
写真は僕が住む地域に生えている柳の大木だ。
惚れ惚れするような雰囲気を持った大木で、近くに行くと、いつも暫し見惚れてしまう。昨年の4月29日、コロナ禍の中で見た記事の中に「木にハグすると免疫力がアップする」という記載を見つけ、当時、この木に抱き着いてみたことを憶えている。下はその時に僕がインスタに投稿した文章だ。
先日、何かの記事で、北欧だかドイツだか忘れたけど、木にハグすると免疫力がアップするとかで、それを推奨してるなんて読んだ。
確かに、そよ風と小鳥のさえずりの中、こんな柳の大木に抱きついて、暫くじっとしていると、木と一体化するような不思議な感覚になる。(^^) まあ、はたから見たら、あの人、大丈夫か?って絵面だろうけど。笑
また2015年の7月には、この柳の大木について以下のような投稿もしていた。
最近、個人的に、絵が綺麗なのと、その世界観が好きなのとで、アニメの蟲師に少しはまっておりやす。僕は霊感なんてものは全くないですし、今までに不思議なものを見た事も全くないんですけど、こんな柳の大木を爽やかに吹く風の中、下から見上げてると、枝の上をたくさんの蟲が動き回ってるような気がしてなりません。
ひょっとしたら、蟲が見えるんじゃないかと、暫し、目を凝らしてしまったのだ・・・。(笑)

こういう感覚になる時って、心が穏やかで、なんとも満ち足りたような気分になる。そして、少なくとも僕が子供の頃は、世界は不思議なことだらけで、道を歩いても野に行っても市街地に行っても、目に入るもの片っ端から、なんだろう?なんで?不思議だ!スゲー!おもしれー!っていう好奇心だったり感動が湧いてきて、そこから、いろいろなことに想像を広げて毎日がワクワク楽しかったことを記憶している。たぶん、こんな柳の大木一つでも、いろんな想像をして一日中ワクワクしていられたんだと思う。
だから、興味をもったことを調べ学ぶことはとても楽しかった。特に理科や数学の分野はとても楽しかったことを憶えている。
それが中学生になり、自我の芽生えと共に学ぶことは成績を上げるための勉強に変わり、勉強のための勉強になっていった。やがて学ぶことそのものが苦痛を伴うものという認識に変わり、苦痛を耐えて学ぶことが価値のあることのような概念が自分の中に出来上がっていった。
今考えると、大学での講義で提供してもらった内容っていうのは、自由な学びの中にあればとても楽しいものだったと思うが、当時の僕にとっては単位をとるための勉強であり、学部にあがってからも、それは将来、いい論文を書き、人に認められるための準備のような感覚に変わってしまっていた。そして、相変わらず苦痛を耐えて学ぶことに価値があるような感覚に陥っていた。
つまり、当時の僕にとって学ぶことの目的は将来的に人に認められるための手段に変貌してしまっていたのだ。そして、僕は学ぶことに対する興味を失った。
僕らは奇跡でできている
「僕らは奇跡でできている」というフジテレビのドラマを一気見した。
個人的にはとっても良かった。自分自身について色々と考えさせられる内容で、ほっこりした感じも、なかなかグッドだ。見られたことが無い人は、機会があれば是非見て欲しい。
このドラマの中に象徴的に出てくる大木が上に書いた柳の大木とだぶって、より一層、心に沁みてくるものがあった。
多くの人が自我の芽生えと共に、社会や環境からの影響により自分の中に「こうあるべきだ」を作っていく。この「こうあるべきだ」は共同体に所属する以上、ある程度必要なものだ。しかし、やがて自分が作り出した「こうあるべきだ」の中に自分自身を閉じ込めていってしまう。
一旦「こうあるべきだ」に閉じ込められると、そこから抜け出るのは容易ではない。そして「こうあるべきだ」に自分が応えられなかったときは、自分自身を責めることになる。
やがて「こうあるべきだ」は他者にも向けらていく。
「私はこんなにも彼のことが好きなんだから、彼も私を好きであるべきだ」
「彼女をこんなに大切にしてるんだから、彼女も僕に優しくしてくれるべきだ」
恋愛を例にとれば、こんな感情が湧いてくる。「こうあるべきだ」に応えるのは自分自身ですら難しいのに、他者がそれに応えてくれるのはさらに難しい。
もちろん「こうあるべきだ」は自分自身の意識が作り出したものだ。それが満たされないときに、苦しみが生まれてくる。つまり人は自分が作り出したものによって苦しむのだ。ところが、苦しみのもとが自分自身が作り出したものであることに気付かず、その苦しみの原因を外部に求めてしまう。
学校という環境はこの「こうあるべきだ」の押し付けが起こりやすい環境だ。多様性を叫びながら学校側の「こうあるべきだ」の押し付けをやっていることが多い。もちろん共同体に所属する以上ある程度の「こうあるべきだ」は必要だ。だがどう考えても理不尽な押し付けも出てきてしまう。
しかしこういった押し付けの「こうあるべきだ」は、それほど怖いものではない。なぜなら怒りを感じたりして自分の心の中では拒絶するからだ。真に警戒すべきは自分自身が作り出す「こうあるべきだ」だ。
自分自身が作り出す「こうあるべきだ」は自分を牢獄に押し込め、抜け出ることが難しい苦しみを生み出していく。そして僕がかつてそうであったように、成長するうえで最も大切な「学びの芽」を摘み取っていってしまう。
だから我々は常に自分自身の「こうあるべきだ」を振り返る必要があると思うのだ。
「僕らは奇跡でできている」を見て、僕は自分自身の「こうあるべきだ」を特に強く考えさせられたけれど、このドラマは他にも多くの視点があり、考えさせられることが多い。いいドラマだった!!(^^)