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Archive: 2021年2月27日

「真夜中のドア~stay with me」とものの価値

松原みきが約40年前にリリースしたデビュー曲「真夜中のドア~stay with me」が、今、海外で大きな注目を集めている。

Spotifyのバイラルチャート「グローバルバイラルトップ50」では2020年11月頃から急上昇し、2020年12月には18日連続で世界1位を記録。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、オーストラリア、インド、シンガポール、フィリピンなど各国のバイラルチャートでも1位となった。

YAHOOニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/shibatomonori/20210219-00223308/

聞いてみたところ、ちょっとノスタルジックな感じのする曲だ。そして当時のミュージックビデオの中のファッションが現代とあまり変わらない事に驚いた。

僕は音楽には疎いので、「Spotifyのバイラルチャート」ってのが何のことか分からなくて調べてみた。

 

Spotify(スポティファイ)は、スウェーデンの企業スポティファイ・テクノロジーによって運営されている音楽ストリーミングサービス。2021年現在、2億3,200万人(うち有料会員数1億3800万人)のユーザーを抱えており、音楽配信サービスとしては世界最大手である。パソコン・スマートフォン・タブレット型端末・ゲーム機などの電子端末に対応している。日本では2016年9月にサービスが開始された。

ウィキペディア

バイラルチャートってのは、ストリーミングの再生回数とは異なり、Spotifyのユーザーが曲をSNSでシェアした回数など、ユーザーの共感に基づくランキングのようで、ランキングされるだけでも大変な事なのに、18日連続で世界1位なんてのは、とてつもない事のようだ。しかもそれが40年前にリリースされた曲だというのだから驚きだ。

もちろん40年も前にリリースされた曲が、こんなふうに脚光を浴びるようになったことには当然、その背景がある。もともと、70〜80年代の日本のシティポップが海外の音楽ファンの間に浸透しており、そこへインドネシアで活動する女性シンガーが「真夜中のドア~stay with me」をカバーしてYoutubeに投稿したことがきっかけになったようだ。詳細は上のYAHOOニュースの記事を見て欲しい。

この曲が世界的なヒットになるための立役者がいたわけだが、そもそも、この曲が人々の共感を呼ぶ要素を持っていなければ、立役者がいたところで世界的なヒットになることは有り得ないだろう。この曲はもともと現代の世界の人々に共感を呼ぶ要素を持ち合わせていた。それが立役者によって知れ渡ったということだろう。そして世界的なヒットにより商業的な価値も生まれてくる。この場合「この曲はもともとそれだけの価値があった」みたいな言い方をされる。つまり価値は人々に共感されたあとからついてくるのだ。

商業的な価値の大元は人々の共有意識から生まれてくるものだと言ってもいいかもしれない。「これは便利だ!」「これは美味しい!」といった共有意識が価値を生み出す。例えば僕が書いた手紙を大切に持っていてくれている人がいたとしよう。その人の人生の中でその手紙は大きな意味を持ったもので、その人の中ではとても価値があるものだ。でも、その手紙はおそらく二束三文でも売れない。それに対して歴史上の人物や有名人の手紙なら、それなりの値段がつく。歴史上の人物や有名人の人生は、多くの人に知られ共有されているのに対して僕の人生についての知識は人々に共有されていないからだ。

だから宣伝活動というのも、人々の共有意識を作る作業だ。「真夜中のドア~stay with me」のように、もともと人々に共感を呼ぶ要素があるものなら、それを知ってもらうだけで共有意識が生まれる。特にSNSは共感が伝播しやすい媒体だから共有意識の形成もスピーディーだろう。また宣伝活動では、そのものを知ってもらうだけでなく、それに対するイメージを作っていく側面がある。つまりイメージという共有意識を作っていくわけだ。それをしていくことによってイメージが価値を持ち始める。ブランドなんかがそれだ。場合によっては商品そのものが持つ共感を呼ぶ要素よりもイメージという共有意識によって価値を生み出しているケースが多々あるのではないかと思う。

共有意識が付随したものが商業的価値を生み出す一方、さきほどの手紙のように個人的に価値はあっても商業的価値の無いものがある。でも商業的価値が無くても、この個人的な価値が最も確かな価値なのなのかもしれない。商業的価値は人々の共有意識が作り出すから、その共有意識が変化すれば価値を失う可能性がある。ブランドで言えば「ブランドに傷がつく」というやつだ。個人的な価値は自分の中での価値だから共有意識が作り出す価値よりも確かな価値であるケースが多いのではないだろうか。

人は共有意識が付随したものに重きをおく傾向がある。それは物に限ったことではなく、言葉でもそうだ。共有意識が付随している有名人や権威からの言葉は例え内容が薄くても比較的、重きを置かれることが多い。それに対して一般人の言葉は、なかなか顧みられない。その人がSNS等の媒体を使って主張を繰り返し、それに賛同する人が徐々に増え、共有意識が形成されて初めて重きを置かれるようになる。物であれ人であれ社会的には共有意識が付随して初めて価値を持ち始めるということだ。

新たに何かを創造することというのは、まだ共有意識が付随していないけれども、人々の共感を呼び起こす要素を持った物や人を見出し、そしてそれらを多くの人に知らせて新しい共有意識を形成する作業と言えるかもしれない。

そういう意味では、共有意識が付随していないものに対して、純粋に共感を呼び起こす要素があるかを見る感覚を養いたいものだと思う。

そのためにも多くの学びが必要なのだ。

久保田公園の柳の大木

柳の大木-僕らは奇跡でできている

写真は僕が住む地域に生えている柳の大木だ。
惚れ惚れするような雰囲気を持った大木で、近くに行くと、いつも暫し見惚れてしまう。昨年の4月29日、コロナ禍の中で見た記事の中に「木にハグすると免疫力がアップする」という記載を見つけ、当時、この木に抱き着いてみたことを憶えている。下はその時に僕がインスタに投稿した文章だ。

