタケ栽培など児童たちも普段から登り馴染みがある
・遠方児童のためのスクールバスがエンジンをつけて待機している
・スクールバスには詰め込めば児童全員乗れないこともない
・点呼を終えても余震の中で児童をグラウンドに座って待機させ続け議論する教師たち
・裏山に逃げる派(教頭・教師A)と津波は来ない学校は安全派で対立
・避難してきた周辺住民も加わり、津波は来ない川の堤防(三角地帯)に逃げる派(釜谷区長)も対立
・たき火の準備をする
・防災無線からの6m大津波警報を聞いている
・広報車からの大津波警報を聞いている
・迎えに来た保護者たちから大津波警報のことを聞いている
・迎えに来た保護者たちに教師が「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」と伝える
・保護者とともに避難した児童は助かる
・避難する市民から津波が来るぞと聞いている
・「大丈夫だぞ」「こんなところで死んでたまるか」とグラウンドで励まし合う児童たち
・約50分もグラウンドに待機し、津波到達1分前に避難を開始する
・避難先はなぜか裏山ではなく三角地帯に教頭が決定、なぜか最短ルートではなく逆方向から出発
・避難中に津波に飲み込まれ、それを見て急いで山に駆けた後列の児童は助かる
・避難先の三角地帯は完全に津波に飲み込まれ避難が完了しても助からなかった
・地震発生から津波到達まで51分ありながら児童たちは1mも高い位置に移動できなかった
・児童108人中74人死亡、教職員10人死亡、スクールバス運転手死亡
・近隣の学校では地震直後に高台へと避難しており犠牲者ゼロ
・教育委員会が生存児童からの聞き取りメモを廃棄して嘘報告書をでっち上げ

VIPPER速報
http://vippers.jp/archives/9664408.html

 

これは大川小学校の話だろう。
大川小学校では津波により全校生徒108人のうち70人が命を落とし、4人が今も行方不明で、教員も10人が命を落とした。学校管理下で起きた事件としては最悪の大惨事だ。

上のVIPPERの記事のような経緯から、遺族が学校の責任を問うて、宮城県と石巻市を相手取り裁判が起こされ、原告ら遺族の勝訴が確定している。

実は、僕が学校に勤めていた時に、生徒に3.11について調べてもらい、その後、実際に震災跡地をまわる研修旅行を引率させてもらたったことがある。3.11を調べる中で大川小学校のことを調べた生徒もいた。調べたことの発表を一人一人やってもらったが、皆、よく調べてきていて関心させられた。また、それぞれが取り上げた事について、自分の考えを述べる生徒もいた。

研修旅行では、当時、震災遺構として整備が進められていた大川小学校も訪ねることができた。
そこにあるのは、廃墟となった小学校の校舎なのだけれど、その廃墟が圧倒的なまでのオーラを放っているのだ。こればかりは、写真や映像、言葉では分からない。その場に行って見なければ分からないものだ。とにかく圧倒され、かつて、そこに子供たちの声が響き渡る日常があったことに思いを馳せ、自然と胸の奥からこみ上げるものがあり、涙が溢れてくる。生徒たちも、みな、それぞれ思い思いの場所に移動しながら、場所場所で無言で佇み、その圧倒的なオーラに打ちのめされていた様子だった。

そのオーラの前では、自分が調べてきたことや、自分が、こうすれば良かったのではないか?と考えたことなど全て吹っ飛んでしまう。調べたことや考えた事がとても薄っぺらなものにさえ感じられる。もちろん調べ、考えた後だからこそ、この廃墟が発するオーラをより敏感に感じ取れるわけで、事前学習はとても大切だ。

研修旅行のまとめの会で生徒たちに僕は次のようなことを問うた。

みなさんが事前に調べて得た知識は研修旅行の前と後ではほとんど変わりはないと思います。でも、その知識は研修旅行の前と後で同じと言えますか?

生徒たちはみな、一様に全く違う!と答えてくれた。

僕が欲しかった回答だった。(^^)

そう、言葉で語れる範囲の知識としては変わりはなくても、本人の中では、オーラに打たれることにより、全く違ったものに変質するのだ。自分にできる何かをしなければ!という思いに突き動かされた生徒もいたようだ。

これこそが学びの本懐であり、魂が学ぶ最上級の学びだと僕は思っている。こういった学びは時として人を突き動かし、大きく人生に影響する学びだからだ。

大切な知識とは、何も本に書かれたことや論理的に説明できるものであるとは限らない。魂で学ぶ学びはそれを超越したところにある。言葉にはできないが、自分の中では明らかに分かっているものだ。それは、ふとした時に学ぶこともあれば、こういった何らかの機会によって学ぶこともある。そして、言葉だけで学べる知識には限界があることを肝に銘じておく必要がある。

だから最上級の学びがあることを意識しながら、日々、学ぶ必要があると僕は思っている。