昨日は一山超えて上田市までインストラクターをお願いしている方にお会いしに行った。
現在、上田市では2人の方にインストラクターをお願いしている。Aさん、Bさんとしよう。前回、上田市に伺った時はAさんにお会いした後Bさんにお会いした。Bさんとは前回お会いして以来一度も連絡を取ってなかった。
今回はAさんとだけの約束で、前回と同じ場所で待ち合わせだ。その待ち合わせ場所に着いたほんとその瞬間にBさんから「オンラインレッスンのことで・・・」と電話がかかってきた。今日はこの後ご在宅とのことだったのでAさんのあとBさんにも会うことになった。こうして、前回と全く同じパターンが再現されることになった。
もちろんBさんは今日僕が上田市に来ていることを知らない。しかも待ち合わせ場所に着いたその瞬間の電話って凄いタイミングだ。まるで僕の動きをBさんが観察していて狙って電話をしたような感じがするくらいだ。偶然というには出来すぎだ。
Bさんと電話で話しているとAさんが現れた。Aさんにこの事を話すとAさんは「そういうこってありますよねー」と言っていた。そう、こういう出来すぎた偶然は「そういうことってある」と多くの人が感じていることなのだ。シンクロニシティというやつだ。
シンクロニシティはかの有名なユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」ってやつだ。スピリチュアルな世界ではシンクロニシティが起きるときってのは「宇宙の流れと自分の行動が合致している」とか「願望が現実化する前兆」とか「自分の人生が良い方向に向かっている」といったような意味があるとされている。もちろんスピリチュアルな考え方を否定する人は「単なる偶然」で片付けるだろう。しかし「そういうことってある」と多くの人が感じているようにシンクロニシティそのものは存在している。そして今日の出来事は、SHIN MICを宇宙が後押ししてくれているんだとスピリチュアル的に考えれば、その方が気分がいい。そう考えて気分がいいということは、スピリチュアルの考え方にも一定の正しさがあると考えていいのかもしれない。
そう言えば、上田市への行き帰りの山の中で、自分の内面的な感覚なのだけれど不思議な出来事があった。松の木の伐採現場の横を車で通り過ぎたわけだけど、松の大木がたくさん切り倒されていて、車の中にまで松の木の匂いが充満してきた。普段ならいい匂いだと感じる松の木の匂いが血の匂いのように感じられ、伐採現場がまるで虐殺現場か何かのような感じがして、一刻も早くその場を通り過ぎたい感覚に捉われた。松の木だって生きているから、それが切り倒されているってことは命が奪われていることに違いはない。だから我々人間には知覚出来ないが、現場には松の木の怨嗟の声が満ち溢れていたのかもしれない。
僕は霊感とかスピリチュアル的な感性は限りなく無いのだけれど、昨日はシンクロニシティに松の木の伐採現場での感覚と、ちょっと、そういった感性が僕なりに冴えていた日だったのかもしれない。
我々人間は知覚できる範囲でしか知識を得ることができない。
シンクロニシティも「そういったことってある」とギリ知覚の範囲に入っているからスピリチュアルなんかでも盛んに語られたりするわけだ。まったく人間の知覚の範囲に入ってこないものは、当然ながら我々はその存在を知ることはもちろん想像してみることすらできないわけだ。フランシス・ベーコンの「種族のイドラ」ではないけれど、人間であるということは、人間としての感覚しか持ち合わせていないわけで、その視点からしかものを捉えることができないし、それによる思い込みや偏見も生まれる。
全く別の知覚を持ち合わせた存在から見たら、シンクロニシティも至極当然な論理的な出来事かもしれないし、我々が言う虐殺現場と松の木の伐採現場は同じようなものなのかもしれない。
社会的には論理が求められる。ディベートを行っても、エビデンスを揃え、より論理的な方に軍配が上がる。しかし論理を振り回せるのは我々の知覚の中でもしっかりと知覚できる範囲の知識においての話だ。シンクロニシティのようにギリ知覚の範囲の知識では論理的に話すことは出来ない。「シンクロニシティが見られましたので当社の経営方針を・・・」などと言い出したら、みなポカーンだろう。
しかし我々が種族のイドラに捉われる以上、何か判断を迫られた際には、シンクロニシティのようなギリ知覚の範囲に引っかかってくるものに対しても真摯に考えてみる事が場合によっては有効なのかもしれない。