 

先日、何かの記事で、北欧だかドイツだか忘れたけど、木にハグすると免疫力がアップするとかで、それを推奨してるなんて読んだ。

確かに、そよ風と小鳥のさえずりの中、こんな柳の大木に抱きついて、暫くじっとしていると、木と一体化するような不思議な感覚になる。(^^) まあ、はたから見たら、あの人、大丈夫か?って絵面だろうけど。笑

 

また2015年の7月には、この柳の大木について以下のような投稿もしていた。

 

最近、個人的に、絵が綺麗なのと、その世界観が好きなのとで、アニメの蟲師に少しはまっておりやす。僕は霊感なんてものは全くないですし、今までに不思議なものを見た事も全くないんですけど、こんな柳の大木を爽やかに吹く風の中、下から見上げてると、枝の上をたくさんの蟲が動き回ってるような気がしてなりません。

ひょっとしたら、蟲が見えるんじゃないかと、暫し、目を凝らしてしまったのだ・・・。(笑)

こういう感覚になる時って、心が穏やかで、なんとも満ち足りたような気分になる。そして、少なくとも僕が子供の頃は、世界は不思議なことだらけで、道を歩いても野に行っても市街地に行っても、目に入るもの片っ端から、なんだろう?なんで?不思議だ!スゲー!おもしれー!っていう好奇心だったり感動が湧いてきて、そこから、いろいろなことに想像を広げて毎日がワクワク楽しかったことを記憶している。たぶん、こんな柳の大木一つでも、いろんな想像をして一日中ワクワクしていられたんだと思う。

だから、興味をもったことを調べ学ぶことはとても楽しかった。特に理科や数学の分野はとても楽しかったことを憶えている。

それが中学生になり、自我の芽生えと共に学ぶことは成績を上げるための勉強に変わり、勉強のための勉強になっていった。やがて学ぶことそのものが苦痛を伴うものという認識に変わり、苦痛を耐えて学ぶことが価値のあることのような概念が自分の中に出来上がっていった。

今考えると、大学での講義で提供してもらった内容っていうのは、自由な学びの中にあればとても楽しいものだったと思うが、当時の僕にとっては単位をとるための勉強であり、学部にあがってからも、それは将来、いい論文を書き、人に認められるための準備のような感覚に変わってしまっていた。そして、相変わらず苦痛を耐えて学ぶことに価値があるような感覚に陥っていた。

つまり、当時の僕にとって学ぶことの目的は将来的に人に認められるための手段に変貌してしまっていたのだ。そして、僕は学ぶことに対する興味を失った。

僕らは奇跡でできている

「僕らは奇跡でできている」というフジテレビのドラマを一気見した。
個人的にはとっても良かった。自分自身について色々と考えさせられる内容で、ほっこりした感じも、なかなかグッドだ。見られたことが無い人は、機会があれば是非見て欲しい。

このドラマの中に象徴的に出てくる大木が上に書いた柳の大木とだぶって、より一層、心に沁みてくるものがあった。

多くの人が自我の芽生えと共に、社会や環境からの影響により自分の中に「こうあるべきだ」を作っていく。この「こうあるべきだ」は共同体に所属する以上、ある程度必要なものだ。しかし、やがて自分が作り出した「こうあるべきだ」の中に自分自身を閉じ込めていってしまう。

一旦「こうあるべきだ」に閉じ込められると、そこから抜け出るのは容易ではない。そして「こうあるべきだ」に自分が応えられなかったときは、自分自身を責めることになる。

やがて「こうあるべきだ」は他者にも向けらていく。

「私はこんなにも彼のことが好きなんだから、彼も私を好きであるべきだ」

「彼女をこんなに大切にしてるんだから、彼女も僕に優しくしてくれるべきだ」

恋愛を例にとれば、こんな感情が湧いてくる。「こうあるべきだ」に応えるのは自分自身ですら難しいのに、他者がそれに応えてくれるのはさらに難しい。

もちろん「こうあるべきだ」は自分自身の意識が作り出したものだ。それが満たされないときに、苦しみが生まれてくる。つまり人は自分が作り出したものによって苦しむのだ。ところが、苦しみのもとが自分自身が作り出したものであることに気付かず、その苦しみの原因を外部に求めてしまう。

学校という環境はこの「こうあるべきだ」の押し付けが起こりやすい環境だ。多様性を叫びながら学校側の「こうあるべきだ」の押し付けをやっていることが多い。もちろん共同体に所属する以上ある程度の「こうあるべきだ」は必要だ。だがどう考えても理不尽な押し付けも出てきてしまう。

しかしこういった押し付けの「こうあるべきだ」は、それほど怖いものではない。なぜなら怒りを感じたりして自分の心の中では拒絶するからだ。真に警戒すべきは自分自身が作り出す「こうあるべきだ」だ。

自分自身が作り出す「こうあるべきだ」は自分を牢獄に押し込め、抜け出ることが難しい苦しみを生み出していく。そして僕がかつてそうであったように、成長するうえで最も大切な「学びの芽」を摘み取っていってしまう。

だから我々は常に自分自身の「こうあるべきだ」を振り返る必要があると思うのだ。

 

「僕らは奇跡でできている」を見て、僕は自分自身の「こうあるべきだ」を特に強く考えさせられたけれど、このドラマは他にも多くの視点があり、考えさせられることが多い。いいドラマだった!!(^^)

火星人と遊学のすすめ

日本時間で2月19日の朝にNASAの火星探査車「パーサヴィアランス」が火星に着陸した。今後、2年間にわたり火星で生命の痕跡を見つけるための調査を行ったり、小型ヘリコプター「インジェニュイティ」の飛行試験まで行うようだ。

