「真夜中のドア~stay with me」とものの価値
松原みきが約40年前にリリースしたデビュー曲「真夜中のドア~stay with me」が、今、海外で大きな注目を集めている。
Spotifyのバイラルチャート「グローバルバイラルトップ50」では2020年11月頃から急上昇し、2020年12月には18日連続で世界1位を記録。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、オーストラリア、インド、シンガポール、フィリピンなど各国のバイラルチャートでも1位となった。
YAHOOニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/shibatomonori/20210219-00223308/
聞いてみたところ、ちょっとノスタルジックな感じのする曲だ。そして当時のミュージックビデオの中のファッションが現代とあまり変わらない事に驚いた。
僕は音楽には疎いので、「Spotifyのバイラルチャート」ってのが何のことか分からなくて調べてみた。
Spotify(スポティファイ)は、スウェーデンの企業スポティファイ・テクノロジーによって運営されている音楽ストリーミングサービス。2021年現在、2億3,200万人(うち有料会員数1億3800万人)のユーザーを抱えており、音楽配信サービスとしては世界最大手である。パソコン・スマートフォン・タブレット型端末・ゲーム機などの電子端末に対応している。日本では2016年9月にサービスが開始された。
ウィキペディア
バイラルチャートってのは、ストリーミングの再生回数とは異なり、Spotifyのユーザーが曲をSNSでシェアした回数など、ユーザーの共感に基づくランキングのようで、ランキングされるだけでも大変な事なのに、18日連続で世界1位なんてのは、とてつもない事のようだ。しかもそれが40年前にリリースされた曲だというのだから驚きだ。
もちろん40年も前にリリースされた曲が、こんなふうに脚光を浴びるようになったことには当然、その背景がある。もともと、70〜80年代の日本のシティポップが海外の音楽ファンの間に浸透しており、そこへインドネシアで活動する女性シンガーが「真夜中のドア~stay with me」をカバーしてYoutubeに投稿したことがきっかけになったようだ。詳細は上のYAHOOニュースの記事を見て欲しい。
この曲が世界的なヒットになるための立役者がいたわけだが、そもそも、この曲が人々の共感を呼ぶ要素を持っていなければ、立役者がいたところで世界的なヒットになることは有り得ないだろう。この曲はもともと現代の世界の人々に共感を呼ぶ要素を持ち合わせていた。それが立役者によって知れ渡ったということだろう。そして世界的なヒットにより商業的な価値も生まれてくる。この場合「この曲はもともとそれだけの価値があった」みたいな言い方をされる。つまり価値は人々に共感されたあとからついてくるのだ。
商業的な価値の大元は人々の共有意識から生まれてくるものだと言ってもいいかもしれない。「これは便利だ!」「これは美味しい!」といった共有意識が価値を生み出す。例えば僕が書いた手紙を大切に持っていてくれている人がいたとしよう。その人の人生の中でその手紙は大きな意味を持ったもので、その人の中ではとても価値があるものだ。でも、その手紙はおそらく二束三文でも売れない。それに対して歴史上の人物や有名人の手紙なら、それなりの値段がつく。歴史上の人物や有名人の人生は、多くの人に知られ共有されているのに対して僕の人生についての知識は人々に共有されていないからだ。
だから宣伝活動というのも、人々の共有意識を作る作業だ。「真夜中のドア~stay with me」のように、もともと人々に共感を呼ぶ要素があるものなら、それを知ってもらうだけで共有意識が生まれる。特にSNSは共感が伝播しやすい媒体だから共有意識の形成もスピーディーだろう。また宣伝活動では、そのものを知ってもらうだけでなく、それに対するイメージを作っていく側面がある。つまりイメージという共有意識を作っていくわけだ。それをしていくことによってイメージが価値を持ち始める。ブランドなんかがそれだ。場合によっては商品そのものが持つ共感を呼ぶ要素よりもイメージという共有意識によって価値を生み出しているケースが多々あるのではないかと思う。
共有意識が付随したものが商業的価値を生み出す一方、さきほどの手紙のように個人的に価値はあっても商業的価値の無いものがある。でも商業的価値が無くても、この個人的な価値が最も確かな価値なのなのかもしれない。商業的価値は人々の共有意識が作り出すから、その共有意識が変化すれば価値を失う可能性がある。ブランドで言えば「ブランドに傷がつく」というやつだ。個人的な価値は自分の中での価値だから共有意識が作り出す価値よりも確かな価値であるケースが多いのではないだろうか。
人は共有意識が付随したものに重きをおく傾向がある。それは物に限ったことではなく、言葉でもそうだ。共有意識が付随している有名人や権威からの言葉は例え内容が薄くても比較的、重きを置かれることが多い。それに対して一般人の言葉は、なかなか顧みられない。その人がSNS等の媒体を使って主張を繰り返し、それに賛同する人が徐々に増え、共有意識が形成されて初めて重きを置かれるようになる。物であれ人であれ社会的には共有意識が付随して初めて価値を持ち始めるということだ。
新たに何かを創造することというのは、まだ共有意識が付随していないけれども、人々の共感を呼び起こす要素を持った物や人を見出し、そしてそれらを多くの人に知らせて新しい共有意識を形成する作業と言えるかもしれない。
そういう意味では、共有意識が付随していないものに対して、純粋に共感を呼び起こす要素があるかを見る感覚を養いたいものだと思う。
そのためにも多くの学びが必要なのだ。