ストーヤ
ニューズウィークに人生相談のようなコーナーがある。
その相談内容がゴシップ誌なら分かるけど、ニューズウィークがなぜこんな内容を掲載しているのだろうか?と少し違和感をおぼえる内容が多かったりする。そして、その相談に答えるのは、専門の相談員だったり小説家だったりと、アメリカではその道の有名人だろう。その中にちょくちょく見かけるのが「ストーヤ(ポルノ女優)」という名前だ。なぜにポルノ女優?と思ったりもするわけだけど、大抵は相談内容に性的な内容が含まれるときに登場する。その回答もなかなかぶっ飛んでいて、例えば「アナルセックスはどう?バイブレーターは?」と、ニューズウィークとは思えないような単語が並んだりする。ところが、今回のニューズウィークでは性的な内容が含まれない相談に回答しており、しかも回答もいたって普通な内容だった。
普通の相談も担当するんだ・・・と思いながら、ふと、ストーヤ(ポルノ女優)とは何者なのかと気になり調べてみた。
ストーヤ(Stoya、1986年6月15日[1] – )は、アメリカ合衆国出身のポルノ女優。この国のポルノの世界にありながら、爆乳に爆尻などといった『人材の典型像』とは異質の、長身に華奢な洗練された身体像―いわばファッションモデルを想起させ得る異色の存在としての認知を有するポルノスターであり[3]、AVNアワードを始め数多の賞与を獲得してきた[4]。
とウィキペディアにはあり、さらにセルビア人とスコットランド人とプエルトリコ人の血を引いているとも書かれていた。画像検索すると、その容姿はアメリカ人と言うより、たしかにヨーロッパ風な感じがするから、なるほど!って感じだ。
調べていて目を引かれたのは、ストーヤがジョルジュ・バタイユに傾倒しており、その小説「眼球譚(がんきゅうたん)」を映画化したという話だった。
Story of the Eye: Priest
11×14 print of my storyboards for an explicit versions of chapters 11 &12 of George Bataille’s Story of the Eye
Available for purchase https://t.co/QFiEmUY7tk pic.twitter.com/ANBe63c7Al— Stoya (@stoya) January 21, 2018
上のように、twitterでも眼球譚のことをツイートしていた。
ジョルジュ・バタイユってのは、フランスの哲学者であり思想家で、日本でもけっこう人気があって、ファンや研究者が多いんじゃないかと思う。ウィキペディアには以下のようにある。
ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897年9月10日 – 1962年7月8日)は、フランスの哲学者、思想家、作家。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。
そしてこのバタイユの眼球譚という作品だが、ウィキペディアにも、そのあらすじが書かれている。読んでみると分かるが徹底した倒錯と背徳の異常な世界だ。この異常な世界はバタイユ自身が持っていた二面性から来ているものだろう。
ストーヤはこの倒錯と背徳の世界をポルノとして映画化しているわけだから、一部アップされているものを見ても、それなりにエログロだ。でも、少なくとも僕は見ても性的興奮は感じないし、芸術的要素が大きい作品のような気がする。
いちおうVIMEOにあったものを貼り付けておくが、こういった内容に抵抗のある人は見るのは止めておいた方がいいかもしれない。
the eye // tease from Four Chambers on Vimeo.
とにかく、このストーヤという人はポルノに思想と芸術を持ち込み、新たな模索を行っているように感じられる。ジャンルは何にせよ、新たな世界を模索する力というのは、すごいものがあると僕は思う。
眼球譚もバタイユの小説だが、純文学の世界は比較的、倒錯した世界を描いているものが多いような気がする。谷崎潤一郎の「痴人の愛」なんかは性的倒錯の要素が大きい作品だろう。
僕が勤めた学校では「痴人の愛」を一部のクラスで教材として使っていた。しかし、学校という環境では「痴人の愛」は純文学だから推奨するが「ゴールデンカムイ」は漫画だから排除するといったような風潮があった。そして、そんなことを主張する人たちは案外「痴人の愛」も「ゴールデンカムイ」も読んだことがなかったりする。おそらく、このストーヤとその背後にあるジョルジュ・バタイユの思想や哲学について、いくら話しても彼らの頭の中では「ポルノ」の3文字で全てが終わってしまうだろう。そして彼らは「常識的には・・・」「一般的には・・・」という言葉が大好きだ。常にこの言葉を使って物事を進めていく。
常識は人それぞれ違ってくるし、時代が変われば全く違ったものになる。だから「常識的には・・・」「一般的には・・・」という言葉を頻繁に使う時点で、前進が止まり、自分の小さな世界観から抜けられなくなっているということだと僕は思う。
ちょっと話がそれてしまったが、今日はストーヤという人について学べて良かったと思う。
やはり、何事も調べてみれば大きな広がりを持つということだ。