そして、このパーサヴィアランスとインジェニュイティの映像がめっちゃカッコいい。なんかスターウォーズっぽい。この映像を見た時、僕はアナキン・スカイウォーカーのポッドレースシーンが思い浮かんだ。なんかワクワクする映像だ。きっとこんな映像を見て、宇宙関係を目指す子供たちがたくさんいる事だろう。大人になると日常生活に追われて、純粋なワクワクを忘れがちになってしまうが、純粋なワクワクは学びの大きな種だ。

 

「青春とは心の若さである。 希望と信念にあふれ勇気に満ちて、 日に新たな活動を続ける限り 青春は永遠にその人のものである。」

 

これは松下幸之助翁が座右の銘にしていた言葉だけど、僕には、子供時代のように純粋なワクワクを持ち、学び続け、幾つになっても自分自身のアップデートを怠らないことの大切さを言っているような気がする。とにかくワクワクは人生において、めっちゃ大切な要素だ。

ちなみに、松下幸之助翁の座右の銘は、アメリカの詩人サミュエル・ウルマンの「青春」という詩をヒントに創作したものらしい。

少し話がそれてしまったが、今回の火星探査の大きな目的の一つが生物の痕跡探しだ。火星はその環境から、昔から生物が存在もしくは存在していた可能性がある言われている。地球でも深海の熱水噴水域には硫化水素を食べる細菌類がいるくらいだから、火星環境を考えれば、微生物くらいは存在してる方が自然な気がする。でも、もし火星に微生物すら存在していなかったら、生物が存在するためには、我々が未だ感知することすらできない、別次元の要素が必要なのかもしれない。

科学技術が進んだ現在も、実は我々の知識は、「大きな亀の甲羅の上に4頭の象が立ち大地を支えている」なんていう世界観を持っていた頃と、宇宙レベルから考えたら大差ないのかもしれない。

 

イギリスの作家H・G・ウェルズのSF小説「宇宙戦争」をご存知だろうか。たぶん一番最近のものだと2005年にスティーヴン・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演で映画にもなっているから、そちらの方が馴染み深いかもしれない。圧倒的な科学技術力を持った火星人の地球侵略に人類は手も足も出ず逃げ惑うばかりだ。しかしそんな火星人たちも最後は地球上の微生物に感染してしまい、死滅してしまうというお話だ。

だから逆に将来的に人類が火星に移住するなんてことを考えたら、少し寂しい話ではあるけれど、火星には一切生物が存在していない方がいいのかもしれない。火星に生物が存在していたら、それらに対して免疫を持たない人類にとっては全て脅威の対象になってしまうからだ。

そして火星人と言えば、僕の中では、なんてったってアクァッホだ。
アクァッホは2chに投稿された話で「宇宙人に聞いた人類の起源」についての話だ。この話は創作物として考えてもよく出来た話で、内容的には小説にして出版すればいいのにと思わされるレベルの話だ。少なくとも、よく海外の掲示板とかに出没するタイムトラベラーと称する人たちの投稿よりも、よっぽど面白いと僕は思う。下に話をまとめてあるサイトのリンクを貼っておくので、興味のある人は読んでみて欲しい。

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4820526.html

この話の中では人類はアクァッホと呼ばれる火星人によって作られたことになっている。ダーウィンの進化論なんかも矛盾だらけだから、アクァッホが創作物だとしても、こういった方向の話も、ちょっと真面目に考えてみると面白いかもしれない。もちろん考えたところで答えはでない。でも、考えたり想像してみたりすることが大切だ。それに、そんなことを、とりとめもなく考えてみるのは楽しいし。

このアクァッホの話で僕がいちばん面白いと思ったのは、人類の起源ではなくて、出会っている宇宙人たちだ。この宇宙人たちは、僕らが認知できる次元の外側の存在だから、我々が持っている常識が一切通用しない世界の話だ。ダークマターとかもそうだけど、我々が宇宙の中で認知できるものは、僅かなのだから、こういった世界があったっておかしくはない。

 

今回のパーサヴィアランスの火星着陸の記事は、NASAが配信する映像と共に、僕らをワクワクさせてくれる。こういった分野が好きな人は当然、興味の赴くまま、NASAが使用した技術であったり火星という星について調べたり、今後の可能性を調べるだろう。これはこれで新たな知識が得られるわけだし、自分の世界を広げていくことになるから素晴らしい。

それともう一つ、こういった学びを得るきっかけが自分に訪れた時には、上に書いてきたように、過去の映画だったり小説だったり、全くの分野違いのものと繋げて、考えたり想像したりしてみると楽しいし、場合によっては良い学びを得ることが出来ると思う。

上に書いた内容をさらに広げていけば宗教や歴史にも繋がってくると思う。日々、目にするニュースや記事の中で自分の興味が惹かれるものがあった時は、是非、遊学してみて欲しい。

学びの種-アンテナニュース

学びの種-アンテナニュース」というページを追加した。
皆さんは「まとめサイト」というのはご存知だろうか?まとめサイトってのはキュレーションサイトって呼ばれるやつで、他のサイトで掲載されているコンテンツを集めて掲載しているサイトのことだ。「NAVERまとめ」とかは有名なので聞いたことがある人も多いかと思う。自分自身ではコンテンツを書かずに他人が書いたものを集めてコンテンツにするから楽ちんだ。しかも、まとめサイトは世間の需要もあるから、収益化の目的で作られているものも多く、今ではネット上はまとめサイトだらけだ。そして、この乱立したまとめサイトをさらにまとめたものが「アンテナサイト」と呼ばれるものになる。

「学びの種-アンテナニュース」のページには、こういったまとめサイトやアンテナサイト、さらには一般的なサイトと、適当に見繕ってRSSを取得して新着記事を表示させてある。内容もバラバラだし、しっかりした記事もあるし、5chとかで好きに書き込んでるだけのものもある。実はわざとぐしゃぐしゃにしてある。今後、さらにぐしゃぐしゃに増やすかもしれない。

まとめサイトや、アンテナサイトの上を流れていく膨大な記事を眺めていると、ふと目にとまるものがある。目にとまれば、当然、それを開いて見てみる。タイトルにつられて開いてしまったが、全く興味をひかないものもあれば、面白いものもある。

5chの記事なんか、面白いことやアホなことを言ってみたりしながら、なかなかのインテリさんがいてオモロかったりする。鯱張って偉そうにものを言う大人より、はるかに高度な知性が感じられる。

テレビのニュースやメディアのサイトと違って、掲示板やコメント欄なんてのは皆、好き勝手、自分の考えだったり感じ方だったりを書いているから、随分と偏った見方をしているものもあるけれど、そんな中に、ハッとさせられる真実に迫るものがあったりする。こういった雑多な情報の中には、メディアのサイトでは得られない言葉だったり考え方を知ることが出来る場合があるのだ。既にメディアからの情報だけでは片手落ちの感がある時代になっていることを感じる。

こういった雑多な情報に接する中で、

これはどういう意味だ?

それって何?

と感じたら調べてみると、思いがけず自分の知識が広がったり、場合によっては自分の世界まで広がることもある。学びの種の宝庫といってもいい。

「学びの種-アンテナニュース」のページに並ぶ記事は特に推奨するものでもないし、全て読んで欲しいわけでもない。たぶん、僕もほとんど読まない。でも、上から下まで、さーっと記事のタイトルをを追っていくと、中には、自分の感性に引っかかって見てみようと思えるものがあるから、それだけ、開いて見てみればいい。

開いた先の記事の内容が自分にとって面白いこともあれば、そのままスルーしてしまうものもあるだろう。それを何回も繰り返してると、「おや?」とか「なんだ?」にぶつかる。それが学びの種だから、そこから調べ種から木に育ててやって欲しい。

何本か木が育つ頃には、こういった雑多な情報とメディアの情報の使い分けが自然と分かってくるのではないかと思う。つまり情報リテラシーというスキルを養うことができるわけだ。

それに、こうった雑多な情報はメディアと違って建前ではなくて本音が多く、違った角度から考えさせられるきっかけにもなって面白い。

是非、皆さんも学びの種を見つけ、そこから自分の世界を支える木を育ててみて欲しい。

ビットコイン爆上げ

ビットコインが連日高値を更新し爆上げが止まらない。
僕がビットコインを調べるきっかけになったのが2014年初めに大騒ぎになったマウントゴックス破綻事件だ。仮想通貨ビットコインの取引所の一つであったマウントゴックスがハッキングされ、お客から預かっていたビットコインが消えてしまった事件だ。当時としては仮想通貨という怪しげな響きもあってか、取引所のマウントゴックスとビットコインは一緒くたにされて、ビットコインそのものも世間から盛大に叩かれていた。

この事件の1年ほど前から僕は、ネット上でちらほら仮想通貨とかビットコインという単語を目にしており、マウントゴックス事件を契機に仮想通貨ってなんやねん?世間で叩かれているような本当に怪しげなものなのかと、興味を持ち、調べたことを記憶している。

ブロックチェーン技術とビットコイン

ビットコインは謎の天才ハッカーと言われるナカモトサトシなる人物がネット上に発表した論文をもとに2009年にその採掘が始まり、運用が開始されている。

そのビットコインの根幹技術がブロックチェーン技術だ。ブロックチェーンは分散型のコンピューターネットワークで管理者が存在しない。世界滅亡とかエイリアン地球侵攻のような事態でも起こらない限り、それを破壊する事が出来ず、そして、その取引を誰もごまかす事ができない非常に強固なシステムだ。

ブロックチェーン技術の可能性は仮想通貨に留まるものではなく、ありとあらゆる物の仲介を省く事を可能にする技術でもある。不動産でも株でも、あらゆる物の所有権をブロックチェーン上で管理してしまえば、第三者機関は必要なくなる。実際にそれが仮想通貨の域を超えてくるかどうかは別にしても、技術的には人類の所有の概念を変えてしまうかもしれない、すごい発明だ。

そして、こんな凄い発明を発表したナカモトサトシなる人物は未だに何者か特定されていない。名前自体は日本人の名前だが日本人であるかどうかも分からないし、そもそも個人であるのかさえも分かっていない。

なんとも不思議な話だ。

ビットコインのウォレット

ビットコインのウォレットと呼ばれる口座を持つと、自分の行った取引は全てインターネット上に晒される事になる。その口座の持ち主が誰かが分からないだけでビットコインの口座の全てはインターネット上に晒されている。

そして、システムは国家権力を持ってしても止める事が出来ず、システムがダウンする事もない。つまり圧倒的なセキュリティとシステムとしての強さを持っているわけだ。しかも分散型のネットワークの為、従来の中央集権的なシステムに比べると圧倒的にコスト面で有利だ。その為、ビットコインに拒否感を示していた従来の銀行もブロックチェーン技術そのものは、取り入れるところが出てきている。

マウントゴックス事件当時、ビットコインを調べてみて、上記のような特徴から「凄い!」と思った僕はその可能性を肌で感じてみたくて、ビットコインのウォレットを開設した。そのことをSNSに書くと、事件のこともあって仮想通貨なんて怪しげで危ないものっていう認識の人が多かったから「大丈夫ですか?」と何人かの方から心配していただいた。笑

とは言うものの、「凄い!」とは思いながらも、世間の声にもなんだかんだで僕も影響され、ビットコインをわざわざ購入するほどの気にはなれず、当時は海外サイトなどで、ゲームをしたり広告を見るとビットコインをもらえるサイトがあったので、そんなところで少額だけれど集めてみた。それが自分のウォレットに入ってくる様子や、他の人にビットコインを送金してみたりして使い勝手を肌で感じてみたりした。使用してみて、確かに使い勝手は良いけれど、ビットコインの発行上限が決まっている以上、現在、我々が使用している管理通貨制度の中で発行されている通貨に変わるものとして仮想通貨が流通することはないんじゃないかと感じた。通貨と言うよりは将来的には貴金属のような扱いになるんじゃないかと感じた。それは当時のSNSにも書いたけど、この肌感ばかりは、実際に使ってない人にとっては「ふ~ん」て感じで分からないものだったと思う。

その後、僕はビットコインのウォレットを作って、そこに少額ながらビットコインを集めたことを、すっかり忘れてしまったのだけれど、3年ほどたったある日、Yahooニュースにビットコイン爆上げの記事を見つけて、そう言えば!と、ウォレットを開いてみると、集めた少額のビットコインが当時のレートで40万円近くになっていてビックリしたことを憶えている。ビットコインのチャートを見ると乱高下していたから、今のうちに!と取引所でそっこうで売ってしまった。その時にウォレットに残った端数が今のレートで7万円を超えているのだから、どれだけ上がってんだ!と思うと同時に、当時、売らずにそのまま持っていたらな~と思ってしまうのだから、自分もなかなか欲深い。笑

今の上がり方を見るにつけ、ウォレットを作った時に感じた「貴金属と同じような扱いになる」っていう感覚は、ある程度あたっていたのかもしれない。まあ、これだけ上がっているのだから、相場である以上、必ず大きな調整はどこかでくるとは思うけど、なんとなく、桁が一つ変わるところまでは上がっていくような気が僕はしている。

実際にやってみるということ

ビットコインとブロックチェーン技術に興味を持ち、当時、僕はいろいろと調べた。もちろん、ここで終わっても、それなりの学びにはなる。でも、実際にやってみたり、触れてみたりして得られる肌感で得られる学びってのは、すごく重要だ。ビットコインのウォレットを実際に作って取引してみたことによって、仮想通貨ってものを感覚的にも僕は捉えることができた。もっとも、それを大きな儲けに結び付けたわけではないから、あまり偉そうには言えないけれど、今の状況を見るにつけ、あー、やっぱりな!って感じはある。それに、実際にウォレットを作ってみたからこそ、ただで集めたものが、そこそこのお金になるという成功体験をすることもできたし、当時、調べたことを比較的よく覚えているってのもある。

調べたこと全てに対して実践したり、飛び込んでみたりってのは無理だけど、それでも、リスクを限定しつつ、出来る限り実践したり、飛び込んでみた方がいい。その方が知識が固定される率も高いし、さらにそこから先の部分で得られるものがあるからだ。

分野にもよるけれど、まず、やってみる!から入った方が効率よく学べるものもあるくらいだ。いずれにしても経験を通して、学びは深まるから、得た知識に対して出来る限り実践することを意識してみるってのは大切だ。それに実践を通した学びの方が楽しいし。

やってみる!は大切!!!

僕のヒーローアカデミア

子供に「僕のヒーローアカデミア」を見ろと言われ、ここ最近、少しずつ見ている。最初、ちょっと絵が苦手な感じがして見ていられないんじゃないかと思ったけど、なかなかどうして、けっこうハマって見ている。
「個性」と言われる力を多くの人が発現する超人社会が舞台になっており、その力を使って犯罪と戦ったり救助を行う「ヒーロー」と呼ばれる職業が定着しているのが、このアニメの世界だ。主人公は、その力を発現しなかった「無個性」から最高のヒーローを目指して成長していくという物語だ。そして、そのヒーローを養成している学校に主人公は入学を果たす。年齢的にはこの学校は今の高校生に相当している。

今さら書くまでもないが、昔の漫画やアニメでは善玉悪玉がはっきりしていた。しかし最近のアニメでは善玉悪玉の境界がとてもあいまいだったり、そもそも無かったりする。それぞれのアニメの中では一見悪そうに見えるキャラクターにも一定の正しさがあることが描かれている。子供たちの話を聞いていると、登場するキャラクターの「推し」も人それぞれだ。僕が子供の頃に見ていたアニメでは、いわゆる「推し」は特定のキャラクターに集中していたが、現代のアニメでは、それが広範囲に広がるのだ。

僕らの世代は善悪二元論の漫画やアニメを見て育っているのに対し、今の子供たちは多様性や様々な価値観が織り込まれたアニメを見て育っている。つまり最初から多様性や様々な価値観があることが当たり前のものとして育っている。これは宗教や文化の違いによる価値観の違いを話した時の反応をみるとよく分かる。僕ら世代の大人は、その価値観の違いを「へぇ~!」と驚きをもって受け取るのに対し、今の子供らは「そうなんですね」と違いを冷静に当たり前のこととして受け止める傾向があるように感じる。

学校に勤めて感じたこととして、大人はその多様性や様々な価値観があることを声高に叫び、それを教育方針としてのたまう。しかし残念ながら、それを言う大人より子供たちの方が、それが感覚によく落とし込まれている。大人はそれを叫びながら実際にやることは、自分たちの価値観の押しつけをやってしまう。僕も含め昭和世代は善悪二元論で育ってきてしまっているから、頭で理解しても感覚で理解できていない。結局、多様性とか様々な価値観の違いってのは言葉遊びになってしまう傾向が強い。これを子供たちは、肌で感じ取ってしまうから、最終的に学校側や大人への反発や軽蔑へとつがっていってしまう。

かつて大東亜戦争で日本は東アジアや東南アジアへ進出した。日本が行ったのは欧米列強がやったような植民地支配ではない。日本は彼らを同じ日本人として扱い、同化させようとした。これにより、現地の人の価値観は無視され日本の価値観が正しいものとして押しつけられ、反発を招いたのではないかと僕は想像している。学校という中では多様性や様々な価値観を叫びながら、学校運営者側が正しく生徒は未熟なものという発想から、やっていることはひたすら価値観の押し付けであるように僕には感じられた。しかも、その価値観は昭和の価値観であり、自分たちの感覚を振り返ることもない。そして当の本人らは、自分たちは多様性や、様々な価値観をよく理解しいるインテリだと思っているからタチが悪い。

もちろん、そうではない指導者に恵まれた学校や組織もあるだろう。でも、学校に限らず善悪二元論世代が社会のいたるところで要職を占めている以上、こういった事は、あちこちで起こっているのではないだろうか。まさに老害ってやつだ。

「僕のヒーローアカデミア」だが、ここに登場する先生たちが素晴らしい。
ここに登場する先生の多くが生徒と対等の姿勢を持っており、本当に「育てる」ことを行っている。もちろん先生と生徒という立場の違いはあるが、あくまでも生徒と人として対等に接している。今の学校現場では生徒に長時間接して細かな指導をすることや、単純に生徒の話を聞いてやることが生徒と対等であると勘違いしている人が多いのではないかと思う。これはこれで大事なことなのかもしれないが、言ってみれば自己満足の部分が大きい。対等というのはあくまでも心の問題だ。先生と生徒という立場の違いを人としての上下と勘違いしてしまっていることに気付いていない人が多いように思う。この傲慢さを生徒は何かしら感じ取り、心の中では軽蔑が生まれる。

技術的なことや知識的なことは教えることができても、本当に学ぶことは本人にしかできない。本人が学ぶことを介助してやるのが教育という単語の育む部分だと僕は思う。「僕のヒーローアカデミア」に登場する先生たちは、生徒と対等の姿勢で、生徒自身に学ばせるということを強く意識しているように感じられる。そして生徒同士が学び高め合う空気を作り出している。かつての旧制高校などは、こういった学びの土壌があったのではないかと僕は想像したりしている。

まあ「僕のヒーローアカデミア」をこんなふうに理屈っぽく見る人もいないだろうけど、今の子供たちは少なくとも、こういったものを見て育ってきているから、無意識のうちに自分自身の感性の中に、こういった多様性や様々な価値観が存在している事を取り入れていっている。だから我々大人は老害にならないためにも、学び続けなければならない。

もっとも、学ぶことを忘れてしまっていることに気付いていないからこそ、老害になるのだけれど。

 

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シンクロニシティとスピリチュアル

昨日は一山超えて上田市までインストラクターをお願いしている方にお会いしに行った。
現在、上田市では2人の方にインストラクターをお願いしている。Aさん、Bさんとしよう。前回、上田市に伺った時はAさんにお会いした後Bさんにお会いした。Bさんとは前回お会いして以来一度も連絡を取ってなかった。

今回はAさんとだけの約束で、前回と同じ場所で待ち合わせだ。その待ち合わせ場所に着いたほんとその瞬間にBさんから「オンラインレッスンのことで・・・」と電話がかかってきた。今日はこの後ご在宅とのことだったのでAさんのあとBさんにも会うことになった。こうして、前回と全く同じパターンが再現されることになった。

もちろんBさんは今日僕が上田市に来ていることを知らない。しかも待ち合わせ場所に着いたその瞬間の電話って凄いタイミングだ。まるで僕の動きをBさんが観察していて狙って電話をしたような感じがするくらいだ。偶然というには出来すぎだ。
Bさんと電話で話しているとAさんが現れた。Aさんにこの事を話すとAさんは「そういうこってありますよねー」と言っていた。そう、こういう出来すぎた偶然は「そういうことってある」と多くの人が感じていることなのだ。シンクロニシティというやつだ。

シンクロニシティはかの有名なユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」ってやつだ。スピリチュアルな世界ではシンクロニシティが起きるときってのは「宇宙の流れと自分の行動が合致している」とか「願望が現実化する前兆」とか「自分の人生が良い方向に向かっている」といったような意味があるとされている。もちろんスピリチュアルな考え方を否定する人は「単なる偶然」で片付けるだろう。しかし「そういうことってある」と多くの人が感じているようにシンクロニシティそのものは存在している。そして今日の出来事は、SHIN MICを宇宙が後押ししてくれているんだとスピリチュアル的に考えれば、その方が気分がいい。そう考えて気分がいいということは、スピリチュアルの考え方にも一定の正しさがあると考えていいのかもしれない。

そう言えば、上田市への行き帰りの山の中で、自分の内面的な感覚なのだけれど不思議な出来事があった。松の木の伐採現場の横を車で通り過ぎたわけだけど、松の大木がたくさん切り倒されていて、車の中にまで松の木の匂いが充満してきた。普段ならいい匂いだと感じる松の木の匂いが血の匂いのように感じられ、伐採現場がまるで虐殺現場か何かのような感じがして、一刻も早くその場を通り過ぎたい感覚に捉われた。松の木だって生きているから、それが切り倒されているってことは命が奪われていることに違いはない。だから我々人間には知覚出来ないが、現場には松の木の怨嗟の声が満ち溢れていたのかもしれない。

僕は霊感とかスピリチュアル的な感性は限りなく無いのだけれど、昨日はシンクロニシティに松の木の伐採現場での感覚と、ちょっと、そういった感性が僕なりに冴えていた日だったのかもしれない。

我々人間は知覚できる範囲でしか知識を得ることができない。
シンクロニシティも「そういったことってある」とギリ知覚の範囲に入っているからスピリチュアルなんかでも盛んに語られたりするわけだ。まったく人間の知覚の範囲に入ってこないものは、当然ながら我々はその存在を知ることはもちろん想像してみることすらできないわけだ。フランシス・ベーコンの「種族のイドラ」ではないけれど、人間であるということは、人間としての感覚しか持ち合わせていないわけで、その視点からしかものを捉えることができないし、それによる思い込みや偏見も生まれる。
全く別の知覚を持ち合わせた存在から見たら、シンクロニシティも至極当然な論理的な出来事かもしれないし、我々が言う虐殺現場と松の木の伐採現場は同じようなものなのかもしれない。

社会的には論理が求められる。ディベートを行っても、エビデンスを揃え、より論理的な方に軍配が上がる。しかし論理を振り回せるのは我々の知覚の中でもしっかりと知覚できる範囲の知識においての話だ。シンクロニシティのようにギリ知覚の範囲の知識では論理的に話すことは出来ない。「シンクロニシティが見られましたので当社の経営方針を・・・」などと言い出したら、みなポカーンだろう。

しかし我々が種族のイドラに捉われる以上、何か判断を迫られた際には、シンクロニシティのようなギリ知覚の範囲に引っかかってくるものに対しても真摯に考えてみる事が場合によっては有効なのかもしれない。

学びを止めたら浦島太郎

SHIN MICのサイトを立ち上げようと思い立ったのが年末、そこから久々のWordPress、そしてサイト運営の準備と、スタートする前から四苦八苦している。笑

4年間の学校勤めの間は、こういった関係からすっかり遠ざかってしまったために完全に浦島太郎状態だ。WordPressも4年前に比べるとエディターは変わってるは、かつて使ったプラグインもいろいろと変わっているはで現在に追いつくのに苦労している。

そして今日はGoogleアナリティクスを設置しようとして???状態に。なぜか何回作り直しても肝心のビューが表示されない。調べたら、GoogleアナリティクスもGoogle アナリティクス 4 プロパティなんていう第4世代になっていたようだ。安直に名前変わったんだな!と思いながら、何回もやり直していたわけだけど。笑

しかも、従来のユニバーサルアナリティクスからは大きく変化している。なんていうか、Google アナリティクス 4 プロパティはユニバーサルアナリティクスとは、分析の思想そのものが違うという感じをうける。今までのセッションを中心とした考え方から、ユーザーの行動に重点を置くような考え方に変わってきている。しかもAIによってユーザーの行動予測まで行うようだ。

今後を考えれば当然、Google アナリティクス 4 プロパティがいいんだろうけれど、ユニバーサルアナリティクスでないと塩梅が悪い事情があり、今回はユニバーサルアナリティクスでプロパティを作成し、そこにGoogle アナリティクス 4 プロパティを接続することにした。普通にプロパティを作っちゃうと、Google アナリティクス 4になっちゃうから、「プロパティを作成」をクリックしたら、下の図みたいに「詳細オプションを表示」をクリックして、「ユニバーサルアナリティクスプロパティの作成」をオンにしてやると、一気に新旧のプロパティの作成ができる。ここで作った新旧プロパティは接続できるようになっているから、その状態で使うことにした。

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4年前、学校に勤める前にGoogleが検索にたいする考え方を大きく変え始めていたのは感じていたから、Googleアナリティクスの変わりようは、ある意味、しっくりとはくるんだけど、浦島太郎状態は否めない出来事だった。

もちろんIT関係は変化速度がとても速い世界だ。検索関係だけとってもひと昔前に皆がやっていた検索エンジン対策なんて、今では通用しないものばかりだ。

IT分野の発展によって社会全体が大きく変わってきたことは誰もが感じていることだと思う。仕事も人との繋がり方もお金も娯楽も、あらゆるものが変化してきている。その変化は時代の常識を変えていく。

新しい世界で生きるためには、自分自身をアップデートしていくしかないわけだが、僕は学校に勤めて強く感じたのは、その時代の先端の人間を作っていくはずの学校が、もっともこのアップデートから取り残された場所の1つだということだ。それはIT機器の導入という意味ではない。ものの考え方や捉え方、いわば思想が取り残されているということだ。

もちろん、この変化に対応することであったり、人権だったり、環境問題だったり、異文化理解だったり、表面上の言葉では立派な表現をするが、肝心の中身の思想や体制は昭和で止まっている。学校という閉鎖された環境で大学卒業後から何十年も過ごした人たちが学校運営をしているのだから、ある意味、仕方がないことなのかもしれない。とにかく既に次世代の人間を育てるのに十分な環境ではなくなってしまっているように僕は思う。

時代についていくために、どこかで学校も今までの我々の常識にある形から別の形に変わっていくのかもしれない。

常識は時代と共に変わっていくものなのだから。

“麒麟がくる”最終回

何気に楽しみに毎週見ていた大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回だった。
信長の人物像も今までにない斬新な描き方だったし、重要人物として架空の人物も多かったり、松永久秀の平蜘蛛も光秀の手に渡るしで、かなり自由に創作していたから、本能寺の変にどう持っていくのか楽しみに見ていた。

大河ドラマの中の光秀と家康は仲良しだったから、個人的には光秀=天海説を採用するのかと思って見ていたけど、信長の暴走を止めるために挙兵という、ある意味、王道的な終わり方だった。麒麟がくる世を江戸の太平として捉えれば、この説がドラマの中で採用される確率は高いと思ったんだけど、そうはならなかった。笑

本能寺の変は戦国最大のミステリー事件だから昔から色々な説がある。
上に書いた光秀=天海説は、家康の参謀的な役割を果たし、徳川幕府の基礎を築く上で活躍した天海僧正が実は明智光秀だったとされる説だ。この説は歴史学者のほとんどからは却下されてしまっているが、もちろん、こんな説が出てくるのには理由がある。興味がある人は是非、調べてみて欲しい。昔からあるオーソドックスな説としては、野望説、怨恨説、黒幕説があるが、どの説も、もっともらしい部分もあるが説得力には欠けるものが多いと思う。結局、大河ドラマで描いていたように信長の暴走を止めるために本能寺の変を起こしたってのが、一番、説得力があるのかもしれない。

なぜ、光秀が謀反をおこしたのかは未だにはっきりとは分かっていない。もしかしたら、大した理由はなく突発的に信長にブチ切れただけのことなのかもしれない。明智光秀だって人間なんだからその可能性がないとは言い切れない。でも、それを検証しようとすれば、光秀の性格や信長との関係性とか、当時の武士の感覚等の膨大な背景を調べる必要が出てくる。

結局のところ光秀本人にしか分からないことなのかもしれないが、それでも、この「なぜ?」を考えることは大切なことだと思う。「なぜ?」を考えることによって、当時の歴史についての知識が深まるからだ。そして当時の知識が深まったら、「他に方法はなかったのか?」とか、「自分だったらどうする?」を考えることが歴史を学ぶ時に必要なことなんじゃないかと思う。

学校の歴史の授業では一般的に正しいとされる史実を教えるだけで、「なぜ?」を考える作業をあまりさせない。もっとも、それを片っ端からやっていたら、とてもやり切れないという現状はあるのだけれど。

今の学校では昔に比べると近現代史の比重が大きくなっているみたいだけど、それでも、明治から昭和にかけての戦争に対して「なぜ、日本は戦争をしなければならなかったのか?」「なぜ、戦争を回避できなかったのか?」逆に「戦争を回避するためには、どうすればよかったのか?」を真剣に考えさせることをしないのではないだろうか。それを真剣に考えれば、対外的要因、国内要因、組織的要因と、いろいろな要因について学ぶ必要があり、そして多くを考えさせられるはずだ。

僕が戦国時代に初めて触れたのは、小学校低学年の時に読んだ豊臣秀吉の伝記だ。伝記と言っても絵本みたいなもので、当然、秀吉が主役だから、家康は悪者のイメージだし、光秀は馬鹿なイメージだった。もちろん高校生になる頃には、明智光秀というのは優秀な人だったということを知るようになる。それでも三日天下という言葉とともに光秀は愚かだったというイメージが付きまとった。

対米戦争についても「無謀な戦争に日本は突入していった」という言葉だけで歴史を習ってしまうと、そこには「馬鹿な軍が権力を握ってしまったから」というようなイメージがつきまとい、単純に軍国主義はいけない!というところで思考がストップしてしまう。実際に戦後教育を受けた僕らは、そんな感じだったような気がする。そして、それで自分は歴史の教訓を学んだ気になってしまう。
ところが、当時の軍ってのはとてつもなく優秀な頭脳の人たちの集まりだ。それが、なぜ、対米戦争に踏み切らなければならなかったのか、なぜ、回避できなかったのかを調べ、考えるということをしなければ、本当の歴史の教訓は得られないし、同じような危機に陥った時に同じ轍を踏むことになる。

歴史の多くは調べ考えても本能寺の変と一緒で答えは分からないことなのかもしれない。
でも、それを考えることが歴史を学ぶってことなんじゃないかと思う。

 

とりあえず次の大河ドラマは渋沢栄一らしいから、これまた楽しみだ。

論理を超える「なんとなく」

久しぶりの円安相場でドル円が少し上昇してきている。先ほど105.75をつけた。

相場分析を大雑把に分けると、各国の経済状況や金融政策、政治などを分析して相場予測するファンダメンタルズ分析と、過去の価格推移から相場予測を行うテクニカル分析に分かれる。多くのプレイヤーはファンダメンタルズに気を配りながらテクニカル分析がメインなんじゃないかと思う。

実は僕は102円台でガッツリとドル買いをした。しかし102円台当時、ファンダメンタルズ的にもテクニカル的にも積極的にドル買いをする要素はなかった。どちらかと言えば、まだ下がっていく要素の方が大きかったのではないかと思う。ではなぜ僕はドル買いをしたかというと、なんとなく「もうこれ以上、下がらねえんじゃねえかな~」と思ったからだ。

そう、「なんとなく」なのだ。

もちろん、この「なんとなく」は過去の経験からくるものであることは確かだ。世間の声だったりチャート上の値の動き方だったり、そんなものから「なんとなく」を感じ取っているからだ。でも、あくまでも「なんとなく」であって明確にその理由を説明することはできない。

そもそも相場の動きってのは、ファンダメンタルズやテクニカルといった論理を逸脱して動く。だから上がるか下がるかだけなのに難しい。しかもそこに参加すると、欲望と恐怖という2つの感情が絡み、さらに判断が難しくなる。

相場は論理を逸脱して動くにも関わらず、人は様々な手法を駆使して、それを分析する。分析するという行為は、そこから論理的に答えを導こうとする前段階の行為だ。もちろん、相場が全く論理に当てはまらないというわけではない。だからこそ世界中の人が分析を行うわけだし、逆になんの分析もせずに相場に飛び込むのは自殺行為だろう。

人という生き物は、とにかく論理を大切にする生き物だ。戦争をするにも大義名分がなければ出来ない。論理がなければ、ほとんどの場合、動けないのではないかとさえ思う。しかし、今回の僕のように論理に従わずに「なんとなく」つまり勘に従った方が正解であることもあるわけだ。

例えば、その時は論理的に正しいと思っても、なぜか心がそれを嫌がるなんてことがある。この場合、大抵が、後になってみると心の声に従った方が正解であることが多かったりする。

論理は大切だけれど、その論理にも得意な分野と不得意な分野がある。しかし、たとえ論理が不得意な分野であっても人は論理を偏重してしまう傾向がある。だから、自分にとって正しい判断を出来る限りしようとすれば、どのような分野や、どのような場合に論理が通用しにくいのかを予めよく考えておくことが重要だ。それが分かっていれば、判断の際、論理偏重にならないように意識することができる。

論理は大切だけれど、時として直観や感情が論理を上回る場面があるということだ。

これを考え、身をもって実感することは大きな学びであると思う。